NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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 1968(昭和43)年から2007年まで、「旅館さかえ」を経営していました。いまは女房とふたりで、「居酒屋さかえ」をやっています。

 

 生まれは日高の三石町字歌笛。18歳のとき札幌で板前の道に入りました。それから調理師免許をとって羽幌や岩見沢で働き、函館の湯の川に行きました。そこで、ひらふの大雪閣で板前をさがしているから行かないか、と誘われたんです。まずその夏に、どんなところかと見に行きました。お客が全然いなくて、閑古鳥が鳴いてましたよ(笑)。当時のひらふは、半年はほんとになにもないところ。ひまな季節は遊んでていいから、と言われて転職を決めたのは、1965(昭和40)年でした。確かに夏場は、国鉄や役場、支庁関係の宴会がときどきある程度だったんです。

 

 そこに3年ほどいて、29歳でかみさんも見つけて、同じひらふで旅館をはじめました。なんとかお金を工面して、8室からのスタート。ひらふ坂の途中、いまのひらふ亭さんの向かいです。1968年当時、リフトができて7年経っていましたが、宿の数もわずかで、ひらふはまさにこれから、というところ。電気もリフト用のものを分けてもらっていて、われわれは電気代をニセコ高原観光に払っていたんです。ひらふ坂も、第1駐車場ができる前で舗装されていませんから、春先にはどろんこ状態。山田温泉やリフト会社が持っているジープでしか上がれませんでした。

 

 サンモリッツリフトの寺岡四郎さんが会長で、永江勝朗さんが現場をまとめる「ひらふスキー場振興会」という集まりがあったんです。リフト会社や宿がそれぞれ会費を出して予算を作って、内地に視察に出かけたりしました。地区として宣伝パンフレットも作りました。そのほか除雪をどうするとか、いろんなことをみんなで話し合ったものです。

 

 ひらふで板前料理を出すところはほかになかったので、うちは料理を売りものにしました。その一方で、一部の民宿のおかみさんたちと一緒に料理の試食会をやったりしました。すべてが新しい土地では、自分のことばかり考えては商売になりませんからね。

 

 でも開業して5、6年は厳しかったです。シーズン中は函館時代の先輩や仲間が来てくれたり、リフト会社が宴会に使ってくれたりもしましたが、夏は女房に旅館を任せて、洞爺の温泉街で働きました。出稼ぎです。
 1970(昭和45)年にここで国体があったとき、青森県の選手団が泊まってくれたんです。そこから縁ができて、その後も青森の方がたくさん来てくれた。シーズン終盤、八甲田で春スキーをする前にひらふで滑る。そんな方がけっこういたんです。そうこうするうちに大手航空会社のスキーツアーがはじまって、世の中にスキーブームがやってくる。ようやく商売の基盤ができていきました。JALのスチュワーデスさんとか整備士さんなども、よく来てくれました。

 

 1980年代の半ばはスキーツアーの全盛時代。高原リフトとアルペンリフトが毎年のように競い合ってリフトを伸ばして、ほんとうに活気がありました。うちの常連さんたちは仲が良くて、スキークラブ(ひらふスキークラブ)を作りました。今でもちゃんと続いていますよ。
 でもそのころ、宿の中にはどうかするとお客さんじゃなくて、ツアー会社の方を向いて仕事をしていたところもあった。そういう宿は、ブームが去ると苦労していましたね。宿は、お客さんとの人としてのつながりをなくしちゃダメです。

 

 私のスキー歴ですか? 来たころは、湯の川にいたときにニヤマ高原で少し滑ったことがある、という程度でした。ニセコは上級者しか行けない所だと思っていた。ここに来てからは、せっかくだからと挑戦をはじめたんです。若かったし、シーズン中は忙しくても一日一回は滑ろうと決めて滑っているうちに、どんどん熱中しました。朝、お客さんをゲレンデまで案内していっしょに滑って、午後はあいた時間に自分ひとりで滑ったり。ゲレンデにいいお手本がいっぱいあったので、上達できたと思います。やがてスキー検定の1級をとることもできました。

 

 旅館は40年やりました。増築を繰り返して35室くらいまで大きくしましたが、そろそろ全面的にリニューアルしなければならない時期を迎えて、考えました。また借金を抱えて旅館をするよりも、もうそろそろ、少しのんびり暮らそうじゃないか。若いときは家族でがむしゃらに働いたんだから、と。そして旅館の土地を売って、近くにこの居酒屋兼住宅を建てたんです。いまは、冬は一生懸命働きますが、夏は弁当や予約のお客さんだけです。

 

 子どもは4人で、孫が5人います。みんな倶知安で暮らしていますから、自分は幸せ者だと思います。三男坊は同じひらふでスープカレーの店をやっています。