NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第11回 はじまりは、ファイバーボード。(1)

 1961(昭和36)年12月17日。ニセコ高原比羅夫スキー場(現グランヒラフ)にはじめて2本のリフト(延長1,020m)が完成して、オープニングセレモニーがにぎやかに行われました。これまでひらふの古い歴史をさかのぼっていたこのコラムですが、ここからしばらくは、リフト開業前後のお話をしましょう。


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1961年12月17日 ニセコ高原スキーリフト第1期完成祝賀会場風景

 1960年代に入ってすぐ、北海道でも小樽の天狗山や札幌の藻岩山などに一般市民向けに本格的なリフトが誕生していました(藻岩山には戦後まもなく進駐軍専用のリフトがありましたが、日本人は利用できませんでした)。そして満を持してひらふに、それらを上回るスケールのリフトが誕生したのです。当時の新聞報道などを見ても、インパクトの大きさがうかがわれます。しかし実は当初ひらふのリフトは、スキー場施設として計画されたものではありませんでした。ではなんのためのリフトだったのでしょう。
 1950年代末、北海道岩内町に日本ファイバーアングル工業社のファイバーボード工場がありました。ファイバーボードとは、木材の繊維を接着剤などと混合させて熱成型する合成板のことで、均質で加工も容易なことからさまざまな需要がありました。この会社の母体は、大手海運会社の日東商船(株)です(合併によって1964年にジャパンラインに。その後ナビックスライン→現在の商船三井につながる)。

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日東商船タンカー旭栄丸
長澤文雄氏のホームページ「なつかしい日本の汽船」
http://homepage3.nifty.com/jpnships/ より転載

 日東商船では、ファイバーボードの増産を図るために大規模な投資を計画しました。同社には、この地域に無尽蔵ともいえるほどあった根曲がり竹(チシマザサ)を原料に活用する先進技術があったのです。計画を聞きつけて、倶知安町が当時の高橋清吉町長を先頭に工場誘致に乗り出します。岩内町も誘致を図りましたが、1961(昭和36)年2月、倶知安町六郷(現在倶知安風土館などがある一画)に資本金1千万円で北海道ファイバーボード(株)が設立され、工場の建設が始まりました。そしてニセコ山系の根曲がり竹を刈り出すために、大規模な索道(リフト)も設置されることになりました。
 しかしなんということでしょう。工場建設中に海外の競合商品が大量に輸入されるようになり、機械を設置する前に工場は立ちゆかなくなってしまったのです。結局北海道ファイバーボード社は、はじめたばかりの歩みを止めるほかありませんでした。けれども原料輸送用のリフト計画が、この出来事にまた新たな道を開くことになります。
 さて、当初は倶知安での大量生産を見込まれたファイバーボード。これははたして何に使われることになっていたのか、想像がつくでしょうか。昭和30年代のテレビを知っている方なら記憶にあることでしょう。実はテレビの裏板。小さな穴がいくつも開いた放熱板でした。

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昭和30年代のテレビ背面のファイバーボード放熱板 撮影協力:北海道開拓記念館

 テレビが多くの家庭に普及し始めた当時、日東商船は傘下の日本ファイバーアングル工業社をつうじて、国内電機メーカー各社にファイバーボード放熱板の供給を行っていました。