NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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1995年から3期12年にわたって倶知安町長を務めたのが、伊藤弘さん。それはひらふにとって、サンモリッツリフトの破綻からグラン・ヒラフの誕生、そしてオーストラリア・ブームと、世紀をまたいだ激動の時期でもありました。スキーへの思いと在任中の出来事などを語っていただきました。

 

 

hirosi_ito.jpg 私は1942(昭和17)年室蘭生まれです。物心つくころからスキーが大好きでした。熱郛(黒松内町)から倶知安高校に汽車通学をしていましたが、ひらふにリフトができたのは高校3年のとき。1級下に、蘭越から乗ってくる気田義也君がいました。のちのオリンピック選手(インスブルック五輪、グルノーブル五輪に出場)です。そのころ私はまだ、くやしいけれど第2の壁をうまく滑ることができませんでした。もたもたしている自分の後ろからよく気田君が、呆れるくらいあざやかに滑り降りていったことを覚えています。後輩のくせになんて生意気なヤツだと、腹を立てたことがありました。(笑)。

 

 高校を出て大学の夜間に通いながら道庁に勤務し、主に水産畑を歩みました。もちろん大人になってもスキー熱は冷めません。水産経営課長だったとき、さまざまな縁から、倶知安町長選への出馬をすすめられました。倶知安町長になったら、道庁勤めよりもはるかにひらふでスキーができる。今だから言えますが、それが出馬の動機のひとつになりました(笑)。

 就任すると役場にスキー部「チームじゃが太」を作って、そのころ普及しはじめていたインターネットで部の活動を発信したり、道内外のいろんな方と交流しました。スキー好きの町長として知られると、町のPRにもなりますからね。ゲレンデではいつも、倶知安町のキャラクターであるじゃが太が背中に入ったジャンパーを着て、ネット上のハンドルネームも、じゃが太。

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 どんなに仕事でストレスがたまっても、ゲレンデに来るとすっきり空っぽになれました。年間30回〜40回は滑っていました。土日、祝日、年末年始、とにかく仕事から解放される時間のほとんどはスキー。大晦日深夜、年明けのたいまつ滑走も楽しみでした。私のこの熱中ペースに職員の一部には次第に敬遠する人もいましたけれどね(笑)。

 

1997年11月に北海道拓殖銀行が破綻してしまいました。サンモリッツ社(アルペンリフト)のメインバンクは北洋銀行でしたが、拓銀の道内の営業が北洋銀行に譲渡されたことから、北洋銀は不良債権処理を一段と厳格化します。これが過剰な設備投資などで負債にあえぐサンモリッツ社の資産差し押さえ手続きに発展するという情報が私の耳にも届いていました。

 その年のスキーシーズンの到来を間近に控えてサンモリッツ社のリフトが差し押さえられてしまう事は、町の屋台骨をも揺るがす一大事!と判断した私はすぐさま北洋銀行の本店(札幌)に乗り込んで、リフトの運営はなんとしても続けられるようにしてほしいと訴えました。

 結局サンモリッツリフト社は北洋銀行のグループ会社である交洋不動産が経営することになり事なきを得ました。21世紀になってからは、最終的に、ニセコグラン・ヒラフとしてアルペンリフトと高原リフトをひとつの会社が運営するいまの形に落ち着き、たいへん良かったと思います。

 

 21世紀の幕開けには「21世紀カウントダウンinひらふ」というイベントで盛り上がりましたね。私は実行委員長を務めました。

 スキーを通していろんな出会いがあり、倶知安を知ってもらいました。ゲレンデでよくじゃが太さん!と声をかけられました。そういう方は私が町長であることなど知らないし興味もなく、ただスキーを愛する親父ということで仲間だと思ってもらっていたのです(笑)。ゲレンデを案内することはもちろん、アフタスキーのガイドもずいぶんしたものです(笑)。

 オーストラリアの皆さんがやってくるようになると、国のビジットジャパン・キャンペーンの一環としてオーストラリアを訪問して、エージェントや観光関連企業にひらふの魅力を積極的に売り込みました。このころ、まちで海外からのゲストやツーリストに出会うとできるだけ声をかけ、「1日20回ウェルカム握手をしよう」と心がけていました。

 

 例えば1000メートル台地でリフトを降りると、猛吹雪–。ときにはそんなことがあります。何も見えず、右も左もわからず、視界のすべてはただ真っ白。たまらずひとりうずくまって、自然の力をしみじみと思います。人間はなんて小さな存在なんだ、と。山と雪への畏敬の念が自然にわいてきますね。

 これから倶知安町やひらふスキー場がどんな歴史を歩んでいくのか。どんな時代になっても、人間は自然に対するこうした畏敬の思いをなくしていけないと、私は強く思います。人生でスキーと出会うことができて、私は幸せ者です。

 

 

 

1961(昭和36)年12月のリフト開業に、倶知安町役場から深く関わったのが、のち1983年から3期町長を務めた宮下雄一郎さん。リフトは当初、スキー用ではなく刈り取ったチシマザサの搬出用に計画されたことは、このシリーズ前半で述べました。当時のお話をうかがいましょう。

 

 

yuitiro_miyasita.jpg 1959(昭和34)年1月、その前に後志支庁長を務めていた高橋清吉さんが倶知安町長に初当選しました。新町長は企業誘致と観光振興を軸にした新たなまちづくりを掲げて、総務課に企画室という部署を作りました。初代の室長が、34歳だった私です。町長はトップセールスで、チシマザサを原料とする合板工場(北海道ファイバーボード)の誘致に動きましたが、私はそのお供をしました。一方で、岩内町も誘致をめざしていました。

 

 役場内には、その数年前にビート工場の誘致に契約寸前でご破算を食らった悔しさがありました。関係者はこのとき、倶知安には工場がこないというジンクスがある、などと噂したものです。そこで十分作戦を練ったのです。ササは岩内より倶知安側の方が資源量があり、搬出にも都合が良い。用地も胆振線六郷駅近くの町有地を提供する。そうした条件をもって東京丸の内の日東商船(合板工場の親会社)の本社に行きました。そのとき生まれてはじめて飛行機に乗りました。プロペラ機で、新聞に『昨日の飛行機搭乗者』という名簿が載った時代です(笑)」
 奮闘のかいあって、倶知安は工場誘致に成功を収めました。役場内には「工場建設本部」が設けられ、高橋町長がじきじきに本部長に就任します。

 

 


 

 合板工場用の索道がスキーリフトに替わったいきさつはすでにこの連載にありますから、そちらに譲りましょう(第11回第12回「はじまりはファイバーボード」)。宮下さんは、ひらふにリフトを誕生させるきっかけともなった第40回全日本スキー選手権アルペン競技会の裏方としても最前線にいました(大会については、連載第14回「ひらふで全日本スキー選手権開かれる」)。

 


 

 

 全日本選手権は、高松宮の臨席をあおいだ、まちはじまって以来の大イベントです。本部長には高橋清吉町長が就きました。除雪(比羅夫駅〜スキー場間4キロなど)やコースづくりで全面的に協力を願ったのは、倶知安駐屯地の自衛隊員の皆さん。彼らは滑降コースのゴール下にテント村を作って野営しました。運営の現場は、倶知安スキー連盟の中心にいた国鉄や後志支庁の職員たちでした。しかしなにしろ、国道の除雪がはじまったのがその2年前にすぎず、駐車場も雪を除くのではなく踏み固めるだけ。私は道路のことや電話、電気敷設の交渉にてんてこ舞いで、とにかくすべて、役場にお手本がない事態でした。倶知安市街で冬期間に車が安定して走ることができたのは、このときからだったのです。

 

 大会が終わった年の春、倶知安、狩太(現ニセコ)、蘭越の各町長を中心に、ニセコ・積丹エリアの国定公園化をめざす運動がはじまります。これを期に後志支庁を中心に、後志観光連絡協議会が発足しました。構成メンバーは、倶知安町、蘭越町、狩太町、岩内町、積丹町、古平町、余市町、寿都町、喜茂別町、小樽市の10市町村。そうして翌63年7月、ニセコ積丹小樽海岸国定公園が誕生したのです。倶知安町役場では、観光係が観光課へと格上げされ、企画室長だった私が初代課長に就きました。
 いまふりかえるとこの頃に、観光が一次産業とならぶ地域の基幹産業として位置づけられていくはじまりがあったのですね。

 

 思い出深い出来事としてはほかに、1970年と86年、2回のスキー国体開催があります。とくに86年のときは町長就任1期目でもあり、横路孝弘北海道知事(大会実行委員会会長)のもとで実行委員会副委員長を務めました。約2千人の選手・関係者に対するまちをあげたもてなしは、各界から評価をいただきました。
 人口2万人規模のまちが国体を2度開催しえたことは、関係者と町民に大きな自信と誇りをもたらしました。

 

 

 

 ひらふから次の冬季五輪(2014年)、ソチをめざす有力選手として、まずアルペン(回転・大回転)の大越 龍之介選手が上げられます。大越さんの実家は、ペンション・ロコモーション(ひらふ179泉郷1)。そして彼の才能を引き出したのは、ペンション・ニュー・ホワイトベアー経営のかたわら「ニセコ花園スキーレーシングチーム」を主宰する、日大スキー部OBの寺田 政憲さんでした。

 近年では倶知安でも、かつてのように地域の中学、高校に本格的な選手養成を頼ることができない状況となりました。そんな中で寺田さんは、高い目標をもったジュニア選手を育てるために、1992年にこのチームを立ち上げたのでした。寺田さんに思いを語っていただきました。

 

 

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 私の出身は弘前(青森県)で、子どものころからスキーが大好きでした。はじめてひらふで滑ったのは、中学の合宿で来たとき。それから日大のスキー部に行き、県庁勤めや父のビジネスの手伝いをして、80年代にひらふにやって来ました。道々343号沿いにペンションを構えましたが、いまでは並びの宿や店はほとんど外国人オーナーのものになりましたね。

 

 小学校1年生から高校3年生までを対象にした「ニセコ花園スキーレーシングチーム」の出発点は、自分の娘と地元の子どもたちをいっしょに育ててみたい、という気持ちにありました。オリンピックで戦うんだ!という強いモチベーションをもって、みんなでうまくなろう、速くなろう!と呼びかけたかったのです。

 

 昔はこの地域には、学校を中心にして世界をめざすそういう動きが自然にあったと思うのですが、90年代はじめには、消えかけていました。こんなすばらしい山と雪に恵まれた土地に住む人間として、そんなことじゃいけない–。家内も日大スキー部出身ですから、私たち夫婦はそう思っていました。

 

 チームを立ち上げると30人、40人と子どもたちがすぐ集まりました。私の指導のモットーは、「理屈よりもまず身体で覚える」こと。うまい子は、生意気でいいんです。しかしもっとうまくなるにつれて、人に自然に頭を下げる謙虚さを身につけなければならない。それと、親がよけいな口を出すと伸びる子も伸びません。私たちは、その子の2、3年先を見ながら、しっかりとした基礎固めをしたい。次の大会で入賞できるか、などということは重要じゃないのです。

 

 


 

yuka_terada.jpg 倶知安スキー連盟は2001年から3年続けてJOCジュニアオリンピックカップをひらふに誘致して、倶知安は2年連続で総合優勝を飾りました。3年目の03年では男女大回転で大越龍之介、寺田さんの娘である雪華両選手が優勝。寺田選手は回転でも2位に入り、2年連続して最優秀ジュニアオリンピックカップを受賞しました。倶知安高校に進んだ雪華さんは、2005年の全国高校スキー大会のアルペン女子回転で2位となりました。

 


 

 

 強風の妨げが少なく、優れた雪質とバーンの多様性が花園コースの売り物。そしてスキー場の協力にも恵まれ、実力あるさまざまなスキーヤーがやって来るここは、若い才能を育てるのに最高の環境です。日本人だけではなく外国人も含めた来場者が多いということは、それだけ子どもたちがいろんな目にさらされているということ。その緊張感や、そこから育まれるモチベーションは、子どもたちを着実に強くしてくれます。

 

●ニセコ花園スキーレーシングチーム
http://www.whitebear.ne.jp/w-ski.htm

 

●ペンション・ニュー・ホワイトベアー
倶知安町字山田170-43
TEL:0136-23-2683
http://www.whitebear.ne.jp

 

 

 

スノーボードに加えて、1990年代のひらふで重要な動きがもうひとつありました。そう、フリースタイルスキーのモーグルです。その源流にいるひとり、アウトドアセレクトショップNiseko343を経営する小田島勝彦さんが語ります。

 

 

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 私は1951年に札幌で生まれました。物心つくころには、冬が来ると豊平川の土手でジャンプの真似事をしたりして遊んでいました。青春は、中学、高校、大学と、アルペンスキーひと筋だったのです。札幌オリンピック(1972年)をはさむ北海学園大学スキー部での4年間は、シーズンごとにひらふ坂のさかえ旅館での合宿が恒例でした。ほかの宿も、全国の大学や有名企業の合宿で大にぎわいでしたね。北海道の企業では、国鉄や電電公社などとゲレンデでよく顔を合わせていました。

 

 練習の甲斐もあり、全道大会で入賞するようになりました。そして旭川で開かれた北海道学生選手権(北海道インカレ)での出会いがのちの結婚にもつながります。しかし大学を卒業するとき、私のスキーはまだその先を求めていました。そこで卒業しても就職せずに、アルバイトをしながら旅行資金を蓄えました。そうして、スキーへの自分なりのけじめをつけようと、ひとりでウィスラー(カナダ)に行ったのです。飛び込みでしたが3カ月ほどスキーパトロールの仕事につくこともできて、そこで全く新しいスキーと出会いました。自分のスキー観が大きく変わる体験でした。

 

 そこで見たのは、パウダースノーを思いのままに滑るフリースタイルスキーで、後にその種のスキーをテーマにした映画の題名からホットドッグと呼ばれるスキーだったり、新雪が降ったら楽しむパウダースキーでした。それまで日本で追求されていた、厳密なフォームでひたすらタイムや精度を競うといったスキーとはまるでちがう滑りに、目を開かれました。
 こんなに自由なスキーがあるのかという驚きと、でも、そうだ自分はこんなスキーがしたかったんだ、という気づきです。帰国すると後のテイネハイランド(札幌)に勤めたあと1979年、ひらふでペンションの売り物件を買ってロッジ・ロンドを開業しました。

 

 1992年のアルベールビルオリンピック(フランス)に、日本人初のモーグル代表となった山崎修 君は、うちに数シーズン居候(ペンションを手伝いながらスキーに打ち込む生活)をしていました。やがてモーグルの宿というイメージができて、たくさんの選手たちがやってきます。のちにロス・フィンドレーさんと結婚する陽子さんも、そんな仲間でしたね。「*1ニセコB&J」というモーグルチームを作りました。
 当時モーグルはゼロからの出発に近かったので、自分もよけい夢中になることができたのだと思います。ここから全国に、新しいスキーを広げていこう、と。妻を含めて居候スタッフの10人近くが、ナショナルチームのメンバーになりました。
 そのころは、とにかくスキーに打ち込むためにペンションの居候をする若者がたくさんいて、受け入れる側も彼らを積極的に応援していたものです。

 

*1 出身者に吉川空(ナショナルチームw指定)、現在も北海道スキー連盟の強化指定選手が5人在籍

 

 


 

 小田島さんたちは91年4月、ひらふではじめてのモーグルスキー大会「スーパーバンプスニセコCUP」を開催。春スキーを掘り起こす狙いもあったこの初回大会の女子で優勝したのは、のちに長野五輪(98年)金メダリストとなる、中学1年生の里谷多英さん。男子はNiseko343店長の伊藤篤 君(元モーグルナショナルチーム、コーチ)でした。さらにこの大会から、ソルトレークオリンピック(2002年)に出場した中元勝也などが巣立っていきました。

 


 

 

 でもいまと全くちがって80年代のモーグルは、スキー場に理解されず苦労もありました。端的にいえばピステンとの戦い(笑)。スキー場側は、せっかくいいこぶができでも、パトロールがこれを見つけるとすぐ削りにかかる。いたちごっこの連続だったんです。万全の協力をいただいている現在では考えられない、なつかしい話です。

 

●Niseko343
倶知安町山田170
TEL:0136-23-0343
http://www.niseko343.com

 

 

 

 1990年代半ば、スノーボードのブームが一気に広がります。
 週末になるとひらふには、本州からのツーリストのほかに、真新しいボードを抱えた若いボーダーたちが札幌方面から押し寄せました。本州からの中学・高校の修学旅行でもスノーボード体験を取り入れる学校が現れ、生徒たちの人気を博します。やがて長野オリンピック(1998年)で正式な五輪種目(大回転、ハープパイプ)となったことも、強力な追い風となりました。98年にひらふで日本スノーボード協会(JSBA)公認のスノーボードスクールを開いたのが、倶知安っ子の木村聖子さんです。

 

 

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 子どものころ冬の遊びは、もちろんすべてスキーでした。ここで生まれ育った子どもに、ほかの選択肢はありませんからね。でもボードが注目されはじめたころ、ちょっと変化がほしくて乗ってみたのです。たちまち夢中になりました。スキーはスロープにただ立っているだけで一応滑りますが、ボードはそうは行きません。それがビックリするほどおもしろかった!
 ルスツリゾート(虻田郡留寿都村)には早い時期から、関 規明さんが開いている公認のスクールがあったので、そこで基礎を学びました。

 

 滑れば滑るほど面白くて、すぐ公認インストラクターの資格を取って教える側にまわりました。ほどなく関さんに替わって校長を務めることになりました。振り返ってみればそこまであっという間でしたね。
 7年ほどたって、でもやはり地元でボードと関わりたくなり、ひらふに戻って日本スノーボード協会(JSBA)公認のスノーボードスクール、「マザーグース」を立ち上げました。ひらふでは玉井 太朗さんがJSBAの公認校を開いていましたが、それにつづくスクールでしたね。

 

 私は、基礎を大事にしながら、ふるさとにスノーボードをしっかり根づかせようと考えました。道具の選び方、そしてブーツの履き方ひとつで滑りの感覚は違ってきますからね。そして、道具を大事に扱うこと、子どもでも荷物は自分でもつこと、きちんと挨拶をすること。最初にこういうポイントを重視しました。上達すれば、パウダースノーのひらふでこそ、ボードの魅力が満喫できます。こうした考えは、今もまったく変わっていません。

 

 はじめての方には、とにかく楽しい時間をもってもらおうと心がけました。だから校名も、スポーティな競争イメージとは逆の、女性的でやさしい「マザーグース」(イギリスの童謡集の名前)としたのです。あまり細かいことを言わずに、とにかくターンを早く身につけてもらう。スノーボードの世界をある程度体感してもらえば、あとは自然に欲が出てくるでしょう。

 

 ひらふの基盤になるのは、倶知安の子どもたちです。ですからスクールの中に、「じゃがボーダーズ」というジュニアチームも作りました。はじめはみんな、スポーツというよりヤンチャな遊びです。それで良いんです。その中からは、いまソチ五輪(2014年、ロシア)を狙う渡辺 大介君なども育ってくれました。

 

 開校してしばらくすると、地元でスクールを開くことは、単にゲレンデでビジネスを起こすだけじゃない意味を持つのだな、と感じました。リフト会社やホテルをはじめいろんな方々との関わりが増え、ひらふや倶知安のことを話し合う機会もでてきます。JC(青年会議所)の活動にも加わり、スクールの運営を通して私は、生まれ育ったまちをさらに深く知ることができたと思います。

 

 

日本スノーボード協会公認スクール「マザーグース」
倶知安町南4条東5丁目
TEL:0136-23-3173
http://www5.ocn.ne.jp/~goose/

 

 

 

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 函館で生まれ育った私は、子どものころからスポーツや自然が大好きでした。高校の部活は山岳部で、テニスにも熱中しました。函館ドック(現・函館どつく)に就職すると、仲間とテニス部を作りました。スキーを本格的にはじめたのは、就職してから。当時のドックは時代の先頭を走るようなたいへん勢いのある会社で、仕事以外でも多才な人がたくさんいました。その中でスキー部も、国体選手がいるくらい盛り上がっていたのです。
 はじめは部の友人から誘われて軽い気持ちで横津岳に行ったのですが、思ったよりうまく滑れなくて、ちょっとくやしい思いをしました。まだリフトがない時代ですから、シールをつけて登って、思い思いに滑り降ります。でもこうしてマイペースで楽しめるのが、自分に向いていると思いました。函館近郊では、ニヤマ(七飯町)にもよく行きました。シーズンのスタートは、中山峠。当時は11月の頭から滑ることができました。

 

 当時リフトができたばかりのニセコはあこがれの地で、スキー部では毎年滑りに行っていましたが、最初のころ、お前はまだ無理だ、と連れて行ってもらえません。3年目でようやく行けました。でも第2の壁で大転倒したことをおぼえています。それからというもの、仲間たちとのひらふ通いがはじまりました。
 函館を夜中の汽車で出て、狩太(現・ニセコ)駅か倶知安駅で降りて、比羅夫駅で停まる各駅停車に乗り換えます。駅からスキー場行きのバスが出るのが8時。その2時間以上前に着いてしまうので、着くとすぐ歩き出しました。駅でただ待っているより、少しでも早く滑りたいですからね。よくやったなと思いますが、女性でも自分の道具を自分で背負って歩けなければ、スキーはできなかったのです。帰りの汽車は夕方の4時くらい。スキー場から駅までは、スキーと歩きです。

 

 夏や秋には羊蹄山やニセコの縦走を楽しみました。ひと汗流すのは、山田温泉。女友だちと2人で羊蹄山に登り、その足で山田温泉に行こうとしたのですが、途中で暗くなったので温泉の灯りをさがしてようやくたどり着いた、なんていうこともありました。そんなときでも畳の上ではなく、温泉の前にテントを張って寝ました。私たちにとっては、それがふつうだったのです

 

 さて冬の私のニセコ通い。山田温泉や望羊荘が常宿でしたが、地元の人との出会いや交流もはじまって、そんな中でのちに結婚する浦野と出会いました。浦野の家はひらふの農家で、スキー場のリフト設置に合わせて開業した7軒の民宿のうちの一軒でした。「民宿浦野」という名前ではじめて、1964年からは「白雲荘」となります。出会ってから結婚してスキー宿の嫁になるまで、10年以上もかかってしまいましたが、その間スキーやスキー場のことをもっと知りたくて、いろいろな土地に出かけていたのです。1971(昭和46)年にはヨーロッパ・カナダのツアーに参加しました。札幌オリンピックの前で、当時はスキーのために海外に出かけるのは、まだ珍しいこと。北海道からの参加者は私ひとりでした。行ってみて感じたのは、向こうではみんなとても自由に滑っているなぁということ。日本では基礎スキーが唯一の教科書みたいで、型にはまりすぎている。これではまだまだ日本のスキーは世界に通用しない。そう思いました。

 

 73年には、カナダでヘリスキーをしました。新雪だから女性と子どもにはムリ、と言われたのですが「ぜったい大丈夫だから!」とねばって頼んでヘリに乗り込むことができました(笑)。そのとき、スキーパトロールの人たちの毅然とした仕事ぶりに感銘を受けました。また、ロッジへの交通アクセスなどもとても合理的に整っていて、感心しました。国内では、白馬(長野県)に1シーズンいた年もありました。
 結婚前の浦野も、ニセコ高原観光の大川所長からいろいろなことを必死に学んでいました。彼は所長を大川先生と呼んで慕っていましたね。

 

 いろんなスキー場を見て歩くと、ひらふの素晴らしさと同時に、欠けているところも分かってきます。1970年代前半のひらふは、まだスキーしかなかった。アフターの楽しさがないんです。そこで結婚してひらふの住人になると、まず居酒屋を作りました。地域にないものを少しずつ作ろう、その先がけになろう、と考えたのです。当時は夏の楽しみも少なかったので、主人の尻を叩きながら(笑)、テニスコートも作りました。こうしたことが呼び水になって、その後いろいろな店が生まれていきます。
 それから30年以上たって、いまのひらふは、スキーのまわりにいろんな楽しみがあるまちになりました。ニセコのほかのスキー場から、アフタースキーを楽しみに来る人も少なくありません。

 

 主人は逝ってしまいましたが、いまは息子がしっかり後をついでくれています。ここ10年でまた急速に変わりつつあるひらふを思うと、これからの世代にとっては、私がひらふの住人になったころと同じような可能性が、目の前に大きく広がっていると感じています。

 

 

 

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 1968(昭和43)年から2007年まで、「旅館さかえ」を経営していました。いまは女房とふたりで、「居酒屋さかえ」をやっています。

 

 生まれは日高の三石町字歌笛。18歳のとき札幌で板前の道に入りました。それから調理師免許をとって羽幌や岩見沢で働き、函館の湯の川に行きました。そこで、ひらふの大雪閣で板前をさがしているから行かないか、と誘われたんです。まずその夏に、どんなところかと見に行きました。お客が全然いなくて、閑古鳥が鳴いてましたよ(笑)。当時のひらふは、半年はほんとになにもないところ。ひまな季節は遊んでていいから、と言われて転職を決めたのは、1965(昭和40)年でした。確かに夏場は、国鉄や役場、支庁関係の宴会がときどきある程度だったんです。

 

 そこに3年ほどいて、29歳でかみさんも見つけて、同じひらふで旅館をはじめました。なんとかお金を工面して、8室からのスタート。ひらふ坂の途中、いまのひらふ亭さんの向かいです。1968年当時、リフトができて7年経っていましたが、宿の数もわずかで、ひらふはまさにこれから、というところ。電気もリフト用のものを分けてもらっていて、われわれは電気代をニセコ高原観光に払っていたんです。ひらふ坂も、第1駐車場ができる前で舗装されていませんから、春先にはどろんこ状態。山田温泉やリフト会社が持っているジープでしか上がれませんでした。

 

 サンモリッツリフトの寺岡四郎さんが会長で、永江勝朗さんが現場をまとめる「ひらふスキー場振興会」という集まりがあったんです。リフト会社や宿がそれぞれ会費を出して予算を作って、内地に視察に出かけたりしました。地区として宣伝パンフレットも作りました。そのほか除雪をどうするとか、いろんなことをみんなで話し合ったものです。

 

 ひらふで板前料理を出すところはほかになかったので、うちは料理を売りものにしました。その一方で、一部の民宿のおかみさんたちと一緒に料理の試食会をやったりしました。すべてが新しい土地では、自分のことばかり考えては商売になりませんからね。

 

 でも開業して5、6年は厳しかったです。シーズン中は函館時代の先輩や仲間が来てくれたり、リフト会社が宴会に使ってくれたりもしましたが、夏は女房に旅館を任せて、洞爺の温泉街で働きました。出稼ぎです。
 1970(昭和45)年にここで国体があったとき、青森県の選手団が泊まってくれたんです。そこから縁ができて、その後も青森の方がたくさん来てくれた。シーズン終盤、八甲田で春スキーをする前にひらふで滑る。そんな方がけっこういたんです。そうこうするうちに大手航空会社のスキーツアーがはじまって、世の中にスキーブームがやってくる。ようやく商売の基盤ができていきました。JALのスチュワーデスさんとか整備士さんなども、よく来てくれました。

 

 1980年代の半ばはスキーツアーの全盛時代。高原リフトとアルペンリフトが毎年のように競い合ってリフトを伸ばして、ほんとうに活気がありました。うちの常連さんたちは仲が良くて、スキークラブ(ひらふスキークラブ)を作りました。今でもちゃんと続いていますよ。
 でもそのころ、宿の中にはどうかするとお客さんじゃなくて、ツアー会社の方を向いて仕事をしていたところもあった。そういう宿は、ブームが去ると苦労していましたね。宿は、お客さんとの人としてのつながりをなくしちゃダメです。

 

 私のスキー歴ですか? 来たころは、湯の川にいたときにニヤマ高原で少し滑ったことがある、という程度でした。ニセコは上級者しか行けない所だと思っていた。ここに来てからは、せっかくだからと挑戦をはじめたんです。若かったし、シーズン中は忙しくても一日一回は滑ろうと決めて滑っているうちに、どんどん熱中しました。朝、お客さんをゲレンデまで案内していっしょに滑って、午後はあいた時間に自分ひとりで滑ったり。ゲレンデにいいお手本がいっぱいあったので、上達できたと思います。やがてスキー検定の1級をとることもできました。

 

 旅館は40年やりました。増築を繰り返して35室くらいまで大きくしましたが、そろそろ全面的にリニューアルしなければならない時期を迎えて、考えました。また借金を抱えて旅館をするよりも、もうそろそろ、少しのんびり暮らそうじゃないか。若いときは家族でがむしゃらに働いたんだから、と。そして旅館の土地を売って、近くにこの居酒屋兼住宅を建てたんです。いまは、冬は一生懸命働きますが、夏は弁当や予約のお客さんだけです。

 

 子どもは4人で、孫が5人います。みんな倶知安で暮らしていますから、自分は幸せ者だと思います。三男坊は同じひらふでスープカレーの店をやっています。

 

 

 

1960年から今日まで、ひらふには全国の若者がおおぜい訪れ、やがて移り住む人々も増えていきます。ひらふ坂で人気の居酒屋Bang-Bangのオーナー齊藤正信さんも、1970年代に道外からやって来た一人でした。

 

 

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 佐賀(九州)の出身で、北へ北へと旅をつづけるうちにひらふと出会いました。
 道東の尾岱沼(おだいとう・別海町)の漁師さんの手伝いをずっとして、それが終わるとスキーを覚えようとひらふにやって来たんです。山本由紀男さんの「ゆきやま山荘」が立ち上がった年(1976年)。『白雲荘』でバイトをしながらひと冬夢中ですべりました。どんどん上達していくのがおもしろくて仕方なかったですね。いろんな土地からいろんな人が集まっていて、とにかく毎日が新鮮でした。そのうち ああここに住みたいな、と思いました。

 

 でも若かったし、旅の虫は収まりません(笑)。ひらふに腰を据えたのは、それから4年近くイギリスやフランスで暮らしたあとのことでした。
 外国語と料理とワインを学びたかったのです。バーミンガム(イギリス)、パリ、ブルゴーニュなどで経験を積みました。帰ってきてニセコ高原ホテルで働きながら、ペンションをやろうと考えました。ところが予想を超えるペースでペンションが増えていて、これじゃあ過当競争になるぞ、と思いました。一方で、ひらふで働く人たちが飲みに行く場所はあいかわらず少ない。ならば居酒屋をやろう、と。それがBang-Bangのはじまりです。ホテルを辞めるとき、上司に引き留められたのですが、「僕には夢があるんです!」なんて言ったことをおぼえています(笑)。
 かつてバイトをした尾岱沼の漁師さんには、そのときから現在まで、魚の仕入れ先になってもらっています。

 


 

齊藤さんがヨーロッパに旅立つ前に知り合い、ニセコ高原ホテルに勤めていたのが、敏子夫人。敏子さんは居酒屋開業当時のことを、とにかく目の回る忙しさだったと言います。
「早い時間はスキー客、遅くなるとホテルやペンションの従業員たちが来てくれました。どうかすると午前2時とか3時まで帰ってくれないのです。商売としてうれしいのですが、ほんとに困りました(笑)」

 


 

 僕たちはスキーを滑りたかったからね。いまはビジネスのためだけにひらふで暮らす人も増えていますが、僕たちはまず毎日スキーを滑りたかった。ここに暮らしてスキーをするために、僕たちふたりは店をはじめたんです。
 スキー好きのオーナーの店には、スキー好きが集まります。従業員もそうですね。そんな若者の中には、テレマークスキーヤーの高梨 穣(ゆたか)さんのように、うちでバイトをしてひらふで暮らすことを決めていった人たちがいます。

 

 Bang-Bangのとなり、ひらふ坂に面した店も切り盛りするようになったのは、13年ほど前。はじめは借りて、その後買い取りました。今はBang-Bang の姉妹店、Bang2として営業しています。

 スキーシーズン中のひらふは、本当にいろんな店が切磋琢磨して、活気あるまちになります。飲食店ですから、おいしいのは当たり前。私はできるだけ、国籍も、常連かそうでないかも問わず、すべてのお客さまに声をかけます。ちょっとした会話がお客さまの印象に残って、翌年、「ほんとは長野に行こうと思ったけど、また来ちゃいました」なんて言われることもあって、そんなときはほんとうにうれしいですね。

 

 私も50代後半になって、ビジネスも生き方も、若いときより自然体でいられるようになったと思います。青春時代の旅やいろんな経験がいまになって生きてきた、といえるかもしれません。ひらふも私たち夫婦の人生も、お楽しみはまだまだこれから、という気持ちです。

 

●Niseko Bang-Bang
倶知安町字山田188-24 グランヒラフスキー場
TEL:0136-22-4292
http://niseko.or.jp/bangbang/

 

 

 

ひらふの人気店「グラウビュンデン」を経営する渡辺淳子さんは、1961年にひらふにリフトを開業した(株)ニセコ高原観光の初代事務所長、大川仁吉さんの次女。ひらふ育ちの淳子さんにお話しをうかがいました。

 

 

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 ワタシは三人兄弟の一番下。一家5人が神奈川からひらふに移り住んだのは、父がニセコ高原観光の現地責任者になってリフトを立ち上げた、1961年の秋でした。そのときワタシはたったの1歳。ですから自分のふるさとはひらふなんです。

 

 物心つく前から、冬の遊びはもちろんスキーでした。中学生のころ、大手航空会社のスキーツアーがはじまりました。毎年テレビや雑誌の広告が華やかでした。中3のとき、スキーヤーのひとりとして広告のモデルになったんです。その後、リフト会社の所長の娘ということもあり、滑りのシーンならいい娘がいるよ、という感じで、重宝に使われるようになりました。そうして広告制作の現場にふれるうちに、映されるよりも映す方、作り手側に興味がわいてきました。みんなセンスが良くて遊び心をもった、カッコイイおじさまの世界(笑)。自分もこういう世界で働きたい!ファッションが大好きだったので、スタイリストになりたい、って考えるようになりました。

 

 高校を卒業すると、東京へ。ひらふの仕事に来ていたスタイリストさんの事務所でバイトをしながら、スタイリストをめざして専門学校に通いました。両親も、お前がやりたいのならがんばってみろ、と言ってくれて。卒業後は、数え切れないほど電話をかけまくって(笑)、なんとか就職。4、5年経験をつんでから独り立ちしたんです。

 

 そのころは、アンアンやノンノといった雑誌が大人気。やがて、新しくて刺激的な仕事にも出会えるようになりました。そしてやって来たのが、スヌーピーをキャラクターに使ったスキーツアーの仕事。10代のワタシがスキーヤーとして関わった広告に、今度は裏方のスタイリストとして参加したのです。う〜ん、感慨深かった。セールスポイントは、なんたって「滑れるスタイリスト」!(笑)

 

 日本の経済にとても元気があった80年代。スキーのほかにもいろんな分野の仕事がありました。いまならデジタル技術で合成できるようなシーンでも当時はできませんから、年に6、7回は海外ロケへ。カー・ラリーのマネージメント会社にいた、今の主人と出会ったのも仕事の現場です。優秀な写真家やアートディレクターたちと大手企業の広告を作っていく世界は、10代のころのあこがれでしたし、充実した毎日でした。いろんな国のいろんなすばらしい土地にも行けたし。

 

 でもどこに行っても、いつも心のどこかにはひらふがあったんです。一見華やかな世界にいても、結婚して子供を産んで、ワタシはいつかひらふに帰るんだろうな、と思っていました。理屈じゃなく、なんて言えばいいのかな・・・。

 

 24歳で結婚して、主人にも「いつか北海道に帰りたいんだ!」って宣言していました。でも先に北海道に移ったのは彼の方なんです。ホテル日航アンヌプリ(現ニセコノーザンリゾート・アンヌプリ)の開業(1985年)のスタッフ募集に応募したんです。

 

 ワタシも東京を引き揚げる用意をしながら、離れた暮らしがしばらく続いたのですが、1990年の暮れに泉郷にグラウビュンデンをオープンさせました。当時のひらふは、新しい感覚のペンションが建ちはじめていましたが、地域に開かれた、誰でも気軽に立ち寄れるおしゃれな場所がほとんどなかったんです。だからスキーヤーがゆったりおしゃべりが出来る居心地の良い場所をワタシが作ろう、と。ネーミングは、サンモリッツ(スイス)のある州の名前から。倶知安町はサンモリッツと姉妹都市の間柄にありますが、1964年にその提携が結ばれたとき、父も向こうに行ってひと役買っているんです。ドイツ語ができたので、お役に立ったそうです。父が大好きだった娘として、ぜひつけたかった名前でした。

 

 オープンしても東京でのコマーシャルの仕事があると、出かけていました。ほんとうの意味で腰を落ち着けたのは、1994年の2月から。スイーツのメニューや扱うグッズも、それから少しずつ充実させていきました。

 

 いまでは国内はもちろん世界のあちこちから、いろんなスキーヤーやボーダーが、「やぁ元気?! 」って来てくれます。ふたりの子どもものびのび暮らしています。特に長男の大介は、スノーボード・クロスで、世界を舞台に戦っているんです。

 

 いまのひらふと私たちを、父に見せたいなー。そんなことをときどき思います。

 

 

●グラウビュンデン
倶知安町山田132-26
tel : 0136-23-3771

http://graubunden.jp/wp/

 

 

 

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人間が生身の身体と最小限のツールで自然のふところに分け入り、重力の恩寵だけで最もクリエイティブな生き物になれる遊び–。『ニセコパウダーヒストリー』制作のために数十人の方にお話をうかがった日々は、そんなスキーやボードの定義を、あらためて味わってみる日々でもありました。

 

イワオヌプリの硫黄鉱山やレルヒ中佐の来町にさかのぼるまちの歴史をひもときながら、僕はヒラフがスキーによって見いだされた特別な土地であることの意味に、考えを巡らせていました。

 

スキーというワンテーマによって、ヒラフの地域史は、額縁や資料庫に収められた過去のお宝ではなく、現在と未来に直結してイキイキと呼吸をする運動体でありつづけています。
僕にとって、この本に関わることができた経験は、いつまでも色あせることのない糧となるにちがいありません。
この機会をくださった刊行委員会の皆さまをはじめ、ご協力いただいたすべての方々に深く感謝申し上げます。

 

 

2011.12.17
ノンフィクション・ライター  谷口&nbsp雅春