NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2010年7月
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第14回 ひらふで全日本スキー選手権開かれる

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 12月17日(日)に開業したニセコ高原比羅夫スキー場(現・ニセコグラン・ヒラフ)のリフトは、その後年内は無料開放となりました。そして開業の時点でスキー場の名称が、「ニセコひらふスキー場」とひらがなの表記となります。国鉄(現・JR北海道)ではスキー列車として、毎週土日に準急ニセコ号の運行を開始しました。
 年が明けて1962(昭和37)年。2月2日から4日まで、ひらふスキー場を会場に第17回北海道スキー選手権アルペン競技大会が開かれました。そして3月9日。ひらふにリフトを誕生させるきっかけともなった第40回全日本スキー選手権アルペン競技会が、いよいよ開幕します。それまで日本の山スキー史に重要な位置を占めてきたひらふを舞台にした、記念すべき初の全国大会です。あいにく天候が不順で選手たちはワックスに悩みましたが、北海道選手団は、男子回転で1位から6位までを独占したほか、女子滑降と同大回転をのぞく各種目ですべて優勝するなど、大活躍を見せたのです。
 
 準備期間が短い中で開催コースの重責を果たしたひらふスキー場でしたが、大会終了後、いくつかの問題も指摘されました。まず、コースの整備や除雪などで自衛隊への依存が多すぎたのではないか、という意見がありました。そして競技関係者や報道各社は、宿泊施設の不足をあげました。たしかにその時点でまともな宿泊施設といえば、山田温泉と大丸ヒュッテ(のちの大雪閣の場所)のみ。ふたつを合わせても収容人数は200名にとどきません。大会に合わせて急ごしらえで7軒の農家が民宿をはじめましたが、それも大会関係者全員を泊めるには足りず、多くの人が倶知安市街に泊まって会場に通うことになりました。
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旧山田温泉
 さらにアクセスも未整備で、町外からの主な交通手段は国鉄比羅夫駅からの国鉄バスのみ。倶知安駅からのバスの運行は翌シーズンまで待たなければなりませんでした。国鉄バスにしても、当時は急坂の道路の整備や除雪が十分ではなく、たびたびスタック。乗客が全員降りてバスを押す光景も見られました。ニセコ高原観光(株)大川仁吉所長の長男である大川富雄さんは、開業時から数年続いたそうした時代をなつかしく回想します。
「吹雪のときなど、スキー場の手前でバスは身動きできなくなってしまう。客はやれやれまたか、という顔をしてサッサと降りて、うしろから力を合わせてバスを押します。ようやく動き出して、先についたバスのあとからみんなが到着すると、運転手さんは何ともすまなそうな顔をして、積んであったスキーを渡してくれるのでした(笑)」
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当時のバス

※写真は、「降りしきる雪とともに」ニセコ国際ひらふスキー場の30年(1992年刊) より