美しい時代へ-東急グループ Grand HIRAFU

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春紅葉

| カテゴリ: 写真

May. 17, 2018

秋の紅葉ほど鮮やかではなけど
新緑が多い春紅葉も良いですよね!

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Spring

| カテゴリ: 写真, 雑談(独り言)

Apr. 19, 2018

本日も最高の春スキー、スノーボード日和です!
ただ日差しが強いので日焼け対策をして滑ることをお勧めいたします。

グラン・ヒラフは5月6日まで営業いたします!
皆様のご利用お待ちしております。

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Niseko Powder History【第16回】山スキーと競技スキーの時代

| カテゴリ: Niseko Powder History

NPH

山スキーと競技スキーの時代

 

レルヒが伝えたスキーは、どのように広まっていったでしょうか。再び中浦皓

至さんの研究をもとにまとめてみましょう。

レルヒの教えを受けた中で、札幌の月寒第二十五連隊の三瓶(さんべ)勝美らは、旭川の講習から帰隊するとすぐ3月14日から1週間にわたり、月寒連隊の一角(月寒小学校裏のくり山)で講習会を開いています。これは羊蹄山に挑むひと月ほど前のこと。軍人が40名ほどと、北海道大学の学生が6名、ほかに札幌中学(現・札幌南高校)や北海中学(現・北海高校)の教員などがいました。

北大生たちはたちまちスキーに魅せられました。スキー熱の急速な高まりは、わずか半年後(1912年9月)にスキー部が誕生したことでも見て取れます。これは日本で最初の大学スキー部でした。そのシーズン終盤、1913(大正2)年の2月には第1回の部員総会を札幌の藻岩山山頂で行い、同月の紀元節(現・建国記念の日)には手稲山(札幌)初登頂に成功しています。

北大スキー部の誕生には、月寒第二十五連隊の三瓶勝美らの支援がありましたが、三瓶はまた、札幌の鉄道逓信管理局や北海道師範学校、札幌中学や北海中学などのスキー部誕生にも支援を惜しまず、これらが集まり、北大スキー部が創設された年(1912年)の暮れには、早くも札幌スキー俱楽部が結成されました。

 

北大のスキーにちなむきわめて重要なエピソードがまだあります。学生たちは、実はレルヒ来道の前からスキーを知っていました。教えたのは、スイス人のドイツ語講師ハンス・コラーです。

レルヒ来道の3年以上前、1908(明治41)年初秋に予科のドイツ語講師として赴任したコラーは、授業の中で、ヨーロッパにはスキーというたいへん便利で痛快なスポーツがあると紹介します。この話に学生たちが俄然興味を示し、ぜひ実物がみたいとせがみました。コラーが取り寄せたスキーが届いたのは、1910(明治43)年の春先。それはノルウェー式スキーでした(ただし2本ストックはありませんでした)。学生たちは1台を交替で使いまわしながら、構内を流れるサクシコトニ川がつくる丘陵を滑ります。コラーはドイツ語学習の一環にもなるだろうと教則本も輸入していたので、道具の使い方や滑り方はそこから研究されました。翌11年2月には創成川沿いの馬橇屋に無理矢理頼んでもう数台(スキーのような道具を)作ってもらうと、大学構内などで滑りはじめます。こうしてレルヒ来道の前にすでに北大生の中には、スキーに大いに興味を持ち、実際に滑っていたグループがあったのです。

コラーは自ら指導することはなかったのでしょうか?実はコラーは、それまでスキーを実際にすべったことはありませんでした。中浦さんは、「学生たちは先生滑って見せてください!とさかんに言ったと思います。でもきっと、『今日はおなかが痛い』とか『少し風邪気味なので今度にしよう』、なんて言ってごまかしていたんじゃないでしょうか」と笑います。コラーが実際にスキーを履いたのはその10年以上あとのこと。

日本のスキー史ではしばしば、「レルヒが伝えた一本杖のリリエンフェルト式は、1916(大正5)年、北大(当時は東北帝国大学農科大学)水産学科の遠藤吉三郎教授がノルウェー留学から持ち帰った二本杖スキーに取って替わられた」、といわれます。しかし中浦さんは、話はそんなに単純ではないだろうと言います。

「旭川の講習会ですでにレルヒは、テレマークやクリスチャニアといったノルディックスキー技術も教えています。この事実はこれまであまり知られていませんでした。遠藤の功績にはとても大きなものがありますが、ポイントは二本ストックを持ち込んだことというよりも、まず、本場仕込みのすばらしい技術を学生たちに実際に見せたこと。そして山野のツアーや平地滑走のおもしろさを伝えたこと。さらには、本格的なジャンプ競技を紹介して、最初の固定ジャンプ台シルバーシャンツェ(札幌の三角山麓北面)を作ったこと。私はこれらが彼の功績だと考えます」

北大スキー部では、大正の中期には二本杖スキーが主流になり、1921(大正10)年1月に無意根山初登頂に成功した際、山中でそのパーティが残した二本杖のシュプールと出会ったスキーヤー(後述する東倶知安村の芳賀兄弟)が感激したという挿話もあります。

 

中学生(旧制)や勤労者にはまだスキーが広まっていない時代。陸軍のほかにスキーに熱心に取り組んだのは、なんといっても学生たちでした。彼らの動機の源泉は、戦争や国家防衛ではなく、自分たちに全く新しい世界を教えてくれたスキーの魅力そのものにあったでしょう。

北海道のスキー史で北大と並ぶ存在が、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)です。全国5校目の官立高等商業学校として小樽高商が開学したのは、ちょうどレルヒが高田(新潟県)に赴任した1911(明治44)年春。初代学長の渡辺龍聖は、北海道の冬に学生が心身の鍛錬に取り組むべきものとしてスキーが最適と考え、翌12年2月に高田で開かれた越信スキー俱楽部の発会式と講習会に、講師の苫米地(とまべち)英俊(のちに第三代小樽高商校長、参議院議員)を派遣しています。苫米地は高田から3台のスキーを持ち帰り、すぐ仲間や学生を集めて練習をはじめました。その初日は奇しくも、旭川でレルヒが講習会をはじめた日の翌日です。10月には、高商にスキー部が誕生。そのシーズンの3月(1913年)には、第1回小樽スキー大会と、小樽スキー俱楽部の発会式が行われました。この一連の動向は札幌とほぼ同時期のことで、これをもって中浦さんは、小樽を「北海道の三大スキー発祥地(旭川・札幌・小樽)」のひとつと位置づけています。北大の場合は校長をはじめとした学校側が教育の視座からはじめた取り組みでした。そして、小樽には多様なスロープが身近にたくさんありました。

新しい文化の定着と発展には、力のあるプロデューサーとなる人物が不可欠です。中浦さんは、「小樽の場合それは高商の苫米地英俊と小樽新聞の奥谷甚吉だった」と言います。苫米地は福井県出身の長野育ち。柔道に打ち込みやがて嘉納治五郎に見込まれて嘉納塾の特待生として東京外国語学校英語本科に進学。英語教師となり、嘉納から「開学まもない小樽高商に行き北海道に柔道を広めてこい」と言われます。大正中期には米英に留学。戦後は参議院議員となりました。終生柔道に関わりましたがその一方で小樽のスキー史においても重要な仕事をなしたのでした。

スキーの宣伝役を務めた小樽新聞の奥谷は、1885(明治18)年小樽生まれ。旭川勤務の時代にレルヒの薫陶を受け、羊蹄山登山にも深く関わった記者。レルヒの旭川講習を連日紙面でレポートしたのも奥谷でした。日清戦争が起こった1894(明治27)年創刊の小樽新聞は、当時函館毎日新聞や北海タイムス(札幌)とともに道内を代表する新聞でした(戦時下1942年の新聞統合令によって現在の北海道新聞に統合)。奥谷はその後倶知安支社勤務ともなり、スキーで羊蹄山登山を行っています。

興味深いことに小樽で最初にスキーが作られたのは、苫米地が高田からスキーを持ち帰る3ヶ月ほど前のこと。パレットという宣教師が下駄屋(笠原榮太郎)に指示をして作らせたものでした。明治、大正から戦前まで、樺太を含めた北方の物流拠点であり金融都市であった小樽には、海外の情報も盛んに入り、銀行や商社、倉庫など多くの企業が活況を呈していました。進取の気風にあぶれた企業家や商人たちにとってもスキーは魅力的な新文化。一般市民の心をもとらえていたのでした。

スキー伝来のわずか10年あまりのち、1923(大正12)年2月には、小樽市の緑ヶ丘(現在小樽商大と住宅地のある一帯)で第1回全日本スキー選手権が開かれています。小樽スキー俱楽部が大日本体育協会(現・日本体育協会)に働きかけて誘致したもので、運営は同俱楽部が担いました。フランスのシャモニーで第一回の冬季五輪が開かれる前年のこと。

大会は2日間の日程で、北海道、樺太、東北、信越、関東、関西、6地域対抗で行われました。種目は距離が1キロ、4キロ、10キロ、8キロリレー。そしてジャンプ、テレマークスラローム、クリスチャニアスラロームの7種目。

距離の優勝は、1キロが小樽中学校の上野秀麿、4キロの秋山広治と10キロの島本孫一はともに樺太の豊原所属。リレーを制したのは小樽商業学校でした。テレマークスラロームでは信越の深澤謹吾が勝ちましたが、クリスチャニアでは北海道の船津皐二が、ジャンプの優勝は小樽高等商業学校の讃岐梅二でした。

結果を見ると北海道と樺太勢の圧勝です。北海道や樺太で盛んに行われていたジャンプ競技や平原コースでのクロスカントリーは、本州の選手たちには経験がなく、「これでは不公平だ」という抗議が運営をゆさぶりました。本州でもレルヒが去ったあとノルウェー式スキーの技術が研究されましたが、それを体系化して教える仕組みが北海道のように発達しなかったのではないか———。中浦さんはそう考えています。北海道では北大製が中心となってヨーロッパの新技術や動向を吸収していました。これはそのちがいが露呈した、興味深いエピソードといえるでしょう。

 

Mountain Skiing and Competition Skiing

 

Lerch brought modern day skiing to Hokkaido. How did what he brought spread?

Just about a month before the Yotei hike, one of Lerch’s apprentice held a one-week skiing lecture in Sapporo, which attracted approx. 40 military men, 6 students from Hokkaido University and several more teachers from nearby highschools.

The Hokkaido University students fell in love with the sport, and 6 months later, the students formed an official skiing club, held the club’s first annual meeting at the peak of Mt.Moiwa on February 1913, managed to hike to peak of Mt.Teine further on in the same season.

Hokkaido University students weren’t the only ones who instantly got addicted to the sport and within the year of 1912, several more skiing clubs formed in schools within Sapporo city, and by the end of the year, these skiing clubs got together and formed “Sapporo Ski Club.”

 

One interesting episode about Hokkaido University Skiing Club. The students knew skiing before Lerch’s arrival. They learned the sport from a teacher from Switzerland who was teaching German language, Mr.Hans Koller.

Koller came to Hokkaido 3 years before Lerch did. In his class he told students story about how this fun sport called sking is popular in Europe. Some students showed great interest and begged Koller to show them what an actual ski looks like. Koller ordered a pair of skis and the skis reached Hokkaido in spring of 1910. Students took turns playing with this new toy, and read the “how-to” book Koller brought with him. The next Winter, the students asked local carpenter to create a similar equipment and allowed them to actually ski in groups.

Did Koller ever become the ski instructor to the students? Apparently, Koller himself have never ridden a ski before! Probably when the students asked Koller to show them an example, Koller would say things like “I’m feverish today” or “must have been something I ate, I have a stomach ache” and tried to talk himself out of it.

Japan’s skiing history often refers to Lerch as the father of modern day skiing, but at the same time mentions hos Lerch’s single stock skiing was quickly taken over by the double stock skiing by 1916.

Can something be taken over that easily? We believe it wasn’t that simple. By the mid 1920’s, double stock skiing was the trend, but when looking back at ski competition photos of those time, we can still see a mixture of both single stock and double stock skiers.

At the time when skiing was not a common sport, those that was motivated on improving their skiing skills other than the Japanese army was University students. Of course for these students, skiing wasn’t skill necessary to march through the mountains to enemy fields, it was just something fun and stimulating.

Hokkaido University and their relationship with skiing have already been mentioned in earlier pages. Another school that marks a spot in Japan’s ski history is the Otaru University of Commerce which was born in 1911, the same year Lerch was stationed in Niigata. The first President of the University eyed skiing as the best method for his students to train their mind and body during the long Winter and sent one of his staff to Niigata. The staff brought back three sets of skis to the University, gathered those interested students and started skiing. Later in the year, an official skiing club kicked-off and held the 1st Otaru Skiing Competition in March 1913. Asahikawa, Sapporo and Otaru is now recognized as the three birthplace of Hokkaido skiing.

For every new sport or culture to spread and grow, there must be someone with strong momentum. In the case of Otaru, that someone was surely the Otaru University staff and also Otaru Newspaper. One of the writers at Otaru Newspaper actually participated in Lerch’s skiing training in Asahikawa, and accompanied Lerch on his Mt.Yotei attack

Another factor that probably enhanced the growth of skiing in Otaru could be the city’s location and industry. As a port city, Otaru’s main industry was shipping. Many items from all over Japan and the World passed through the Otaru port. In such environment, residents and business operators in Otaru had an open-minded approach to anything new. Skiing appealed as something cool and fashionable.

 

本 文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

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