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Niseko Powder History【第13回】「ひらふ」のいわれ

| カテゴリ: Niseko Powder History

「ひらふ」のいわれ

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※画像は1987年のポスター

 

「グラン・ヒラフ」にも生かされている「ひらふ」という地名について、前項を少し詳しく続けましょう。ひらふの語源には、阿倍比羅夫説のほか、アイヌ語のビラ(崖)に由来するという説など、複数の見解があります。しかし支庁誘致の決定だともなった日本書紀の一節が、やはりよく知られるところ。

日本書紀の斉明天皇のくだりには、阿倍比羅夫が、7世紀半ばに大船団を率いて北海道に3度ほど遠征し、異族と戦い、太古からの在地集団と公益を行ったとあります。今日、異族とはサハリンや北海道北部、南千島に暮していた北方のオホーツク人、在地の人々とは、縄文時代より北海道に暮していた続縄文人と考えられていますが、このとき阿倍は、寿都湾から上陸して後方羊蹄(しりべし)に郡領(律令制度における地方官)を任命して帰ったとされます。その場所が実際にどこなのか。遺跡も見つからず、その後の文献にもあらわれないので、よくわかっていません。北海道ではなく津軽ではないか、という異説もあるようです。

しかしいずれにしても、「ひらふ」という地名はこの伝説がもとになっているとされ、さらにグラン・ヒラフと向き合う羊蹄山の旧名である後方羊蹄山(しりべしやま)も、この日本書紀の一節から取られたと考えるのが自然なようです。後志とは、「シリ・ベッ」(山の川)というアイヌ語が語源です。この山とは、羊蹄山でしょう。

 

Origin of “Hirafu”

 

“Niseko Grand Hirafu” is the center resort of the Niseko area. Where did the name “Hirafu” come from? As we saw in the previous chapter, the area where Hirafu is located is called Yamada, name taken from the great pioneer of the area. Various stories behind the root of the name “Hirafu” but the one with most certainty is that it was taken from an episode written in “Nihon Shoki” which is the oldest written chronicle in Japan.

On volume 26 of the Chronicle, it reads that a group lead by a man named “Abe-no-Hirafu” made their way to Hokkaido a number of times in the 7th century. During his expedition, his team fought pirates, made their way to Hokkaido and made trade with the locals (Ainu people). It is also said that Abe-no-Hirafu assigned a general to manage the “Mt. Shiribeshi” area, but there has been no actual evidence of this.

This story from Japan’s oldest chronicle seems to be where “Hirafu” was named after. Mt.Shiribeshi, which is the former name of Mt.Yotei also takes it’s name from the Chronicle. In the Chronicle, it reads that “Shiri-Bet” is an Ainu word meaning “Mountain River” and it is believed that this is referring to Mt.Yotei.

 

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

Today’s Mt.Yotei & Grand HIRAFU & Pisten Bully

| カテゴリ: 写真, 雑談(独り言)

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Feb. 27, 2018

今日も良い日なりそうです!

良い1日を!!

Niseko Powder History【第12回】鉄道が開いた未来

| カテゴリ: Niseko Powder History

鉄道が開いた未来

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鉄道の開通前後に光を当ててみましょう。

倶知安の歩みにとって、そしてニセコの山岳スキー史にとってとりわけ大きなできごとが、1904(明治37)年の秋に起こりました。函館と小樽(現・南小樽)を結ぶ、北海道鉄道の函樽(かんそん)線(当時は民営。現JR函館本線)が全通したのです。開業は11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)でした。倶知安には、倶知安駅と大曲駅(のちに比羅夫駅)が開業。大曲とは、駅を挟んでこのあたりの鉄路が、屈曲する尻別川に沿って大きく曲がっていたからです。これまでの不安定な道路や川による交通しかもたなかった倶知安が、文明の最先端のインフラを手にすることになりました。

函館から噴火湾沿いを北上してきた鉄路が、ニシン漁によって当時たいへん栄えていた岩内や寿都を通らずに、なぜ現在のルートに建設されたのでしょうか。黒松内低地帯と呼ばれるように、長万部から分水嶺を越えて黒松内、そして寿都へ抜ける地形を利用する方がはるかに合理的です。これには諸説があります。まず網元の一部からは、鉄道の汽笛や振動がニシンを遠ざけてしまう、とする反対がありました。事実江戸時代の松前藩はニシン漁期には鉄砲や鐘の使用を禁じていましたし、石狩湾岸を通る北海道で最初の鉄道工事では(1879〜80年の幌内鉄道)、張碓や銭函の漁師たちが反対運動を起こしました。

また、日本海沿岸を走らせると大国ロシアに対して不用心にすぎるという懸念もありました。まさに函樽線の工事が進んでいたこの時代、極東進出をはかるロシアはウラル山脈の東から日本海対岸のウラジオストクめがけて、7000キロを超えるシベリア鉄道を怒濤の如く建設中だったのです。さらに、一帯の内陸部には樺山や京極、曽我といった華族の不在地主が大農場を経営していて、拓殖の最前線となっていました。日本海沿岸に比べてはるかに大きな開墾可能地をもつ沿線の将来性と、彼らの政治力が鉄道を呼んだ、という見方もあります。北海道鉄道の創業社長は、自身が第4代北海道庁長官の時代に北海道の鉄道路線を構想した、北垣国道でした。

明治30年代初頭、開拓が進み農産物の出荷や生活物資の調達には、岩内までの馬が頼りでした。倶知安から岩内までは一泊二日。夜明け前に出発して、小沢の南部茶屋で昼食。馬を休ませたあと峠を越えて、岩内着は夕方になりました。岩内には人と馬がいっしょに泊まれる馬宿がありました。

鉄道の開通は、インフラを岩内港に頼っていた状態からの独立を可能にしました。なにしろそれまでは郵便も、小樽を経由するより住所を「岩内港奥、倶知安村」と書く方が早く着いたのです。当時は札幌よりも大きな都市だった小樽と直接結ばれた意味は図りしれません。

羊蹄山麓には広大な原始林が広がっていました。開墾のときは障害でしかなかった立木ですが、鉄路によって原木の大量輸送が可能になったいま、それは一転して大いなる資源となりました。倶知安駅と比羅夫駅には土場が設けられ、小樽への搬出を待つ丸太がつねに山積みされるようになります。また菜種や菜豆(インゲン豆や大豆類)。軍馬用のエン麦などの農産物が小樽や札幌へ容易に出荷できるようになりました。当時の所要時間は小樽まで3時間を優に超えるものでしたが、駅を中心に商店や運送店、飲食店などがあつまり、まちの骨格が生まれていったのです。

 

1906(明治39)年4月には、各地に道庁の出先機関を置く、北海道独自の戸長役場の制度が二級町村制に改められ、官選村長を中心にした自治の体制が生まれます。倶知安は村長を持つ倶知安村となりました。まちの人口も1907(明治40)年にはすでに1万5000人を突破するなど、急ピッチで増加しました。駅前通の原型もこのころ整えられています。

1910(明治43)年には、後志支庁(現・後志総合振興局)が置かれることになります。これには前史の説明が必要でしょう。

明治以降北海道の行政組織は、開拓使の時代(1869〜82年)と三県一局(函館県・札幌県・根室県・農商務省北海道事業管理局)の時代(1882〜86年)を経て、今日までつづく北海道庁がつかさどることになります。1897(明治30)年、その後ながくつづく支庁制度が設けられ、北海道は19の支庁に分けられました。倶知安が属したのは、岩内支庁です。周辺には小樽支庁、寿都支庁がありました。

鉄道開通によって多くの入植や投資を集めて急成長をとげた倶知安は、明治40年代に入ると、岩内、小樽、寿都、3つの支庁の統合と誘致をめざします。今日でいう大々的なシティプロモーションです。中心になったのは、倶知安郵便局や倶知安高等小学校(ほどなく村に移管)を創立した河合篤叙(あつのぶ)と、言論人の山田羊麓(ようろく)。

出雲団体のひとりだった河合は、支庁制度がはじまった1897年に倶知安郵便局を開きました。当時は国による設置が追いつかなかったため、郵便局は各地の有力者が設置したのです(のちの特定郵便局)。河合はまた1905(明治38)年には、信仰の対象となっていた羊蹄山への登山道を同志たちと開削して休憩所を設け、蝦夷富士(羊蹄山)登山会を立ち上げていました。羊蹄山は、原始林をしたがえた群を抜く高さと、ひらふから仰ぐとりわけ秀麗な山容で人々の心をひきつける独立峰です。太古から先住の人々はもとより、厳しい開墾に明け暮れる移民たちにとっても、さぞや特段の意味や力をもった存在であったでしょう。その羊蹄山にちなむ名を掲げる山田の本名は山田実次で、倶知安ではじめての新聞「新京報」を発刊したほか、1916年発行の倶知安町史などを執筆しています。

彼らが支庁移転の論拠としたのが、まずなんといっても地域に鉄道を持つ圧倒的な利便性。そして、8世紀にまとめられた日本最古の正史である「日本書紀」の第26巻、斉明天皇の時代の記述です。そこには、7世紀に畿内の将軍である阿倍比羅夫(あべのひらふ)が大船団を率いて蝦夷地(北海道)にやってきて、後方羊蹄に役所を設けたと記されているのです。山田らはこの記述をもとに後志地方の中心は倶知安であり、昔から政治はここで行われていたと主張。だから小樽・岩内・寿都支庁をひとつに統合した上で倶知安に新支庁をおくべきだという運動を展開しました。この時代の日本では、欧米列強やロシアの圧力に抗するために、国家神道を軸にした国民教育が進められていました。そうした時代背景もあり、彼らの主張が河島醇(あつし)道庁長官を動かし、1910(明治43)年3月、小樽、寿都、岩内の各支庁が統合されて後志支庁となり、支庁は倶知安におかれることになったのです。また函樽線は、交通網の一元化をめざす国策として進められた鉄道国有化にもとづき、1906(明治39)年に国有化されていました。これを機に「大曲駅」は「比羅夫駅」となりますが、この改名にも支庁誘致運動が関わっていたのでしょう。

支庁設置以降、倶知安の発展はさらに盤石なものとなります。営林署の設置(大正2年)や役場庁舎の現在地への移転新築(同3年)、そして町制施行(同5年)、倶知安中学校の開校(同11年。第一期生96名)などがつづきました。

 

Railroad To The Future

 

Evolution in the train network brought huge change to Kutchan.

An epic making evolution took place in the Autumn of 1904. The date was November 3rd. This was the day when a train network fully connected Hakodate and Otaru. Two train stations opened in Kutchan town, Kutchan Station and Hirafu Station. Up until this day the only way to get to Kitchen was either driving on rough road or a ride down the river.

The train network also changed the logistics of Kutchan. Before the train network, all logistics of Kitchen was dependent on Iwanai port that people wrote “Deep Iwanai, Kitchen Village” on parcels when sending packages to Kutchan. At the time, Otaru was a larger port city than Sapporo, and Kitchen had direct connection to the large city with the train network.

Kutchan, vast land in between Mt.Annupuri range and Mt.Yotei was covered by virgin forests. These forests was a large obstacle to the pioneers. However, now with the train transportation system in place, these virgin forests became gold. Trees were cut and piled up in front of both Hirafu and Kitchen stations waiting to be delivered to Otaru. Agricultural products also became a good export item. It took a little over 3 hours via train from Kitchen to Otaru, but this was much quicker than what used to be a 2 day horse ride to Iwanai port. Shops, restaurants, and inns started business around the train station and started to form a town.

 

In 1906, Kutchan became an independent village and by 1907, the village had a population of over 15000! About the same population we have now in 2017!! Amazing how the village grew so rapidly and Kutchan station street we know now was pretty much built at this time.

 

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
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