NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2011年4月
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第33回 ひらふとオーストラリアの出会い-1
ふたりの出会いは、日豪の最初の出会い。
(株)NAC代表取締役・ロス フィンドレーさん 陽子 フィンドレーさん

 
 
ロス・フィンドレー夫妻_MG_9545.jpgロス/僕がはじめて陽子と会ったのは、1991年の2月。ひらふのゲレンデの中にある望羊荘だったね。
陽子/私は当時、ひらふのロッヂロンドさんに居候しながら、選手としてモーグルに夢中でした。ある日望羊荘の食堂の隅っこに、たくあんをかじりながらご飯を食べているロスがいました。なんて貧乏そうな「外人」かと思って、思わず話しかけたの(笑)。
ロス/だってライスは200円でたくあんはタダだったからね。そのときの陽子のまぶしいくらいのスマイルが、僕を結局北海道に住まわせたんだと思う。それから僕たちはずっといっしょにいる。
陽子/ロスはそのころ、テイネ(札幌)の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」でインストラクターをしていました。私は、夏は札幌に暮らして、冬はひらふをベースにモーグルの大会を転戦していました。「夏稼いで冬滑る」。そのためにふたりで協力しよう! と思いが一致して、やがてふたりで札幌でのバイトを見つけて、いっしょに暮らすようになりました。でも母からは、結婚するなら3年はいっしょに暮らしてみて、本当にわかり合ってからにした方がいいんじゃない? と言われました。ロスがはじめて日本に来たころは、日本の景気もとても良かった時代だね。
ロス/そう。オーストラリアでは、日本の留学生がワーキングホリデーを使ってたくさん働いていました。彼らの明るくてまじめな人柄を見て日本人には親しみがあったし、日本の経済もとても好調だったので、一度来てみたかったんだよ。
 
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 僕は1964年にオーストラリアのメルボルンに生まれ、シドニーで育ちました。キャンベラ大学でスポーツ学や経営学を学んで、86年に卒業。子どものころからいろんなスポーツをして、空手もやりましたよ。中でもスキーが大好きで、身につけた技術を活かして、アメリカとスイスでインストラクターをしました。学生時代から、スポーツを軸にして自分の人生を組み立てていこう、と思っていたんです。
 はじめて日本に来たのは1989年。ワーキングホリディビザを使って、札幌の手稲の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」で、2年ほどインストラクターをしました。それからひらふを知って、この山と雪に夢中になった。ここに住みたいと思って、91年の暮れから、冬は渡辺淳子さんのグラウビュンデンの支店のグラウビュンデンサンズで、春からは北沢建設でアルバイトをはじめたんです。
 
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陽子/恩人となってくださったのが、倶知安の北沢建設の北沢輝義社長ですね。
ロス/そうです。樺山(倶知安町)でログハウスを建てていました。資材の多くが輸入品だったので、英語の説明書に何が書いてあるかを訳してくれないか、と頼まれたんです。そうして建設現場で働くことになり、大工の技術を学ぶこともできました。同時に、日本語もずいぶん上達したよ。
陽子/はじめのころは、「お~いゲンノ取ってくれ」、なんて言われてもチンプンカンプンだったけどね(笑)。
ロス/そうね(笑)。94年の秋に、山田神社で神前結婚式を挙げたんです。オーストラリアから両親と兄弟を呼んで。
陽子/それから、ひらふで夏のビジネスをしようとふたりで考えて、95年の春、NAC(ニセコアドベンチャーセンター)を立ち上げました。メインの事業は、尻別川でのラフティング。ラフティング? 何それ? という時代でしたけれど(笑)。
 
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 ニセコの冬は文句なくすばらしくて、国の内外からいろんな人々がやってくる。でも夏は人の流れがパタッと止まっていました。とてももったない。だから夏のニセコの魅力をうまく伝えたいと思って、尻別川に目をつけました。いつも水量が豊富で、ニセコの自然が満喫できる清流です。ニュージーランドなどで盛んなラフティングがここでできないか、と考えたのです。陽子とカヤックで何度も下ってみて、これならいける! と確信しました。北海道ではじめてでした。
 といってもはじめての人がいきなりカヤックはあつかえないので、ゴムボートを使うことにしました。お金がないので、最初は一艘だけ。パドルは自作です。農家で使う鍬(くわ)の棒を買って、ブレードは廃材で作りました。でもこれがよく折れちゃう(笑)。毎日修理や補充が欠かせません。ボートも、3回目に底に大穴が空いてしまいました。なんとか修理して営業を続けました。
 お客さんには、ドライスーツを着てもらうことにしました。これはラフティングでは、世界で最初かもしれません。ドライスーツだから濡れたり寒さの心配がなくて、グンと人気が出たのです。
 最初のころ、PRのために札幌に行ってふたりでビラをまいたりしましたね。ちょうど川下りが重要なモチーフになっている「激流」という映画(主演:メリル・ストリープ)が封切られて、その映画館の前とかで。そうするうちにしだいに口コミやインターネットで広まってお客さんが増えて、2年目からは軌道に乗ったんです。
 
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ロス/本州からの修学旅行にラフティング体験を取り入れる学校も増えて、売り上げは順調に伸びていきました。97年に僕は、日本リバーガイド協会の設立に関わりました。そしてこの年の春、大滝村の大滝中学校が廃校になって、その体育館の部材を払い下げてもらうことができた。これを使って大きな社屋を建てようと思ったんです。ラフティングやトレッキングツアーの受付カウンターや、アウトドアグッズのショップ、そしてカフェ。さらにクライミングウォールを作ることにしました。営業を続けながらの手作りなのでずいぶん時間がかかってしまったのですが、1998年の12月にオープンできました。
陽子/ログハウスの建設現場で大工の技術を身につけたことが、とても役に立ったね。それと、建設工事とその後の営業でも、ひらふに暮らしたいと考えていた若い人たちに仕事場を提供できたことも、よかったと思う。
ロス/そうだね。少し前の僕たちみたいな人がたくさんいたし、その人たちの中にはいま、ラフティングやガイドなど、ひらふでいろんなビジネスをしている人がたくさんいる。みんなとにかくこの土地が好きで移り住んだ人たちだから、そういう人がたくさんいるまちって、これからさらに面白くなっていくパワーを秘めていると思う。
 
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 2003年、僕は国土交通省の「観光カリスマ百選」に外国人として初めて選んでもらいました。NACを立ち上げてから、冬だけじゃない夏のニセコの魅力を新しく掘り下げて発信する活動が評価されたようです。いまのニセコなら、夏に一週間いても、毎日いろんなことがたっぷり楽しめます。子どももファミリーも、そして若者や大人のグループも、スキーやスノーボードだけじゃないニセコの大自然の魅力を、もっともっと知ってほしい。陽子とひらふに暮らし、4人の子どもを育てながら、僕はいつもそう考えてきました。
 世界の中で、まず自分のいるところをさらにもっと良いところにしていきたい–。それはみんなが持っている自然な気持ちだと思う。僕も陽子も、たくさんの人たちと刺激し合い連携しながら、いつもそんな思いを大切にしています。