NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第23回アルペンリフトの誕生-2
電力がもとで独立の道へ

 永江勝朗(かつろう)さんは、アルペンリフトのコースや、宿泊のできる山荘の設計に没頭しました。スキーヤーが自然に滑り込んでくる低地にリフト山麓起点を設けたり、リフト詰所と山荘事務所を合体させるなど、高原リフトでの4シーズンの経験をもとに新たな工夫もなされます。限られた予算の中での突貫工事で、備品類は町内を駆け回って調達したといいます。ふたつの山を重ねたニセコ高原リフトの三角マークに対して、永江さんは丸い枠の中にリスを入れたマークを作りました。
wh001小.jpgのサムネール画像

ホテルニセコアルペンロゴマーク
永江さん考案のリスのマークは今も使われています

 
 リフトは当初、国有林の中の「馬の背」付近を降り場とする計画でした。しかし営林署への申請に手間取り、陸運局への運行申請に間に合わせるには、すでに許可の出ている町有地内に置かなければならなくなりました。延長645メートル、高低差150メートル。原動所への電気の引き込みは、北海道初の地下ケーブルとしました。
 宿泊の山荘の料金は、1泊2食で1000円。民宿よりは高いものの、大きなポークステーキをメインにした豪華な夕食を提供します。社用車もまだ持てない中で、少数精鋭のスタッフが昼夜奮闘を重ねました。
 
 しかし創業1年目の成績は、あえなく低迷。高原リフトが2機なのに対して、サンモリッツリフトは1機。しかもリフト山頂が、国有地の高さに届かない中途半端なものだったからです。一方で山荘の売り上げは健闘したため、立地の良さは裏づけられたといえます。
 
 2シーズン目を迎える1966年。なんとしても第2リフトの建設が急務です。永江さんは資金確保に奔走し、ニセコスキー連盟理事長秋山有俊(倶知安町金毘羅寺住職)さんのアドバイスなどを受けながら、800メートル台地に第2リフトの山頂点を据えました。高低差300メートル、リフト延長1000メートル。当時としては画期的な挑戦です。9月に起工式。工事は急ピッチで進められ、1967年の年明けに運行開始の目途が立ちました。
 
 しかし突然、大きな障害が立ちはだかります。電力不足です。当時スキー場の電力は、山田部落が持っていた電力線をニセコ高原観光が買い取っていました。サンモリッツリフト社でもこの電気を使う予定でしたが、この電力は2社が利用するには十分なものではありませんでした。
 
 そこで、サンモリッツリフト社は電力をディーゼル発電に切り替え、予定通り67年の1月1日から第2リフトの運行を開始しました。
 この事をきっかけにサンモリッツリフト社とニセコ高原観光は袂を分ち、以後、両社はリフトの拡大を互いに競い合いながら、ひらふスキー場の現在の姿の基礎を築くことになります。
 
 これが、ひらふに2社のリフトが誕生したいきさつです。専務取締役として長年サンモリッツリフト(株)を率いた永江勝朗さんは、1986年に63歳で退任されました。