NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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レジェンドの系譜掲載

ひらふには、若い世代から絶大な敬愛を集める、レジェンドと呼ばれる人々がいます。この地に深く根ざしながら、山と雪の領域で世界第一級の実績や知見をもつ男たちです。歴史ブログ「レジェンドの系譜」では彼らの肉声インタビューを掲載致します

 
 
 私たちはふたりとも上士幌町(北海道十勝管内)のJA(農協)職員だったんです。勤めて10年くらい経ったころ、とても楽しい職場ではありましたが、「自分たちの人生はこのままでいいのかな」と考えるようになりました。結婚して1年を過ぎ病気を発病した私は、子育てもできず、とりあえず買いたいものはある程度買えるかな、というくらいの生活の中で、「でもこのままでは大人として成長できないんじゃないかな」、と危機感を抱いていたんです。「もっと苦労をしなきゃ!」と思いました。そんな矢先私の父が他界し、人間(ひと)が大好きだった父の影響もあり、もっといろんな人間(ひと)と出会える仕事がしたいと思うようになりました。
 最初は小樽で喫茶店を開こうと考えていました。でもなかなか良い物件が見つからず(あっても手が届きませんでした)、まあいずれは家を建てるかも、とたまたま入ったモデルハウスで、運命的な出会いをしてしまったのです。
 その住宅メーカーの支店長さんが、いつもはいないはずなのにその日はたまたまモデルハウスにいて、私たちを見るなり「何か面白いお客さんだ!」と思ったのだそうです。そんなこんなで意気投合し、話の中から「何か」=「ペンション」。「ペンション」=「ニセコ」ということになったのでした。1990年5月のこと。
 わずかひと月で土地を手に入れました。12月に、間取りや外観はもちろん、カーテンの色までも決まって少々浮き足立って迎えた新年、突然、住宅メーカーからの呼び出しがありました。「この話はなかったことになるかもしれません」、と。
 担当の支店長さんが私たちには解らない事情で会社を辞めてしまい、夢の実現は振り出しに戻ってしまったんです。でもそんなことであきらめるわけにはいきません。いつもはおとなしい夫が「絶対やるゾ!」と宣言して、そんな姿にびっくりしたり。替わった支店長さんもがんばってくれて、結局91年12月に開業に漕ぎつけました。いま思えば、この事件(笑)は私たちの「本気」が試されたんだと思います。
 「あいらんど」という名前は、色んな愛がたくさん集まる場所になってほしいと願ったから。ふたりの仕事の分担は、主人は厨房で、開業前には先輩のペンションさんで宿泊しながら、料理の勉強をさせてもらいました。私の仕事は掃除とおもてなし! 特にお話です(笑) 。
 開業当初はエージェントに頼った営業で、ちょうどバブル景気がはじけたタイミングだったので、見る間に料金を買い叩かれるようになりました。このままでは無理かも! と追い詰められる中で、インターネットの予約に切り替える決断をしました。単なる安さじゃなくて、ちゃんとひらふの一員として、ここで生きる責任を感じながら、お客さまを心からおもてなししたいと思ったんです。
 本当に毎年厳しい現実と向き合う中で、私は頭をベリーショート(わかりやすく言えば「坊主頭!」です)にしました。裸の心でゼロからがんばろう、という気持ちです。95年の夏でした。ちょうどその年はオウム真理教があの恐ろしい事件を起こしていたので、美容師さんは、「坊主にしてもいいけど、せめて色を変えてね」と言いました。その結果、「猿キャラ」の私が誕生したわけなんです。
 スキーですか? 大好きと言うほどではなかったんですが、高1から始めたまま我流で滑っていました。でもここに来てお客さんと滑る機会が増えるうちに、「このままではお客さんのスキー人生を狂わせてしまう」と思って猛練習。がんばって1級を取りました。いまは主にスノーボードをやっていますが、49歳で念願のインストラクターになれました! 老体に鞭打って頑張ったなぁ(笑)。 今でも、お客さんと滑るときに少しでもいいサービスができるように、できる限りトレーニングをしてますよ。
 ニセコにはすばらしい山と川があって、日本海もすぐそこ。自然いっぱいのワンダーランドです。中でも、羊蹄山に向かって滑るこのロケーションは私の大好きな景色でもあります。
 あれから20年が過ぎ、オーストラリアをはじめとして外国からのお客さまがドッと増えたので、気がつけば、「あれ? ここは外国?」っていう毎日ですが、おかげで英語も話せるようになって、何ともエキサイティングな人生を楽しませてもらっています。一番の武器はボディランゲージですけどね。
 商売を離れてお客さんの立場に立ったり、違う環境を知るために、他のスキー場にも足を運びました。それぞれに魅力がありますが、でも私は、やっぱりここがいちばん好き。
 お客さまは、私たちふたりの人生に登場してくださる、最高の宝物! そう思っています。もちろんサービスの対価として料金はいただきますが、お客さんとは、家族のように、まずひとりの人間として出会いたい。おかげで私たちには、大家族ができちゃいました。
 ひらふは、人を幸せにする所だと思うんです。それは、地域全体の力の賜物。
 人間(ひと)が大好きな私たちにとって、ペンションという仕事というか生き方は、もうやめられません。出会ってくれた人間(ひと)やお客さまの笑顔が、私たちの最高の財産なんです!これからもずっとここで生きていきます。
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ペンション・あいらんど・石川美行さん 加鶴子さん

 
 
 もるげんろーと(Morgenrot)は、1981(昭和56)年の開業です。ひらふのペンション街の夜明けの時期。まさにMorgenrotはドイツ語で朝焼けという意味で、青春時代を山に捧げていたので、山の言葉からとった名前です。ペンションでもロッジでもなく、「ヒュッテ(ドイツ語で山小屋)もるげんろーと」です。
 生まれは、せたな町(北海道檜山管内)で、郵便局員だった父から家の裏山で教えてもらっていたので、スキーは子どものころから大好きでした。父は転勤して来た職場の同僚にスキーを指導するくらいうまかったですね。中学校からは自立心を養わせたいという父の方針で、単身、青森の叔母の家に下宿しました。向こうでは雲谷(もや)や大鰐(おおわに)のスキー場で滑っていました。青森市内の雲谷スキー場には、すでにリフトが設置されていました。
 はじめてひらふに来たのは高校1年生。ニセコ高原リフトができで少したったころです。国鉄比羅夫駅が人であふれていたことを覚えています。駅からスキー場までの国鉄バスに乗りきれなくて、歩いて行きました。帰りは、ゲレンデから駅までそのまま滑りました。そんな無茶は、今では考えられないことですね。
 当時からニセコはずっと大好きな土地で、大人になって、札幌オリンピックがあった1972年に結婚したとき、新婚旅行は迷わずニセコにしました。
 学生時代は、山にのめり込みました。渓嶺会という山岳会で、飯豊(いいで)連峰(福島・新潟・山形)などで沢登りに明け暮れたものです。家内と出会ったのも、山でした。また、霧ヶ峰(長野県)のジャベルというヒュッテに居候していました。1950年代から現在までつづく人気の宿で、登山界のそうそうたる人たちから愛されていました。創業者の信念で、電信柱は風景を壊してしまうという理由で当時は電気を引かず、熱源は薪や炭でした。なだらかな霧ヶ峰高原が遠望できる2階のテラスにはロッキングチェアが3つ置いてあって、品の良い客がのんびりパイプをくゆらせていたりする。ああ自分もいつか山小屋を経営したい。それが若い私の夢になりました。
 といってもいきなり自分のヒュッテはもてませんから、まず繊維業界に就職しました。京都、東京、埼玉と転勤があって、やがてついに札幌に転勤となりました。そして会社の方針とちょっともめたことをきっかけにして、大好きなひらふに移ったのです。家族の暮らしを背負った35歳でした。
 サラリーマン時代から、ボーナスを貯めていまの場所に土地(まず50坪)は買っていました。そのころまわりは雑木林で、とにかく何もなかったのです。林の中には、以前、畑や田んぼであったところから出たと思われるズリ(石)が積んでありました。もちろんまだ電気も水道もなかった。
 建物の建設資金を工面するために国民金融公庫や信用金庫に日参しましたが、融資を受けるまでに1年以上かかりました。なにしろ当時は、ニセコでペンションなんて無理だと言われていたのです。お客さんが来る冬が終わってしまえばどうするんだ、と。なんとかオープンにこぎ着けましたが、最初のころは前職の延長の仕事も続けて、二足のわらじを履(は)きました。
 春のチセヌプリから大谷地、神仙沼などをエリアに、ネイチャーガイドもしました。そうして自分もこの土地をいっそう深く知ることができたのです。ニセコの自然は、スケールはありませんがとても多様です。生物相や地質にいたるまで、いまでもまだ科学的に未解明の分野がたくさんあるといいます。どろ亀さんと呼ばれて親しまれた高橋延清先生(東京大学名誉教授)も、よく遊びに来ていました。
 よそから移り住んだ者にとって、子どもが通う学校の存在はとても重要です。学校は子どもたちのものだけではなく、親を地域と結んでくれるものでもある。子どもや先生を通した大人のつきあいが大切なんです。
 ひらふではいま、倶知安の市街にある倶知安西小学校本校と、地元の倶知安西小学校樺山分校のいずれかを選んで通学させることができます。以前は、本校と統合して廃校とする動きもありましたが、町議会と行政が、歴史と自然に恵まれた樺山分校に子どもたちを通わせたいという、我々の意も組んでくれたことで、分校も存続されました。
 地域の活力が失われていくと、学校は存続できません。一方でまた、学校を通して地域の活力を高めていくことができる。
 21世紀になって海外から移り住む人々も増えるようになって、これまでになかった活力がこの地域で生まれています。これを学校に活かさない手はありません。
 恵まれた自然の中で6年間をすごした私の子どもたちは、その後4人のうち3人が幼稚園・小学校・中学校と、それぞれの教員になりました。もうひとりも洞爺湖のビジターセンターで自然学習の仕事に携わっています。自分が受けた教育を通して、学校が持つ意味や可能性を自分の人生に重ねたのだと思います。
 いま、うちでは客室を減らして絵本カフェを設けています。私たち夫婦が年を重ねて、昔ほどがむしゃらに働けなくなったことと、ひらふにいらっしゃる子どもたち、とりわけ外国の子どもたちの居場所を作ってあげたいと思ったことが動機です。絵本なら、言葉の壁も越えることができますから。
 たとえスキーをしなくても、お母さんや子どもたちが、ここで気持ちの良い時間をゆったりとすごしてほしい。学校に対する思いと共通しますが、子どもたちが巣立って家内とふたり、この場所を少しでも地域の未来に役立つ場所にしたいと思っています。
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ヒュッテ もるげんろーと 藤井 俊宏 さん

 
 
 遊牧民のスタートは、1987(昭和62)年。当時は森の中の旅人宿でしたが、いまこのあたりは街になってしまいました。もう24年も経ちますからね。
 福岡出身の僕がなぜひらふに来たのか。それは、旅好きの若者が旅の終着点にたどり着いてすっかりおじさんになった話、として語れるかもしれません。
 今でも毎年バックパックを背負ってアジアを歩いていますが、若いときからとにかくあちこちを旅していました。世代的にいうと、最後のカニ族というところでしょうか。最初に北海道に来たのは、30年以上前で大学生のころ。倶知安駅の裏手にあったニセコ・ユースホステルに泊まりました。ニセコや北海道のすばらしさに感動し、その後も北海道の旅をつづけました。卒業後に大手のメーカーに務めることができ、配属の希望が通って札幌勤務となりました。
 25歳で退職して、海外はインドなどにも行ってみました。旅で覚えた英語が今になって宿業に役だつとは思いもしませんでした。フリーターという言葉もない時代でしたが、バイトをしてお金が貯まると出かけていく。そんな暮らしを続けたのです。さすがにそんな調子で一生をおくるわけには行きませんから、やがて 28歳で結婚しましたが、家内とは道東のユースホステルで知り合ったのです。自分にとっては会社勤めにはいろいろ理不尽なこともあり、関連会社の社長からいまの土地を譲っていただき、ここで旅人宿をはじめました。30歳でした。開業にあたっては、銀行や親など、説得しなければならない相手がたくさんいました。
 
 70年代、80年代のひらふには。全国からいろんな若者が流れ着きました。カニ族の次は、バイクで旅をするミツバチ族。彼らの中には、秋になると道東のシャケの加工場で住み込みのバイトをして(いわゆる「シャケバイ」というやつ)、冬になるとひらふのスキー場で働く、なんていう連中も少なくなかった。スキー場も住み込みですから、お金はしっかり貯まります。あいた時間にスキーもたっぷり楽しめますしね。そうして稼いだ元手で春から夏にまた旅をする。
 ひらふには今も昔も、いろんな若者を受け入れる自由な気質があります。人生の次のステップに進むために、冬のあいだはペンションで居候(ペンションの手伝い)をする、リフトマンをする、とかね。まあ昔に比べるとそういう人間は少なくなったけれど。その代わりいまは、外国人がやって来る。だからひらふはやっぱり面白いんです。
 
 遊牧民をはじめたころ、オーナーがろくに滑られないんじゃお客さんも来ないだろうと思って、師匠について、ずいぶん滑りました。それまでは万年ボーゲンだったのです(笑)。パウダーを滑られるようになると、がぜん面白くなった。長男、次男と私たち夫婦で熱中したものです。
 こんな環境で暮らしているのですから、息子たちには、ほんとにのびのび育ってほしかった。ゲームばっかりやってる子にはなってくれるなよ、という気持ち。だから2人とも一流のモーグルチームに入ったのです。特に次男(吉川空)は最初からモチベーションが高くて、大学生になったいまではソチ五輪(2014年)を狙うところまで来ています。
 80年代にペンションをはじめて今でも続けている人たちには、ニセコが大好きな上に、ここで子供が生まれ、子育てをしてきた人たちが多いのです。21世紀になって地価が急騰して、土地を売りませんかという話がうちにきたときも、息子が樺山分校(倶知安西小学校)に元気に通っていた時代を経て今がある僕たちは、迷うことなくNO! と言えました。売ってしまった人たちは、地域とのそういう繋がりが少ない方もいたと思います。
 
 ひらふの魅力は、なんといっても山と雪。これに尽きます。うちには、長野や新潟など本州のスキーの本場からの常連さんも多いのですが、彼らは最初、「こんな雪で滑ったのははじめてだ!」と感動してくれました。ここにしかない雪を求めて、うまい人ほど熱心に通ってくれる。そういう図式は海外のお客さんにもあてはまります。僕の印象では、そのはじまりは長野オリンピック(1998)。あのときたくさんの外国人が日本の冬と出会い、ひらふにも大勢の外国人スキーヤーが来ました。彼らもまた「こんな雪で滑ったことない!」とばかりに感動してくれて、国に帰るとひらふのことを口コミでどんどん広めてくれました。2000年前後の数年間は、白人のスキーヤーが毎年倍々で増えていきました。
 でも最初のころ、うまい外国人はゲレンデにいなかったですね。みんなお目当ては、パウダーの天国、バックカントリー。そうなると事故の心配もあるけれど、でもニセコのスキーはもともと山スキーからはじまったわけだから、ただ厳しいルールを作れば良いというものでもない。そうして苦労しながら今のニセコルールができていったわけですが、近年はゲレンデでもうまい外国人がたくさんいるし、生まれてはじめてスキーをしてみた、なんていうアジアのゲストも増えています。
 雪へのあこがれは、すべての人間がもっているものだと思うし、南の人ならなおのこと。彼らにひらふをステキに体験してもらい、リピーターになっていただく。そのためのいろいろな工夫が、いまのひらふにはもっと求められているのだと思います。
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旅人宿ニセコ遊牧民・吉川邦弘さん

 
 フルノートのオープンは1982(昭和57)年です。ちょうど東山プリンスホテル(現ニセコヴィレッジ)が開業した年。
 
 私の生まれは島根県の隠岐島(おきのしま)です。中学生のとき、鳥取の大山(だいせん)ではじめてスキーをして、それ以来大好きになりました。
 大学生活は東京でおくりましたが、そのころはもう立派なスキー狂いで、戸狩(長野県)なんかに行っていました。1泊2食650円とか、とにかく安かったのですよ。暖房はコタツだけ、なんていう民宿でしたが、そこのおばさんにとてもよくしてもらいました。またジャズにも夢中になって、ジャズ研でドラムに熱中しました。
 卒業すると東京で大手保険会社に勤めました。そのころの冬はもっぱら万座(群馬県)とか苗場(新潟県)通い。ニセコひらふにはじめて来たのは札幌オリンピックがあった年(1972年)でした。なんて大きなスキー場だろう、と思いましたね。それからここが、憧れの地になったのです。だから新婚旅行は山田温泉!(ひらふ)。会社には札幌に転勤したいと毎年言い続け、1980(昭和55)年にようやく願いがかないました。
 
 札幌では代理店と銀行回りの営業で、ゴルフも仕事のひとつでした。冬はスキー、夏はゴルフやテニス、釣りと、北海道の良さを実感するにつれて、もう東京になんか帰りたくないわけです(笑)。なんとか北海道で暮らしたい。そして、住むならひらふです。当時はペンションではなくロッヂと言っていましたね。まずアンヌプリスキー場近くのペンションを見せてもらって、よしコレだ、と思いました。ペンションの親父になろう、と。なんとか金策を進めて、ひらふのこの場所で82年に開業にこぎつけました。
 
 冬はスキーですが、夏の商品をどうするか。テニスとジャズで行こうと考えました。どちらも自分が大好きなもので、それでお客さんに喜んでもらえたら、こんなに幸せなことはありません。テニスは元の会社のサークルでよくニセコに来ていましたし。当時ゴンドラ下にコートが6面あり、自分でも4面作りました(現在は5面)。ジャズは、スタジオを作ってバンドやジャズ研の合宿ができるようにしたのです。スタジオはその後、ライブジャズの店「ハーフノート」へと発展しました。
 
 スキーは、はじめは大手ツアーのおこぼれをもらうような状態からはじまって、やがて若い連中がベンチャー的に立ち上げたツアー会社とも組むようになりました。そういう会社に浮き沈みはつきものですべてうまく行ったわけではありませんが、常連客を着実に増やすことはできました。
 ひらふは、外から来た人間をあたたかく迎える土地です。だから僕以降もほんとにたくさんの人たちが移り住んでペンションをはじめた。本州だとお墓を建てるまでその家は信用できない、なんて気風がありますが、ここはまったく違うんです。
 90年代には弟一家も東京から移り住んで、僕と同じくペンション(ウッディノート)をはじめたし、今では両親もここに住んでいます。僕や弟が中心になって、ログハウスを建ててあげたのです。
 
 そうして21世紀になってオーストラリア人たちがドッとやってきた。自分にとってはそこからまたグンと楽しくなってきました。ペンション街には、外国人相手の商売が苦痛で去っていった人もいたけれど、僕は面白いと思った。ランドサービスも次第に充実して、そんな流れがもう10年続いています。外国人の中には楽器ができる人も多くて、夜は彼らとセッションをしたり。スタジオには卓球台もあって、僕を負かす人はちょっといません。もうずっと、外国人との不敗神話を守っています(笑)。
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ペンション フルノート・島谷昭一さん

 
 グラン・パパの開業は1985(昭和60)年。ペンション街ではごく早い時期のオープンです。
 私の学生時代は、まだ学生運動の残り火のある1970年代。多くの若者には、敷かれたレールの上をただ進むだけの人生に賛同できない気持ちがありました。私はあちこちによくふらりと旅をしました。ヨーロッパを貧乏旅行したとき、ドイツのあるB&B(Bed & Breakfast)の宿で忘れられない体験をしました。朝飯は全員が大きな長テーブルで食べるのですが、ドイツやイタリア、イギリスなど、いろんな国籍の人たちが10人くらい、自然に話を交わしながらなんとも気持ちの良い時間を共有しているのです。会社勤めをしているような大人が多かったと思います。日本ではまったくありえない光景の中に自分がいて、「ああこれはいいな!」と思いました。大学を出てサラリーマンになって、ほどなく結婚しましたが、その時のことがずっと胸に残っていました。
 
 サラリーマン生活はやはり自分には向いていなくて、家族でできる仕事をしようと思いました。そこで、ペンションです。実家が弘前と札幌で旅館をやっていたので、宿屋の勝手はわかっていました。さてどこではじめるか–。
 私は札幌生まれですから、ひらふには子どものころから何度も来ていました。中学生になると友だちと国鉄とバスを使って。会社を辞めてから本州のリゾート地もいくつか見に行ったのですが、ひらふのようにすばらしい雪質と圧倒的な積雪を誇る土地はありません。雪がつねに降り積もるひらふなら、深雪を求めて朝一に行く必要もないのですからね。やはりここではじめようと決めました。いまの場所に決めたのは、当時はうちの下にはペンションは一軒もなく、羊蹄山を正面に見すえるロケーションが気に入ったから。実は売約済みの土地だったのですが、どうしてもここではじめたくて、交渉して自分が買えるのなら、と賭けをする気持ちでした。それから26年ですから、賭けは成功だったのでしょう(笑)。
 
 グラン・パパもB&B の宿としてスタートして、その後チーズ・フォンデュのレストランをはじめました。ご存知のようにこの10年くらい、オーストラリアをはじめとした外国人のお客さまがとても増えました。朝食はビュッフェスタイルで、テーブルは分割されていますが銘々が料理を取りに立って動きながら、すれ違ったり立ち止まったりして、自然な会話が生まれています。若き日の自分があこがれたような光景が、毎日繰り広げられているわけです。
 ペンションは、設備ではホテルやコンドミニアムには勝てません。その代わりお客さんと宿、お客さん同士の親密なコミュニケーションを作り出すことができる。それが宿ごとの味わいに育っていくのです。宿屋のサービスの鍵を握るのは、女主人です。だから私はあまり全面に出ず、サポート役が多いのですが、ご家族では、特に奥さんが十分に楽しめているか、気を使います。奥さんがハッピーだと、家族はみんな笑顔になるものですからね。
 
 現在のひらふのようなインターナショナルな土地にある宿では、西洋基準のサービスや設備などが重要でしょう。でもここはヨーロッパではなく日本ですから、基盤にあるのは日本の文化です。もちろん京都や江戸の文化を付け焼き刃で取り入れても滑稽なだけですから、人との接し方や食卓のたたずまいなど、もっと広く深い意味での日本の文化、といっておきましょう。そこを間違ってはダメだと思います。
 いま息子は、私がヨーロッパを旅していたときと同じ年頃になりました。そんな影響もあり彼はドイツでも学んだのですが、この宿の跡を継ぐことになっています。新しい世代がこれから作っていくひらふに、親として、同業の先輩として、私とワイフはとても期待しています。
 
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ペンション グラン・パパ・二川原 和博さん

 
 
 
 はやくからスキー場周辺でホテルやペンションを経営してきた皆さんの声を、シリーズでお伝えしましょう。まずは、ヨーロッパ・スタイルの山岳ホテル、「ニセコパークホテル」の福井実さんです。
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 ニセコパークホテルは1977(昭和52)年の開業です。実家が倶知安駅前で旅館(福井旅館)をやっていまして、ひらふに支店を出すことになりました。両親にサポートしてもらいながら、当時26歳の私がそこを任されたのです。倶知安で生まれ育った私ですから、もちろんスキーは大好きでした。東京の大学へ進学すると基礎スキーに夢中になり、志賀高原(長野県)や白馬(同)など本州の人気スキー場にもよく行って見聞を広めていたので、それが役に立ちました。
 
 当時の宿はまだ全部で10軒くらい。いまでは想像しづらいかもしれませんが、ひらふ坂ではゲレンデから見て私のところが一番下の方だったのです。客室定員は80名くらい。なにしろ自分がスキー好きですから開業前は、空いた時間で毎日すべられるゾ、と楽しみにしていました。でも実際に営業をはじめてみるとそれどころではありません。お客様がいる以上24時間何があっても気が抜けませんからシーズン中は事務所で寝泊まりすることになり、毎日必死でした。そんなところがお客様から評価されていって、常連さんを増やすことができたのだと思います。
 
 時代の流れにも恵まれました。70年代の後半から本州からのスキーツアー商品ができて、経営は右肩上がり。ホテルも増築を重ねていきました。90年代のはじめまで、いま思えば本当に良い時代だったですね。年末年始や連休などはシーズン前に予約が埋まってしまいます。みんなでウェアを揃えた社会人のスキークラブなども、たくさんいらっしゃいました。学校の冬休みには札幌などからも家族づれがどっと来て、そこで宿が取れなかったご家族が、1月末からどんどん入りました。ただしさっぽろ雪まつり期間中は、客足がグッと落ちます。スタッフへはそこでいったん休みをあげて、雪まつりが終わるとまたてんてこ舞いの忙しさが戻ってくる。
 
 ハイシーズンはほとんど毎日満室で、朝ご飯とその片付けが終わるころにはもうクタクタです。すこし休むと全館の掃除と夕食の用意。夕食が終わったと思っても、まだ夜食の用意をしなければならない。ですからシーズンが終わると、疲れ果ててしばらくは何もしたくないのです。そのうち同業者たちのあいだで、「今年は旅行どこへ行くの?」なんていう話が出てきます。冬のあいだがむしゃらに働いたのだから、オフには毎年のように家族で海外旅行を楽しむ、という話も珍しくありませんでした。
 
 90年代に入ってバブル経済がはじけ、阪神淡路の大震災、拓銀(北海道拓殖銀行)の破綻に代表される日本経済の失速などがつづき、80年代のことは遠い昔話になってしまいました。でもあの時代があと5年続いたらどうなっていたか–。ちょっとしたお金持ちにはなったでしょうが、果たして体がもっていたかどうか、心配になります(笑)。
 
 2000年代に入ってオーストラリアをはじめとした海外の方がたくさんいらっしゃるようになり、ひらふの新しい歴史がまた動き出しました。ホテルやペンションの経営も、そろそろ2代目が表にでてくるようになっています。ひらふの財産はなんといっても、すばらしい雪と山。これがある限り私たちは、この宝物を末永く活かしていくために、これからも努力を重ね知恵を絞っていかなければなりません。
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ニセコパークホテル 福井実さん

 永江勝朗(かつろう)さんが語る話を続けましょう。今回は、1950年代から60年代にいたる時代です。
 ひらふスキー場の土地は、標高400メートル付近を境界として上は国有林、下は町有地です。戦前まで、現在の町有地を所有していたのは、ドイツの資本が入った馬込産業という企業でした。敗戦後この土地は、連合国への賠償の一部として管理されていました。倶知安町ではこの払い下げを受けるべく1949年から運動を進め、53年に買収に成功します。広さは493ヘクタール。この取得によって、やがてはじまるスキー場開発が可能になったのです。

スキー場が開設する以前のひらふ1961年春頃

 
 1959年1月。砂川市長選へ立候補するために辞任した松実菱三町長の後任を決めるために、倶知安町長選挙が行われました。当選したのは、後志支庁長だった高橋清吉さんです。高橋町長は企業誘致と観光振興を積極的に進めました。1959年の冬、世界のアルペンスキー界のスターであったトニー・ザイラーが日本で映画を撮るという情報をキャッチするや、すぐさま誘致運動を開始。映画は結局、リフト施設のある蔵王スキー場(山形県)で撮ることになり、わがまちにもリフトを、という気運がいよいよ盛り上がりはじめます。ひらふのリフトの源流となった合板製造企業、北海道ファイバーボード(株)を誘致したのも、結果として企業誘致と観光振興の両面をかなえた高橋町長の実績となりました。
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リフトの建設作業風景1961年夏

 
 1960年。町内で倶知安橋とひらふ橋、ふたつの橋が永久橋となりました。これによって山へ機材や資材を上げることができるようになり、冬には重機による除雪も可能になります。また樺山と山田部落のあいだにある深い沢を渡して「せんのき大沢陸橋」が竣工しました。さらにこの60年。山田部落に電気が通ります。倶知安駅が改築され、観光の玄関ができたのもこの年。そして1897(明治30)年の開業以来国有林の中のあったひらふの山田温泉が、1961年の秋にふもとに移設されました(同温泉は2010年の秋に取り壊されました)。
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第1・2リフトの開業日1961年12月17日
左側に見えるのは、当時新装なった山田温泉。
その右上後方にはそれ以前の山田温泉の建物も見えます。
(写真をクリックすると大きな写真も見ることができます。)

 
 永江さんは、こうした動向のどれかひとつが欠けても、1961年のリフト設置はなかったのではないか、と語ります。スキー場の長い前史を持つひらふに、ついにリフトが架かったこと。それは、多くの人々が関わる土地のさまざまな営みの上に実現した、必然的な出来事だったと言えるかもしれません。
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スキー場が開設する以前のひらふ坂1961年春頃。

 
 
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そして、こちらは近年のひらふ坂。
50年の歴史の中で、今は海外からのスキー客も
行き交うメインストリートに。

 永江勝朗(かつろう)さんは、アルペンリフトのコースや、宿泊のできる山荘の設計に没頭しました。スキーヤーが自然に滑り込んでくる低地にリフト山麓起点を設けたり、リフト詰所と山荘事務所を合体させるなど、高原リフトでの4シーズンの経験をもとに新たな工夫もなされます。限られた予算の中での突貫工事で、備品類は町内を駆け回って調達したといいます。ふたつの山を重ねたニセコ高原リフトの三角マークに対して、永江さんは丸い枠の中にリスを入れたマークを作りました。
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ホテルニセコアルペンロゴマーク
永江さん考案のリスのマークは今も使われています

 
 リフトは当初、国有林の中の「馬の背」付近を降り場とする計画でした。しかし営林署への申請に手間取り、陸運局への運行申請に間に合わせるには、すでに許可の出ている町有地内に置かなければならなくなりました。延長645メートル、高低差150メートル。原動所への電気の引き込みは、北海道初の地下ケーブルとしました。
 宿泊の山荘の料金は、1泊2食で1000円。民宿よりは高いものの、大きなポークステーキをメインにした豪華な夕食を提供します。社用車もまだ持てない中で、少数精鋭のスタッフが昼夜奮闘を重ねました。
 
 しかし創業1年目の成績は、あえなく低迷。高原リフトが2機なのに対して、サンモリッツリフトは1機。しかもリフト山頂が、国有地の高さに届かない中途半端なものだったからです。一方で山荘の売り上げは健闘したため、立地の良さは裏づけられたといえます。
 
 2シーズン目を迎える1966年。なんとしても第2リフトの建設が急務です。永江さんは資金確保に奔走し、ニセコスキー連盟理事長秋山有俊(倶知安町金毘羅寺住職)さんのアドバイスなどを受けながら、800メートル台地に第2リフトの山頂点を据えました。高低差300メートル、リフト延長1000メートル。当時としては画期的な挑戦です。9月に起工式。工事は急ピッチで進められ、1967年の年明けに運行開始の目途が立ちました。
 
 しかし突然、大きな障害が立ちはだかります。電力不足です。当時スキー場の電力は、山田部落が持っていた電力線をニセコ高原観光が買い取っていました。サンモリッツリフト社でもこの電気を使う予定でしたが、この電力は2社が利用するには十分なものではありませんでした。
 
 そこで、サンモリッツリフト社は電力をディーゼル発電に切り替え、予定通り67年の1月1日から第2リフトの運行を開始しました。
 この事をきっかけにサンモリッツリフト社とニセコ高原観光は袂を分ち、以後、両社はリフトの拡大を互いに競い合いながら、ひらふスキー場の現在の姿の基礎を築くことになります。
 
 これが、ひらふに2社のリフトが誕生したいきさつです。専務取締役として長年サンモリッツリフト(株)を率いた永江勝朗さんは、1986年に63歳で退任されました。

新年あけましておめでとうございます。
本年も、当ブログをよろしくお願い申し上げます。
 
 さて、昨年末の当ブログでもご紹介致しました年末恒例のたいまつ滑走。年末のスキー場を盛り上げたいという気持ちを抱いた若き有志の方々の手で1975年に始められて以来35年目となる今回も、180名の方々が参加され、新年のカウントダウンとともにたいまつをかかげ華やかに滑走を楽しまれました。
 
 今年は、雪も降り止み視界良好の中、1000人を越えるギャラリーの皆さんにもお集まりいただきました。滑走参加の皆さんの中には、遠く九州は福岡、さらにはヨーロッパからいらっしゃった皆さんも!
 まさに新年の幕明けにふさわしい輝かしい年越しが出来ました。
 今年もたいまつ滑走を大成功に導かれた光森さんをはじめスタッフの皆さん、そして参加者の皆さんに感謝と本年のご多幸を込め、心からの拍手をお送り致します。
 
 次回も、たくさんの参加者と見物の皆さんが集うことを、グラン・ヒラフが、お待ちしています。
 

たいまつ点火5分前

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たいまつ点火

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 さあ、今年12月17日には、いよいよニセコにおけるリフト開設50周年の大きな節目がやって来ます。
 当ブログでは、今後も昨年に引き続き「アルペンリフトの設立のお話」、そして「ペンション街のなりたち」「ひらふから世界を目指すアスリートの誕生とその育成者たち」「パウダーに魅せられて国内、国外から移り住んだ人々」など、たくさんのヒストリーエピソードをお伝え致してまいります。
 今後も是非、お楽しみにどうぞ!

2011年元旦
ニセコスキー100年史 ひらふスキー場発達史刊行委員会