NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2011年2月
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アーカイブ: 2011年2月

 
 フルノートのオープンは1982(昭和57)年です。ちょうど東山プリンスホテル(現ニセコヴィレッジ)が開業した年。
 
 私の生まれは島根県の隠岐島(おきのしま)です。中学生のとき、鳥取の大山(だいせん)ではじめてスキーをして、それ以来大好きになりました。
 大学生活は東京でおくりましたが、そのころはもう立派なスキー狂いで、戸狩(長野県)なんかに行っていました。1泊2食650円とか、とにかく安かったのですよ。暖房はコタツだけ、なんていう民宿でしたが、そこのおばさんにとてもよくしてもらいました。またジャズにも夢中になって、ジャズ研でドラムに熱中しました。
 卒業すると東京で大手保険会社に勤めました。そのころの冬はもっぱら万座(群馬県)とか苗場(新潟県)通い。ニセコひらふにはじめて来たのは札幌オリンピックがあった年(1972年)でした。なんて大きなスキー場だろう、と思いましたね。それからここが、憧れの地になったのです。だから新婚旅行は山田温泉!(ひらふ)。会社には札幌に転勤したいと毎年言い続け、1980(昭和55)年にようやく願いがかないました。
 
 札幌では代理店と銀行回りの営業で、ゴルフも仕事のひとつでした。冬はスキー、夏はゴルフやテニス、釣りと、北海道の良さを実感するにつれて、もう東京になんか帰りたくないわけです(笑)。なんとか北海道で暮らしたい。そして、住むならひらふです。当時はペンションではなくロッヂと言っていましたね。まずアンヌプリスキー場近くのペンションを見せてもらって、よしコレだ、と思いました。ペンションの親父になろう、と。なんとか金策を進めて、ひらふのこの場所で82年に開業にこぎつけました。
 
 冬はスキーですが、夏の商品をどうするか。テニスとジャズで行こうと考えました。どちらも自分が大好きなもので、それでお客さんに喜んでもらえたら、こんなに幸せなことはありません。テニスは元の会社のサークルでよくニセコに来ていましたし。当時ゴンドラ下にコートが6面あり、自分でも4面作りました(現在は5面)。ジャズは、スタジオを作ってバンドやジャズ研の合宿ができるようにしたのです。スタジオはその後、ライブジャズの店「ハーフノート」へと発展しました。
 
 スキーは、はじめは大手ツアーのおこぼれをもらうような状態からはじまって、やがて若い連中がベンチャー的に立ち上げたツアー会社とも組むようになりました。そういう会社に浮き沈みはつきものですべてうまく行ったわけではありませんが、常連客を着実に増やすことはできました。
 ひらふは、外から来た人間をあたたかく迎える土地です。だから僕以降もほんとにたくさんの人たちが移り住んでペンションをはじめた。本州だとお墓を建てるまでその家は信用できない、なんて気風がありますが、ここはまったく違うんです。
 90年代には弟一家も東京から移り住んで、僕と同じくペンション(ウッディノート)をはじめたし、今では両親もここに住んでいます。僕や弟が中心になって、ログハウスを建ててあげたのです。
 
 そうして21世紀になってオーストラリア人たちがドッとやってきた。自分にとってはそこからまたグンと楽しくなってきました。ペンション街には、外国人相手の商売が苦痛で去っていった人もいたけれど、僕は面白いと思った。ランドサービスも次第に充実して、そんな流れがもう10年続いています。外国人の中には楽器ができる人も多くて、夜は彼らとセッションをしたり。スタジオには卓球台もあって、僕を負かす人はちょっといません。もうずっと、外国人との不敗神話を守っています(笑)。
フルノート・島谷さん.jpgのサムネール画像

ペンション フルノート・島谷昭一さん