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Niseko Powder History【第4回】

| カテゴリ: Niseko Powder History

リフト開業に話をもどしましょう。

実は当初ひらふのリフトは、スキー場施設として計画されたものではありませんでした。ではなんのためだったのでしょうか。

戦後まもなくから、倶知安から見ればニセコ山系の山向うの岩内には、日本ファイバーアングル工業社のファイバーボード工場がありました。ファイバーボードとは、木材の繊維を接着剤などと混合させて熱成形する合成板のことで、均質で高品質、加工も容易なことからさまざまな需要がありました。この会社の母体は、大手海運会社の日東商船㈱でした。

日東商船では、ファイバーボードの増産を図るために大規模な投資を計画しました。同社には、ニセコに無尽蔵ともいえるほどあったチシマザサ(根曲がり竹)を原料に活用する先進技術があったのです。この計画をいち早く聞きつけたのが、倶知安町の高橋清吉町長。町長は前・後志支庁長で、1959(昭和34)年1月の町長選で当選したばかり。新町長は企業誘致と観光による新たなまちづくりを掲げていました。

この1959年の冬、倶知安町ではアルペンスキー界の大スターだったトニー・ザイラーが、松竹の制作で日本で映画を撮るという情報を得て、すぐさま誘致運動に取り組みます。中心になったのは、福島新太郎道議(福島世二、現・倶知安町長の父)、南河幸治町議、そしてチセハウス管理人の織笠巌です。1956年の凝るティナダンペッツォ冬季五輪で回転・大回転・滑降の三冠を取るなど世界最高のスキーヤーだったザイラーは、1958年のシーズン後プロスキーヤーに転向。主演映画「白銀は招くよ!」は主題歌と合わせて日本でも大ヒットを飛ばしていました。しかし映画のロケ地は結局、リフト施設のある蔵王スキー場(山形県)になりました(「銀嶺の王者」1960年公開)。今度こそはと、役場と町議会はファイバーボード工場誘致に全力を挙げたのです。

町長のトップセールスに随行したのが、のちに倶知安町長(1983年から3期)となる宮下雄一郎さん。当時34歳で、総務課にできたばかりの企画室室長でした。

「役場には、その数年前に台糖」製糖会社)の工場誘致に、契約寸前でご破算を食らった悔しさもありました。関係者はこのとき、倶知安には工場がこないというジンクスがある、などと噂したものです。そこで十分作戦を練ったのです。ササは倶知安の方が資源量があり、搬出にも都合が良い。用地も胆振線六郷駅近くの町有地を提供する。そうした条件をもって東京丸の内の日東商船の本社と、製造ラインを設計する大川研究所(神奈川県逗子)に行きました。そのとき生まれてはじめて飛行機に乗りました。プロペラ機で、新聞に『昨日の飛行機搭乗者』という名簿が載った時代です。」

大川研究所の大川兄弟はこのあとひらふの歴史に深く関わることになるのですが。高い技術を持っていた彼らは山形県の新庄市で、スギの皮や廃材の繊維から合板をつくる工場をすでに稼働させていました。町長らの奮闘のかいあって、倶知安は岩内町側の売り込みにも競り勝ち、工場誘致に成功を収めました。役場内には「工場建設本部」が設けられ、高橋町長がじきじきに本部長に就任します。

1961年2月、倶知安町六郷に資本金1000万円、従業員80名、日産30トンの生産計画で北海道ファイバーボード㈱が設立されました(社長は日東商船社長の竹中治)。操業開始は、翌春の予定。6月には北海道副知事や後志支庁長、高橋町長らを来賓に迎えて起工式が行われます。計画の中には、ワイスホルン方面からチシマザサを年間30万朿刈り出すために、大規模な索道(リフト)の設置がうたわれていました。

さてこのチシマザサの繊維から作られるファイバーボードですが、はたして何に使われたのでしょう。昭和30年代のテレビを知っている過多なら記憶にあることでしょう。実は主にテレビキャビネットの裏板、小さな穴がいくつも開いた放熱板でした。合板がプラスチックよりも熱に強く、機械で打ち抜ける強度を持つことから開発されたもので、日東商船は傘下の日本ファイバーアングル工業社を通じて、国内電機メーカー各社に供給していました。

日本のテレビ放送は、1953年2月にNHKの放送からはじまっていました。その後59年春の皇太子ご成婚をきっかけに受像器の爆発的な普及が進み、60年にはカラー放送がスタート。衛生を使った海外中継がはじまったのは63年11月ですが、アメリカからの最初の中継は、ケネディ大統領暗殺の衝撃的な映像でした。日本全国のお茶の間にテレビが急速にいきわたり、メディアのあり方や人々のライフスタイルを激変させていた時代。それが60年代初頭だったのです。

 

Let’s get the topic back to the ski lifts.

At first, the lifts installed in Hirafu were not intended to carry skiers up the ski slopes. If that is the case, what were they for?

Just about the time the war ended, a company called Japan Fiber Angle Industries began running a fiberboard factory in the Iwanai area, which is located on the opposite side of the Mt. Annupuri from Kutchan. Fiberboard, is a plywood made by combining wooden fiber with adhesives. These boards were both high quality and easy to manipulate and demand was high in various industries. The owning company of Japan Fiber Angle Industries planed on large investment to uprise production of these fiberboards. The company had the advanced technology to use sass (bamboo) as base material of the fiberboards, and Niseko’s mountain range were literally covered with bamboos. Mr. Seikichi Takahashi, Town Mayor of Kutchan at that time heard about this plan and became interested as his campaign promise was to energize the town through inviting new businesses and through tourism.

The Winter of 1959, there was rumors that Anton “Toni” Sailer would be visiting Japan to for a movie shooting and Kitchen Town moved quickly to invite the film crew. However, the town saw defeat to Zao, in attracting the film crew and the reason of defeat was because Zao already had a lift system while Kitchen did not. From this experience, the town members were determined to succeed in inviting the fiberboard factory to Kutchan.

After nearly two years, in February 1961, Hokkaido Fiberboard Corporation was set up in Kutchen town. Hokkaido Fiberboard Corporation’s new Kutchan factory was designed to hold 80 full time staffs and produce 30 tons of fiberboards daily. The point here is that the factory was “designed” with the above mentioned specs and not that it actually carried 80 staff or produce 30 tons of fiberboards daily. I’ll introduce the backstory behind it in later pages…

Jumping the topic a bit, would any of the readers happen to know what these fiberboards were mainly used for? Readers in the ‘older’ generation may recall that there was a wooden plate with holes at the back of TV’s. That is where fiberboards were mainly used. TVs became widely common in Japan at around 1959, and massive numbers of televisions were produced, hence the high demand for fiberboards.

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