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Niseko Powder History【第9回】〜第2章 ニセコスキー史〜

| カテゴリ: Niseko Powder History

第2

ニセコスキー史

NPH-8

硫黄鉱山からはじまるひらふの歴史

さらにしばらく時間をさかのぼり、この地の歩みをたどってみましょう。

江戸時代のひらふは、ニシン漁で古くから栄えた日本海側の寿都や岩内などとちがって、まちとしての和人の営みはありません。これはひらふに限らず、北海道の多くの内陸地に当てはまる歴史です。ニシンやサケの豊富な漁業資源を持ち、交易でも古くからさまざまな人の営みがあった日本海側とちがい、主に東北や越後、北陸などからの移民による内陸開拓が本格化するのは、ようやく明治20年代のことでした。

一帯の内陸でよく知られていたのは、ニセコアンヌプリの北西隣、硫黄が採れたイワオヌプリ(1116メートル)でした。この山はニセコ山系火山群の中で最も若い山と考えられ、数千年前まで活発な噴火活動があり、火口では近年にいたるまで噴気が確認されていました。

ニセコアンヌプリも1万年以内に大噴火歴のある若い山で、かつては羊蹄山のようなコニーデ型(成層火山)の時代があったと考えられています。

イワオヌプリでの硫黄の採掘は、遅くとも1804(文化元)年ことにさかのぼりますが、本格的に掘られたのは、1860(万延元)年代。ニシン漁を中心に当時の岩内で大きな商いをしていた場所請負人佐藤仁左衛門(仙北屋)が、約20キロの山道を整備して、採掘した硫黄を馬で岩内まで運び、そこから船で出荷しました。従事したのはニシン漁のために集めた雇い人たちで、馬の使用も、これが西蝦夷地(蝦夷地の主に日本海側)で最初期のもの。彼らが困難の末に開いた道は、現在の道々66号、ニセコパノラマラインの原型となったのです。

もともと岩内という地名は、アイヌ語のイワウ・ナイ(硫黄の川)に由来します。専従していたアイヌの人々は、採掘は行っていないものの、岩内から入ったイワオヌプリに硫黄があったことを、よく知っていました。

時代が明治に下ると、開拓使のお雇い外国人の鉱山技師、ベンジャミン・ライマンのお墨付きもあり、本格的な採掘がスタート。北海道庁が発足した年、1886(明治19)年には三井物産会社が、従来行われていた鍋による焼取り方ではなく、日本で初めての蒸気精錬によって生産を拡大しました。

ここで注目しておきたいのは、鉱山会社が使った索道(運搬器をつけたケーブル)です。

1892年(明治25)年、鉱山の運営会社は三井鉱山合名会社と名称を替えて、精錬所を北麓の元山に移します。1908(明治41)年には、そこから宿内(そこない、現・共和町字前田)までの索道が架けられました。約14.2キロの大規模なもので、提げられた篭によって岩内港へ硫黄を搬出し、岩内から必要物資を搬入します。岩内と宿内のあいだの輸送には、従来通り馬が使われました。漁業と物流、そして茅沼炭坑とイワオヌプリの硫黄による鉱業のまちであった岩内の人口は、明治40年代ですでに2万人を数えていました。

硫黄の輸送には1919(大正8)年から、さらに効率の良い鉄道輸送が導入されます。そのために鉱山から鉄道のある倶知安まで、約12キロの索道が架けられるのです。この時代が鉱山の最盛期で、索道は1時間に下り10トン、上り6トンの輸送力がありました。倶知安市街の荷着場は現在の南4条西4丁目あたりで、硫黄は倶知安駅から運び出されました。倶知安市街と直結された元山には2階建ての事務所をはじめ、鍛冶工場、鋳物工場、倉庫が増築され、社宅、食堂、診療所、そして小学校(岩雄登尋常小学校)までが作られました。

硫黄鉱山は大正中期に生産部門が北海道硫黄㈱として独立しましたが、(販売は三井物産)、生産高はしだいに減少の一途をたどり、1937(昭和12)年の春に閉山となりました(2009年、イワオヌプリ硫黄鉱山は、経済産業省の「近代化産業遺跡群」に選ばれました)。

硫黄鉱山で活躍した索道は、やがて設置されるスキーリフトの源流とも位置づけることができるのではないでしょうか。

It All Began From Sulfur Mines

 

Let’s wind the clock a bit more back in history.

Just like many inland towns in Hokkaido, not much action took place in Hirafu up until late 1890s. Towns like Iwanai or Suttsu were the center of development as these towns, facing the Sea of Japan had rich trade items and had better access from other parts of Japan.

The most well known location in the Hirafu area in those times were Mt.Iwaonupuri, the North Western neighbor of Mt. Niseko Annupuri. Mt.Iwaonupuri, is considered the youngest of Niseko’s volcanic mountains. Believed to have had active volcanic activities just till recently (a couple of thousand years ago).

Sulfur mining in the mountain dates back to around 1804 and picked-up enormously in the 1860s. Successful fisherman and market owner in Iwanai decided to open up a 20km route from Iwanai to Iwaonupuri to carry out sulfur from the mountain to port. This 20km route became the base of the current Niseko Panorama Line.

More and more people began mining in the area, and mining technology evolved. What’s interesting about these sulfur mines is that, they used lifts (cables with buckets) to transport dug-up minerals. In 1908, a lift system of 14.2km in length was installed! In the early 1900s, the town of Iwanai was booming with from trading of fish and sulfur, the town had over 20,000 in population.

With improvement in technology, trains became the most efficient means of transporting sulfur minerals. Nearest train station to the sulfur mines in Mt.Iwaonupuri was and is still Kutchan station. So, a 12km long lift system was installed from the mine to Kutchan town. This lift system was able to carry 10 tonnes every hour.

This was the peak era of mining in Mt.Iwaonupuri. The lift system progressed the mining business incredibly and the small mining fort in the mountain became a small town, with factories, warehouses, restaurants, housings and even a school!

All good times must come to an end. Little by little, the sulfur produce decreased and in Spring of 1937, sounds of drilling was heard no more.
Would it be too much to say that these sulfur mine lift systems were actually the very root of ski lifts we have now?

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

Niseko Powder History【第8回】

| カテゴリ: Niseko Powder History

NPH-8

 

全日本スキー選手権の開催

1961年12月17日に開業したニセコひらふスキー場のリフトは、その後年内は無料開放となりました。国鉄(現JR北海道)では前シーズンから、札幌と狩太(現ニセコ)間のスキー列車として、毎週末に準急ニセコ号の運行をはじめていました。初年度は1両で、このシーズンから2両編成。

年が明けて62(昭和37)年。1月には、日本交通公社(現JTB)と国鉄(東京鉄道管理局)主宰の北海道スキー観光団の第一陣57人が、上野(東京)からはるばる倶知安駅に到着。高橋町長や観光協会役員らが花束で出迎えました。ほかにも倶知安駅と比羅夫駅に列車が止まるたび、必ずスキーヤーのグループが降り立ちました。両駅からスキー場まで、国鉄バスと道南バスが通っていました。昆布温泉をめざすスキーヤーたちも、できたばかりのリフトを一度体験してから目的地に向かいます。SLの時代に別れを告げるディーゼル気動によるスキー列車は、2年目のこの年から黒字となりました。

2月2日から4日まで、全日本選手権の前哨戦として、ひらふスキー場を会場に第17回北海道スキー選手権アルペン競技大会が開かれました。これに合わせて以後国鉄は、週末のスキー列車として準急銀嶺号も投入し、比羅夫駅と山田温泉間の国鉄バスも増発。日曜祝日には札幌・目名(蘭越町)間と同岩内駅間にディーゼル準急を走らせました。これらは札幌と倶知安を、それまでより1時間近くも短いおよそ2時間で結んだので大好評でした。2月25日の日曜日には、直前まで小樽で開催されていた第17回スキー国体帰りの各地の選手団をはじめ札幌方面からのスキーヤーも押し寄せ、150メートルのリフト待ちができるほどの盛況。リフトには色とりどりのヤッケの花が咲きました。

そして3月9日から12日まで、ひらふにリフトを誕生させるきっかけともなった第40回全日本スキー選手権アルペン競技会が開幕します(ノルディック競技は札幌)。それまで日本の山スキー史に重要な位置を占めてきたニセコを舞台にした、記念すべき大イベントです。高松宮の臨席をあおぎ、本部長に高橋清吉町長を据えるまちをあげた取り組みでしたが、除雪(比羅夫駅・スキー場間4キロなど)やコースづくりを担ったのは倶知安駐屯地の400名の自衛隊員で、彼らは滑降コースのゴール下にテント村を作って野営しました。運営の現場は、倶知安スキー連盟の中心にいた国鉄や後志支庁の職員たちでした。倶知安スキー連盟理事長だった国鉄の千坂功司さんも中心メンバーのひとりです。役場企画室の宮下雄一郎さんは、「国道の除雪がはじまったのがその2年前にすぎず、駐車場も雪を除くのではなく踏み固めるだけ。私は道路のことや電話、電気敷説の交渉にてんてこ舞いで、とにかくすべて、役場にお手本がない事態だった」と言います。倶知安市街で冬期間に車が安定して走る事ができたのは、このときからでした。

ゲレンデを整備する圧雪車もない時代ですからコースづくりはすべて人海戦術。第2の壁も、20人ほどが1チームになってスキーで踏み固めながら降りていきました。ポールは比羅夫駅から会場まで、馬そりで運ばれました。スタート地点とゴール間の連絡は、無線ではなく有線でした。

大会中の天候はあいにく連日荒れ模様。積雪も多く除雪に追われ、自衛隊の働きが頼みでした。悪コンディションのもと、18都道府県217人の選手たちはワックスに大いに悩みました。目まぐるしく変わる転向に、男子滑降では第一シード組が完敗してしまいます。しかし北海道選手団は、男子回転で上位独占。そのほか女子滑降と同大回転をのぞく種目ですべて優勝するなど、大活躍を見せたのです。

このときの道産子優勝者は、スコーバレー五輪(1960年・米国)に出場した滑降の武田孝(明治大学)のほか、回転の玉井武(国鉄北海道)、大回転の大平義博(早稲田大学)。女子は、回転の中家千鶴子です。釧路生まれの中家の所属は、小樽創業の名門スキー企業、東洋木材(現トーモク)でした。ちなみにその前年、長野県志賀高原での第39回大会で大回転を制したのは、倶知安高校2年生の気田義也で、倶知安の次の年の全日本選手権で滑降と回転の二冠に輝いたのは、倶知安農業高校出身の福原吉春(明治大学)でした。地元大会での活躍が期待されたこのふたりでしたが、残念ながら気田は早大進学にともなって欠場。福原は同時期にスイスのビラールで行われたユニバーシアード大会に出場して、回転で見事4位に入りました。彼らをふくめた地元の名選手たちについては、項をあらためましょう。

短い準備期間でなんとか重責を果たしたひらふスキー場でしたが、大会終了後、多くの問題点が指摘されました。まず挙げられたのが、宿泊施設の不足です。たしかにその時点でまともな宿泊施設といえば、山田温泉と大丸ヒュッテ(のちの大雪閣)のみ。ふたつを合わせても収容人数は250名程度です。大会に合わせて急ごしらえで7件の農家が民宿をはじめましたが、それも関係者全員を止めるには足りず、多くの人が倶知安市街に泊まることになりました。

さらにアクセスも未整備で、町外からの交通は国鉄です。札幌・函館間の定期ダイヤには蒸気機関車C62が牽引する急行にセコ1号、同3号があり、勾配がきつい小樽・長万部間で行われる迫力満点の重連運転は、函館本線の名物でした。これに週末のスキー列車(札幌・狩太間、札幌・目名間のディーゼルカー)が加わりました。比羅夫駅と倶知安駅からの連絡はバス頼みでしたが、たびたびスタックしてしまいました。

 

All Japan Skiing Competition

Niseko Hirafu lifts were open to the public for free of charge for the month of December 1961. Ski trains from Sapporo to Niseko ran on the weekends and a group of 57 skiers came all the way from Tokyo to Kutchan to ride the new lift and to ski. Every time a train will arrive to Kutchan or Hirafu station, a group of skiers came the train. Amazingly, the ski train from Sapporo became a profitable one from year two.

From 2 – 4 Feb, the 17th All Hokkaido Skiing Competition was held at Niseko Hirafu as a test case for the All Japan Skiing Competition. Additional fleet of buses were put into transport guests from/to the train station to the ski slope. New diesel engine train connected Sapporo to Kutchan in two hours. On Sunday, 25 February, so many visitors visited the ski slope forming a lift seem to be an  queue of 100 meters!

Next month, in March 1962, the big event that triggered the lift construction in Hifaru finally took place. The 40th All Japan Skiing Competition. Was a brilliant event with added value with a visit of the Royal Family. Every member of town took part to make the event successful. One thing for sure is that the event wouldn’t have realized if it wasn’t for the 400 members of the Self Defense Force. The 400 members actually camped at the base of the mountain and cleared snow from the 4km long road between Hirafu station and the ski lifts.

This is still years before the snow groomers made debut. Ski runs were compressed by manpower. 20 skiers would form a line and ski down to groom the snow. Poles used for the competition was brought to the lifts by horses pulling sleds. No radio communication between the start and finish course marshals. Every communication was done via wired telephone… Good old times.

Weather wasn’t in favor of the competition. Everyday was met with heavy snowfall and strong winds. The 400 Self Defense Force members worked around the clock to keep the course condition skiable. 271 participants from all parts of Japan competed in the event. Team Hokkaido dominated in Mens Slalom, also took crown of almost all competitions.

Hirafu Ski Resort, despite the short preparation period, managed to host the competition in success. However, numerous comments were posted to Town after the competition. The biggest of the comments were “lack of accommodation.” At that time, there was only about 250 beds in the Hirafu area. 7 farmers began farm-inns for the competition, but that of course wasn’t enough. Many members had to find lodging in the town of Kutchan.

Staying in Kutchan and skiing in Hirafu is not an issue today, but back in those days roads weren’t paved and snow clearing wasn’t as thorough as it is now. Buses packed with skiers would often get stuck on it’s way from the train station.

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
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Niseko Powder History【第7回】

| カテゴリ: Niseko Powder History

山とスキーが取り持った出会い

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さて日東商船㈱の竹中治社長はなぜ、海運ともファイバーボードともまったく畑ちがいのスキー場事業への進出をこのように即決し、わずかの期間で実現させてしまったのか。竹中社長の人となりをまとめておきましょう。

竹中は1900(明治33)年和歌山市に生まれ、官吏だった父にしたがって幼少期には台湾や朝鮮の小学校に通いました。東京商科大学在学中に高等文官試験に合格して、卒業後すぐ官界に入ります。大阪の資産家の家系に婿養子で入ると1932(昭和7年)から実業界に転身。大阪株式取引所員などを経て1937年に37歳で日東鉱業汽船を創業。海運のほかに科学、陸運、航空、観光、石炭、電機、新聞など多くの事業に関わった、一世の風雲児ともいわれる経済人でした。戦争中は読売新聞の役員も務め、戦争の激化に伴って商工省時代の先輩岸信介に懇願されると、商工省大阪事務所長や大阪軍事管理部総務長として同省へ返り咲きました。戦前の日東鉱業汽船を再建してタンカーを軸にした日東商船を起こしたのは戦後の48年。日本の海運業界は1960年代に大きな再編の渦に巻き込まれますが、この記事はその直前でした。とりわけ竹中の名を知らしめたのは、スエズ運河の権益をめぐってエジプトとイスラエル、イギリス、フランスが起こしたスエズ動乱(1956年)の趨勢を読み切ったこと。彼は荷主との契約で、目先の利益を追った短期契約ではなくあえて逆ばりの長期契約に踏み切り、これがその後の日東商船の進路を大きく拓くことになりました。

筋金入りの左党で、晩年は右手に複数企業の決裁書類、左手にジョニーウォーカーが社長室での日常。間違いや未熟を許さない苛烈なワンマン経営者でありながら人生の機微を寛容にわきまえた竹中は、交わった人びとに強烈な印象を残すスケールの大きなリーダーでした。

当時倶知安スキー連盟理事長だった千坂功司さんは回想します。

「そもそも竹中さんはスキーについて何もご存知ありませんでした。リフトって何だ?という調子です。でもだからこそ、ものごとをまっさらの状態で判断できたのではないでしょうか」

ここにも、ひらふの秘められた物語が眠っています。

 

1961年の2月から3月にかけて、竹中は技術者らを引き連れて、チシマザサの資源調査のためにはじめて倶知安を訪れました。ワイスホルン周辺を調査する一行の写真が残っています。そしてこれに先駆けて現地に入り、地元の協力を受けながらワイスからニセコアンヌプリ一帯に独自の踏査を重ねていた人物がいました。ファイバーボードの開発研究エンジニアであった、大川研究所の大川修作さんです。彼はニセコ高原観光㈱所長大川仁吉の末弟でした。

大川家は5人兄弟で、仁吉は、長兄の理一郎の下の二男、修作は一番下の5男。そして彼らの父は、製紙やパルプ製造の分野で知られるエンジニア、大川理作です。理作は、親族にあたり大川平三郎(1860〜1936)のもとで研究のキャリアを積み、戦後は大川研究所を主宰して各地の製紙工業のコンサルタントを務めていました。兄弟はみなこの父のもとで仕事をする製紙・パルプの技術者だったのです。

明治以降に急速な開拓がはじまった北海道にとって、当時はまだ資源収奪型産業の代表的な存在であった製紙業との関わりは深く、その意味でも大川家と北海道との出会いには興味をひかれます。こうした延長に、根曲がり竹を原料にしたファイバーボードの開発があったのです。

千坂さんはつづけます。

「私たちは地元のスキーヤーとして、大川修作さんを案内しました。竹中さんがいらしたとき、ちょうどチセヌプリで地元の大会があったのです。社長にこれを見てもらって、もしリフトがあれば、こうした大会がどんなに便利になって盛り上がるかを説明しました」

千坂さんは1927(昭和2)年に巌ヌプリの硫黄鉱山の集落で生まれ、子どものころからニセコの山々は遊び相手。当時は倶知安駅に勤務する国鉄マンでした。職場でスキークラブを立ち上げたほか、56(昭和31)年には仲間とまちを動かして、旭ヶ丘にロープトゥを設置しています。この動力は、米軍が放出したディーゼル発電機でした。また倶知安駅が属する札幌鉄道管理局では、冬になるとニセコへのスキー客の誘致に取り組んでいました。まだ30代の山とスキーを愛する者同士、千坂さんと大川修作さんはすぐ打ち解けていきました。

大川修作さんは、旧制の中央大学山岳部出身。「戦後すぐ、1946(昭和21)年に入学しましたが、同期は年も境遇もバラバラ。戦地帰りで肩章をもいだ軍服で通う学生などもいました」と言います。

「焼け野原になった東京で、講義はあるけれど飯もないアルバイトもない。だから東京を離れて山歩きばかりしていました。田舎にいけば銀シャリ(米飯)にありつけます。まさに『国破れて山河あり』。冬は山スキーに夢中になりました。1959年の秋。親父が技術指導している岩内の工場に派遣されて、ササの植生を調べる資源調査のために、ニセコの山歩きをはじめました」

現地に入ると修作さんは、ニセコの魅力にすぐ夢中になります。雪が積もりはじめると登山靴をスキーに履き替えました。当初北海道ファイバーボード社は、ササの採取地をワイスホルンに計画していました。しかし修作さんはそのプランだけに縛られずに、山系を幅広く調べてまわりました。そして1961年の2月から3月にかけて、竹中社長ら日東商船幹部の視察があり、地元からは千坂さんらのサポートがあったのです。この時点で千坂さんや高橋町長の頭には、ササを搬出する索道はリフトに転用できる、という確信があり、大川修作さんもそれを充分に理解していたと思われます。

大川さんは言います。

「合板会社の所長から索道会社の所長へ———。はからずも人生の大転換をとげた兄の仁吉も、それまでスキーとは縁の薄い人でした。スキーのすばらしさや将来性を焚きつけるのに、僕もひと役買ったわけです」

役場の最前線で日東商船との交渉に当たっていた宮下雄一郎さんは言います。

「竹中さんは大川兄弟を肉親のように信頼していましたが、末っ子である大川修作さんはとくにかわいがられていた印象があります。竹中さんには、『倶知安町も熱心だしお前がそこまで言うのなら・・・』という気持ちもあったのではないでしょうか」

 

 

Mountain lover and Ski lover

The core business of Mr.Takenaka’s company was something far from skiing or lift operations. It was actually marine transportation and fiberboard production. Why did he decide on investing in the ski business, and how did he manage to realize this so quickly?? Let’s have a look at Mr.Takenaka’s history to understand why.

Takenaka, born 1900 in the city of Wakayama, spent his childhood days in Taiwan and Korea’s elementary school for his father was a diplomat. He followed his fathers footsteps and worked for the country right after university graduation. Married to an Osaka-based business owning family in 1932 and his talent in business grew. Started the marine transportation company in 1937, expanded his areas of business to chemical industry, land transportation, aeronautics, tourism, mining, electric appliances, and newspapers.

Strong leader who showed very little tolerance about mistakes, usually had a glass of Johnny Walker in his left hand and multiple corporate documents in his right hand.

Koji Chisaka, who was head of Kitchen Ski Federation at that time looks back and described Takeneka.

“Takenaka-san knew nothing about skiing. What is a lift? What equipment do you need to ski? These were the questions he asked me! Probably because he had zero knowledge about skiing, he was able to assess the skiing business without being biased.

Very interesting how history is a build up of these random happenings.

 

Chisaka continues;

“We took Okawa and Takenaka to Chisenupuri, where a local ski race was being held. We wanted to explain to Takenaka the positive impact that a ski lift can bring.”

Chisaka was born literally in the mountains of Niseko. He’s parents were residing in a small mining town at the base of Iwaonupuri mountain. The Niseko mountains has always been his friend and his playground. Began working at Kutchan train station, formed a skiing club at work, requested the Town to install a rope-tow to Asahigaoka Ski hill. Long story short, Chisaka was a natural born ski addict.

Okawa Shusaku, the younger brother of the Okawa family, who’s destiny made a steep turn along with the fiberboard factory, grew his love to the mountains during his University days, where he was a member of the Mountaineering club. Okawa, describes his University days as; “It was right after the war and Tokyo was nothing but ashes and burnt buildings. No work, no food, just nothing. So I often left Tokyo and walked around the mountains outside Tokyo. In winter, I’d again head to the mountains but with my skis. I was sent to assist my father’s factory in Niseko, and that’s where I met the Niseko mountains.”

Days after landing in Niseko, Okawa Shusaku fell in love with Niseko’s nature. Okawa walked around various mountains in the area to investigate bamboo growth, but many believe his mountain expedition was more a fun adventure rather than a company investigation.

“My older brother, who suddenly became head of lift operations from factory manager, he had very little ties with skiing. I guess I took a role in convincing him the beauty of skiing and the future of the skiing industry.”

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。
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取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

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