NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2009年12月
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第1回 1961(昭和36)年12月17日。
その日、ひらふスキー場ニセコ高原リフトは開通した!

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 「2万人の人出で」「ニセコスキー場で盛大にリフト開通式」―。
 これは1961年12月17日(日)、ニセコ高原比羅夫スキー場のオープンを告げる、北海道新聞の見出しです。
 第1第2リフトの合計1,070メートル(現在のキング第1ペアA・B線と、キング第2クワッドの前身)というスケールは、当時の延長距離では、日本有数の画期的なリフトの誕生でした。ひらふスキー場(現ニセコグラン・ヒラフ)の歴史は、ここからはじまったのです。


 日本のスキーリフトはまず戦後まもなく、札幌の藻岩山や志賀高原丸池(長野県)などに進駐軍専用として設置されました。やがて草津温泉スキー場(群馬県)や野沢温泉スキー場(長野県)に民間のリフトが作られていきます。1961年の北海道には、札幌の荒井山や藻岩山、小樽の天狗山などにすでに中小規模のリフトがありました。しかし、戦前から「東洋のサンモリッツ」と呼ばれたひらふに誕生したこのロングリフトが、やがて来る北海道での本格的なスキーブームの扉を大きく開けることになります。


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 12月17日。リフト開業日のひらふは久しぶりの快晴。札幌から初運行した臨時の準急スキー列車「ニセコ号」や胆振線(伊達紋別駅・倶知安間。1986年廃線)がニセコでのリフトの誕生を待ちかねたスキーヤーを運び、比羅夫駅からスキー場へは、国鉄バス、ニセコバス、銀嶺バス3社の計9台のバスが招待客や一般客をピストン輸送。北海道副知事やスキー連盟関係者と共に、ニセコ高原観光の竹中治社長がテープカットをすると、有名選手らがつぎつぎにリフトで上がり、美しいシュプールを描きながら滑走をはじめました。それに合わせた盛大な花火が興を添えまさに盛大なる様相を呈したわけです。ただし、この日一日でひらふに、2万人もの人出があったという新聞報道については、正確な入り込み人数として異論もあるようで、その事実の如何については、今後のページで取り上げてみたいと思います。


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第1回 1961(昭和36)年12月17日。
その日、ひらふスキー場ニセコ高原リフトは開通した!

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 「2万人の人出で」「ニセコスキー場で盛大にリフト開通式」―。
 これは1961年12月17日(日)、ニセコ高原比羅夫スキー場のオープンを告げる、北海道新聞の見出しです。
 第1第2リフトの合計1,070メートル(現在のキング第1ペアA・B線と、キング第2クワッドの前身)というスケールは、当時の延長距離では、日本有数の画期的なリフトの誕生でした。ひらふスキー場(現ニセコグラン・ヒラフ)の歴史は、ここからはじまったのです。


 日本のスキーリフトはまず戦後まもなく、札幌の藻岩山や志賀高原丸池(長野県)などに進駐軍専用として設置されました。やがて草津温泉スキー場(群馬県)や野沢温泉スキー場(長野県)に民間のリフトが作られていきます。1961年の北海道には、札幌の荒井山や藻岩山、小樽の天狗山などにすでに中小規模のリフトがありました。しかし、戦前から「東洋のサンモリッツ」と呼ばれたひらふに誕生したこのロングリフトが、やがて来る北海道での本格的なスキーブームの扉を大きく開けることになります。


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 12月17日。リフト開業日のひらふは久しぶりの快晴。札幌から初運行した臨時の準急スキー列車「ニセコ号」や胆振線(伊達紋別駅・倶知安間。1986年廃線)がニセコでのリフトの誕生を待ちかねたスキーヤーを運び、比羅夫駅からスキー場へは、国鉄バス、ニセコバス、銀嶺バス3社の計9台のバスが招待客や一般客をピストン輸送。北海道副知事やスキー連盟関係者と共に、ニセコ高原観光の竹中治社長がテープカットをすると、有名選手らがつぎつぎにリフトで上がり、美しいシュプールを描きながら滑走をはじめました。それに合わせた盛大な花火が興を添えまさに盛大なる様相を呈したわけです。ただし、この日一日でひらふに、2万人もの人出があったという新聞報道については、正確な入り込み人数として異論もあるようで、その事実の如何については、今後のページで取り上げてみたいと思います。


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