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Niseko Powder History【第16回】山スキーと競技スキーの時代

| カテゴリ: Niseko Powder History

NPH

山スキーと競技スキーの時代

 

レルヒが伝えたスキーは、どのように広まっていったでしょうか。再び中浦皓

至さんの研究をもとにまとめてみましょう。

レルヒの教えを受けた中で、札幌の月寒第二十五連隊の三瓶(さんべ)勝美らは、旭川の講習から帰隊するとすぐ3月14日から1週間にわたり、月寒連隊の一角(月寒小学校裏のくり山)で講習会を開いています。これは羊蹄山に挑むひと月ほど前のこと。軍人が40名ほどと、北海道大学の学生が6名、ほかに札幌中学(現・札幌南高校)や北海中学(現・北海高校)の教員などがいました。

北大生たちはたちまちスキーに魅せられました。スキー熱の急速な高まりは、わずか半年後(1912年9月)にスキー部が誕生したことでも見て取れます。これは日本で最初の大学スキー部でした。そのシーズン終盤、1913(大正2)年の2月には第1回の部員総会を札幌の藻岩山山頂で行い、同月の紀元節(現・建国記念の日)には手稲山(札幌)初登頂に成功しています。

北大スキー部の誕生には、月寒第二十五連隊の三瓶勝美らの支援がありましたが、三瓶はまた、札幌の鉄道逓信管理局や北海道師範学校、札幌中学や北海中学などのスキー部誕生にも支援を惜しまず、これらが集まり、北大スキー部が創設された年(1912年)の暮れには、早くも札幌スキー俱楽部が結成されました。

 

北大のスキーにちなむきわめて重要なエピソードがまだあります。学生たちは、実はレルヒ来道の前からスキーを知っていました。教えたのは、スイス人のドイツ語講師ハンス・コラーです。

レルヒ来道の3年以上前、1908(明治41)年初秋に予科のドイツ語講師として赴任したコラーは、授業の中で、ヨーロッパにはスキーというたいへん便利で痛快なスポーツがあると紹介します。この話に学生たちが俄然興味を示し、ぜひ実物がみたいとせがみました。コラーが取り寄せたスキーが届いたのは、1910(明治43)年の春先。それはノルウェー式スキーでした(ただし2本ストックはありませんでした)。学生たちは1台を交替で使いまわしながら、構内を流れるサクシコトニ川がつくる丘陵を滑ります。コラーはドイツ語学習の一環にもなるだろうと教則本も輸入していたので、道具の使い方や滑り方はそこから研究されました。翌11年2月には創成川沿いの馬橇屋に無理矢理頼んでもう数台(スキーのような道具を)作ってもらうと、大学構内などで滑りはじめます。こうしてレルヒ来道の前にすでに北大生の中には、スキーに大いに興味を持ち、実際に滑っていたグループがあったのです。

コラーは自ら指導することはなかったのでしょうか?実はコラーは、それまでスキーを実際にすべったことはありませんでした。中浦さんは、「学生たちは先生滑って見せてください!とさかんに言ったと思います。でもきっと、『今日はおなかが痛い』とか『少し風邪気味なので今度にしよう』、なんて言ってごまかしていたんじゃないでしょうか」と笑います。コラーが実際にスキーを履いたのはその10年以上あとのこと。

日本のスキー史ではしばしば、「レルヒが伝えた一本杖のリリエンフェルト式は、1916(大正5)年、北大(当時は東北帝国大学農科大学)水産学科の遠藤吉三郎教授がノルウェー留学から持ち帰った二本杖スキーに取って替わられた」、といわれます。しかし中浦さんは、話はそんなに単純ではないだろうと言います。

「旭川の講習会ですでにレルヒは、テレマークやクリスチャニアといったノルディックスキー技術も教えています。この事実はこれまであまり知られていませんでした。遠藤の功績にはとても大きなものがありますが、ポイントは二本ストックを持ち込んだことというよりも、まず、本場仕込みのすばらしい技術を学生たちに実際に見せたこと。そして山野のツアーや平地滑走のおもしろさを伝えたこと。さらには、本格的なジャンプ競技を紹介して、最初の固定ジャンプ台シルバーシャンツェ(札幌の三角山麓北面)を作ったこと。私はこれらが彼の功績だと考えます」

北大スキー部では、大正の中期には二本杖スキーが主流になり、1921(大正10)年1月に無意根山初登頂に成功した際、山中でそのパーティが残した二本杖のシュプールと出会ったスキーヤー(後述する東倶知安村の芳賀兄弟)が感激したという挿話もあります。

 

中学生(旧制)や勤労者にはまだスキーが広まっていない時代。陸軍のほかにスキーに熱心に取り組んだのは、なんといっても学生たちでした。彼らの動機の源泉は、戦争や国家防衛ではなく、自分たちに全く新しい世界を教えてくれたスキーの魅力そのものにあったでしょう。

北海道のスキー史で北大と並ぶ存在が、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)です。全国5校目の官立高等商業学校として小樽高商が開学したのは、ちょうどレルヒが高田(新潟県)に赴任した1911(明治44)年春。初代学長の渡辺龍聖は、北海道の冬に学生が心身の鍛錬に取り組むべきものとしてスキーが最適と考え、翌12年2月に高田で開かれた越信スキー俱楽部の発会式と講習会に、講師の苫米地(とまべち)英俊(のちに第三代小樽高商校長、参議院議員)を派遣しています。苫米地は高田から3台のスキーを持ち帰り、すぐ仲間や学生を集めて練習をはじめました。その初日は奇しくも、旭川でレルヒが講習会をはじめた日の翌日です。10月には、高商にスキー部が誕生。そのシーズンの3月(1913年)には、第1回小樽スキー大会と、小樽スキー俱楽部の発会式が行われました。この一連の動向は札幌とほぼ同時期のことで、これをもって中浦さんは、小樽を「北海道の三大スキー発祥地(旭川・札幌・小樽)」のひとつと位置づけています。北大の場合は校長をはじめとした学校側が教育の視座からはじめた取り組みでした。そして、小樽には多様なスロープが身近にたくさんありました。

新しい文化の定着と発展には、力のあるプロデューサーとなる人物が不可欠です。中浦さんは、「小樽の場合それは高商の苫米地英俊と小樽新聞の奥谷甚吉だった」と言います。苫米地は福井県出身の長野育ち。柔道に打ち込みやがて嘉納治五郎に見込まれて嘉納塾の特待生として東京外国語学校英語本科に進学。英語教師となり、嘉納から「開学まもない小樽高商に行き北海道に柔道を広めてこい」と言われます。大正中期には米英に留学。戦後は参議院議員となりました。終生柔道に関わりましたがその一方で小樽のスキー史においても重要な仕事をなしたのでした。

スキーの宣伝役を務めた小樽新聞の奥谷は、1885(明治18)年小樽生まれ。旭川勤務の時代にレルヒの薫陶を受け、羊蹄山登山にも深く関わった記者。レルヒの旭川講習を連日紙面でレポートしたのも奥谷でした。日清戦争が起こった1894(明治27)年創刊の小樽新聞は、当時函館毎日新聞や北海タイムス(札幌)とともに道内を代表する新聞でした(戦時下1942年の新聞統合令によって現在の北海道新聞に統合)。奥谷はその後倶知安支社勤務ともなり、スキーで羊蹄山登山を行っています。

興味深いことに小樽で最初にスキーが作られたのは、苫米地が高田からスキーを持ち帰る3ヶ月ほど前のこと。パレットという宣教師が下駄屋(笠原榮太郎)に指示をして作らせたものでした。明治、大正から戦前まで、樺太を含めた北方の物流拠点であり金融都市であった小樽には、海外の情報も盛んに入り、銀行や商社、倉庫など多くの企業が活況を呈していました。進取の気風にあぶれた企業家や商人たちにとってもスキーは魅力的な新文化。一般市民の心をもとらえていたのでした。

スキー伝来のわずか10年あまりのち、1923(大正12)年2月には、小樽市の緑ヶ丘(現在小樽商大と住宅地のある一帯)で第1回全日本スキー選手権が開かれています。小樽スキー俱楽部が大日本体育協会(現・日本体育協会)に働きかけて誘致したもので、運営は同俱楽部が担いました。フランスのシャモニーで第一回の冬季五輪が開かれる前年のこと。

大会は2日間の日程で、北海道、樺太、東北、信越、関東、関西、6地域対抗で行われました。種目は距離が1キロ、4キロ、10キロ、8キロリレー。そしてジャンプ、テレマークスラローム、クリスチャニアスラロームの7種目。

距離の優勝は、1キロが小樽中学校の上野秀麿、4キロの秋山広治と10キロの島本孫一はともに樺太の豊原所属。リレーを制したのは小樽商業学校でした。テレマークスラロームでは信越の深澤謹吾が勝ちましたが、クリスチャニアでは北海道の船津皐二が、ジャンプの優勝は小樽高等商業学校の讃岐梅二でした。

結果を見ると北海道と樺太勢の圧勝です。北海道や樺太で盛んに行われていたジャンプ競技や平原コースでのクロスカントリーは、本州の選手たちには経験がなく、「これでは不公平だ」という抗議が運営をゆさぶりました。本州でもレルヒが去ったあとノルウェー式スキーの技術が研究されましたが、それを体系化して教える仕組みが北海道のように発達しなかったのではないか———。中浦さんはそう考えています。北海道では北大製が中心となってヨーロッパの新技術や動向を吸収していました。これはそのちがいが露呈した、興味深いエピソードといえるでしょう。

 

Mountain Skiing and Competition Skiing

 

Lerch brought modern day skiing to Hokkaido. How did what he brought spread?

Just about a month before the Yotei hike, one of Lerch’s apprentice held a one-week skiing lecture in Sapporo, which attracted approx. 40 military men, 6 students from Hokkaido University and several more teachers from nearby highschools.

The Hokkaido University students fell in love with the sport, and 6 months later, the students formed an official skiing club, held the club’s first annual meeting at the peak of Mt.Moiwa on February 1913, managed to hike to peak of Mt.Teine further on in the same season.

Hokkaido University students weren’t the only ones who instantly got addicted to the sport and within the year of 1912, several more skiing clubs formed in schools within Sapporo city, and by the end of the year, these skiing clubs got together and formed “Sapporo Ski Club.”

 

One interesting episode about Hokkaido University Skiing Club. The students knew skiing before Lerch’s arrival. They learned the sport from a teacher from Switzerland who was teaching German language, Mr.Hans Koller.

Koller came to Hokkaido 3 years before Lerch did. In his class he told students story about how this fun sport called sking is popular in Europe. Some students showed great interest and begged Koller to show them what an actual ski looks like. Koller ordered a pair of skis and the skis reached Hokkaido in spring of 1910. Students took turns playing with this new toy, and read the “how-to” book Koller brought with him. The next Winter, the students asked local carpenter to create a similar equipment and allowed them to actually ski in groups.

Did Koller ever become the ski instructor to the students? Apparently, Koller himself have never ridden a ski before! Probably when the students asked Koller to show them an example, Koller would say things like “I’m feverish today” or “must have been something I ate, I have a stomach ache” and tried to talk himself out of it.

Japan’s skiing history often refers to Lerch as the father of modern day skiing, but at the same time mentions hos Lerch’s single stock skiing was quickly taken over by the double stock skiing by 1916.

Can something be taken over that easily? We believe it wasn’t that simple. By the mid 1920’s, double stock skiing was the trend, but when looking back at ski competition photos of those time, we can still see a mixture of both single stock and double stock skiers.

At the time when skiing was not a common sport, those that was motivated on improving their skiing skills other than the Japanese army was University students. Of course for these students, skiing wasn’t skill necessary to march through the mountains to enemy fields, it was just something fun and stimulating.

Hokkaido University and their relationship with skiing have already been mentioned in earlier pages. Another school that marks a spot in Japan’s ski history is the Otaru University of Commerce which was born in 1911, the same year Lerch was stationed in Niigata. The first President of the University eyed skiing as the best method for his students to train their mind and body during the long Winter and sent one of his staff to Niigata. The staff brought back three sets of skis to the University, gathered those interested students and started skiing. Later in the year, an official skiing club kicked-off and held the 1st Otaru Skiing Competition in March 1913. Asahikawa, Sapporo and Otaru is now recognized as the three birthplace of Hokkaido skiing.

For every new sport or culture to spread and grow, there must be someone with strong momentum. In the case of Otaru, that someone was surely the Otaru University staff and also Otaru Newspaper. One of the writers at Otaru Newspaper actually participated in Lerch’s skiing training in Asahikawa, and accompanied Lerch on his Mt.Yotei attack

Another factor that probably enhanced the growth of skiing in Otaru could be the city’s location and industry. As a port city, Otaru’s main industry was shipping. Many items from all over Japan and the World passed through the Otaru port. In such environment, residents and business operators in Otaru had an open-minded approach to anything new. Skiing appealed as something cool and fashionable.

 

本 文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

Niseko Powder History【第15回】レルヒ中佐、羊蹄山へ

| カテゴリ: Niseko Powder History

Yotei

1912(明治45)年4月15日。

明治最後のこの年、レルヒに率いられた旭川の第七師団野砲第七連隊の6名とレルヒお付 きのボーイが、羊蹄山へスキーで登るために朝8時15分、旭川駅を出発しました。しかしなぜ羊蹄山だったのでしょう。たしかに旭川でのスキー講習プログラ ムには、山地滑降がありました。けれども旭川には大雪連峰があります。

推測される理由のひとつは、まちから山への距離です。鉄道駅から山 頂までの距離を考えると、比羅夫駅から羊蹄山の方がはるかに近くなります。そしてもうひとつ。レルヒは高田(新潟県)に赴任中の前年4月、同郷のクラッツ アーと富士山へのスキー登山に挑んでいます。古来日本人の精神にも影響を与えてきた美しい最高峰にスキーで分け入ってみたい。レルヒはそう願っていまし た。しかしこのときは、悪条件にはばまれて9合目で断念せざるをえませんでした。彼は北海道でのスキー訓練の仕上げに、その山容から蝦夷富士とも呼ばれ、 しかも鉄道によるアプローチに恵まれていた羊蹄山をめざしたのではないでしょうか。また登山会が組織され、しっかりとした受け入れの体制があったことも重 要でした。

倶知安で一行を迎えるのは在郷軍人分会(現役を離れた予備役軍人の会)と、先述の蝦夷富士登山会です。軍人分会では歓迎とス キーの見学のために、会員たちに招集をかけました。登山会ではレルヒ一行が来る連絡が入るや、幹事の高山万次郎らがルートを途中まで下見し、登山事務所に 燃料を運び込むなど準備をしています。

レルヒたちは、随行取材をする、上川支局から本社に移動していた小樽新聞の奥谷甚 吉記者と小樽駅で合流しますが、妹背牛(もせうし)と美唄(びばい)のあいだで機関車に故障が起こり、すでに予定より3時間半も遅れてしまっていました。 ようやく倶知安駅に着いたのは夜の9時半すぎ。待ちかねた百人以上の有志の出迎えを受けながら、駅前の旭旅館(のちに加賀屋旅館、安藤旅館、現・安藤食 堂)に投宿します。

翌16日、スキー隊は4時に起床。装備や携帯食料(前夜についた砂糖餅)などの準備を整えていたところなんと急な雨が 降り出し、出発は中止となってしまいます。休憩のあと中佐が、「アルプスの危険について」というテーマで、スキー登山の危険や準備について講話を行いまし た。

午後は雨も小降りの雪に変わったため、小黒の山(小黒という農家あった現・旭ヶ丘スキー場付近)でスキーのデモンストレーション。こ れを後志支庁や村役場の職員、小学校の児童や教員など、多くの村民が見守りました。それまでカンジキやツマゴでしか歩けなかった場所でレルヒらが見せる直 滑降、斜滑降などにみな目を見張り喝采をおくりました。入植以来、日常の難儀の種でしかなかった雪を相手に、斜面を舞うように滑り降りる彼らの姿に、人々 はまったく別の世界を垣間見たにちがいありません。夕方には晴れ間も出て、羊蹄山のピークが見えるほど天候は回復しました。

 

レルヒは羊蹄山山頂を極めたか

1912(明治45)年4月17日。レルヒら一行は朝6時に旭旅館を出発しました。西風が強く、夜半に降った雪が少し積もっています。第4小学校(現・比 羅夫小学校)の前を通って蝦夷富士登山会の事務所へ。休憩をとると、スキーにロウを塗って記念撮影。8時半すぎにいよいよ山頂めざして出発です。あいにく 天候は回復せず、強風にはみぞれが混じっていました。中腹からは上の雲の中です。

一行は一列縦隊で、緩斜面をジグザグに登っていきます。 10時には順調に3合目(標高550メートル)に到着。しかし4合目からは雪が堅く斜面もきつくなり、スキーを脱いで引きずっていくことになりました。 11時には森林限界が近くなる5合目半に着きましたが、そこから先はさらに急斜面となったために、これ以上のスキーは無理と判断。各自スキーを置いて杖1 本で上ることにしました。

春先ならではの堅い雪に杖を差しながら、強風の中、谷へ滑落する危険をおかして一歩一歩進みます。奥谷記者が後 日小樽新聞に7回にわたって連載した記事によると、この時点でレルヒ一行の技術と装備、体力を考え合わせ、「モウ駄目あります」と繰り返し声を上げまし た。しかし男たちは日本男児たるものこれしきのことで、とあきらめなかったといいます。軍人だけあって、武士道精神を外国人に示す絶好の機会だと考えたの でしょう。ようやく6合目に登ったときには正午になっていました。

7合目から上はさらに絶壁のような斜面が立ちはだかり、目を開けていら れないほどの吹雪が襲いかかります。気温は下がり手足の感覚も失せるなか全員が前屈みになり、死にものぐるいで9合目に到着。そこから一直線に頂上をめざ しましたが、ピーク手前にある噴火口群も、頂上のある大噴火口もまったく見えません。そうしてついに平坦な場所に出ると、羊蹄登山の経験を持つ奥谷記者が 「頂上だ!」と声を上げました。ついに目標達成かと感極まり、暴風の中で万歳を叫ぶ者もいました。温度計を見ると氷点下15度。この天候では長居は無用で す。メンバーたちにレルヒは、ただちに下山せよと命じました。

帰路もまた困難を極めた行進がつづきます。

装備の劣った日本人たちは手足や鼻に凍傷をおい、急斜面で四つん這いに後ろ向きになって何度も転落を繰り返しながら、命からがら麓をめざしました。レルヒはといえば、底に金具を打ち付けたオーストリア製のスキー靴のために転落することはありません。

スキーをデポした5合目半の地点からは、ようやくふたたびスキーを履きました。そこから下は幸い天候が回復して、日が差していました。しかし疲労困憊のス キー初心者に扱える斜面ではなく、足に力の入らない一行は、転んでは止まり、必死に方向転換をしながら制動滑降を繰り返します。その中でややましな滑りを したのが、月寒の中澤少尉でした。一方レルヒは、無様な日本人たちを尻目にスイスイと滑り降りてしまいました。疲れきった一行が登山会事務所に到着したの は午後5時40分。しばし暖まり休憩したあと、星明かりの下を市街に向かいます。尻別河畔では、まちの有志たちがテントを張って、盛大な慰労会を開きまし た。これが、史上初の羊蹄山スキー登山です。

 

レルヒは本当に羊蹄山の山頂に立ったのか———。

これは大 正、昭和とさまざまな人たちの議論の的となりました。日本スキー史研究所の中浦皓至さんは、当日の天気図や行程の詳細、山行メンバーのその後の発言などを 丹念に掘り起こしながら。これまでの全ての説を精査した結果、9合目の少し上までは行っただろうと考えています。ではやはり、ピークには経っていないとい う説に落ち着くのでしょうか。

中浦さんは、「必ずしもそうではない」と言います。

「近代アルピニズムの厳密なものさしを当 てれば、ピーク登頂には至っていないでしょう。しかしそもそも合目とは登山の難易度によって決められた目安であり、かつては9合目を超えれば頂上まで行っ たとする見方もありました。レルヒは羊蹄山に登った。そういう考え方があってもおかしくありません」

幕末の蝦夷史では、探検家の松浦武四 郎(1818〜1888)が「後方羊蹄(しりべし)日誌」で書いた羊蹄山登頂の一節について、同様な議論がありました。今日ではそれはフィクションであっ たとされていますが、それに比べればレルヒ隊の山行には、はるかにリアリティがあるでしょう。いずれにしてもひらふのスキー史にとって、1912(明治 45)年4月17日が、きわめて重要な意味を持つことに、変わりがありません。

レルヒはこの年の9月に帰国しましたが、 明治は7月で終わり(7月30日明治天皇崩御)、そのときの日本は大正の世となっていました。彼は50代の若き日の恋愛をかなえて結婚。その後少将にまで 進みました。1945(昭和20)年12月にウィーンで亡くなっています。77歳でした。倶知安町では、町制施行50年を迎えた1967(昭和42)年、 旭ヶ丘展望台にレルヒ中佐記念碑を建てました。

 

April 15, 1912.

Major Lerch, his assistant and 6 military men departed Asahikawa train station on 8.15am. Their destination, Hirafu Station. Their objective, to climb Mt.Yotei on skis. Why Mt.Yotei?? They were based in Asahikawa, which is the closest city to Hokkaido’s tallest peaks, the Daisetsu Moutain Range.

Nobody knows the actual reason why. We assume that this maybe because of distance to the mountain from town. Distance from Hirafu Station to Mt.Yotei is far closer than that of Asahikawa to Daisetsu Mountains. Another reason could be because, just like we Japanese have a special emotion towards Mt.Fuji, General Lerch could also not forget the experience when he took his skis to Mt.Fuji in April of 1911. General Lerch wanted to hike and ski the spiritual mountain that has inspired Japanese nationals for centuries. Unfortunately, weather conditions did not allow General Lerch to reach the summit of Mt.Fuji. Mt.Yotei is also know as Mt.Fuji of the North, from it’s beautiful shape. Beautiful and easy access from the train station. There’s no mystery to why General Lerch chose Mt.Yotei as the stage of mountain training for his class.

Kutchan Veterans Club and Mt.Yotei Climbing Club greeted General Lerch and his team. The Climbing Club even went on a reconnaissance hike and delivered fuel and supplies to the base office.

After departing Asahikawa Station, General Lerch was supposed to meet with Newspaper editors at Otaru Station. However with some technical malfunctions to the train, they arrived at Otaru Station 3.5 hours behind schedule! By the time they arrived Kutchan Station, the clock was showing 9:30PM.

Next morning, the team woke up at 4.00am. Prepared equipment and ration. But how unfortunate, just when they were ready to leave, it started to rain heavily and the departure was cancelled. Instead, General Lerch gave a lecture on “danger in the Alps” and waited for the rain to calm down. Afternoon, the rain went down and General Lerch gave a skiing demonstration at Asahigaoka Hill. This demonstration was observed by literally every Kutchan residents. From elder to young, people of all occupations viewed and gave a large round of applause. Maybe because of all the cheers and claps, the weather turned well by late afternoon that the peak of Mt.Yotei was clearly visible.

No giving up. Mt.Yotei here we come.

April 17th, 1912, 6am. Lerch and the crew left their accommodation. Strong west winds, a bit of new snowfall overnight. Walked past Hirafu Elementary School and took a short break at Mt.Yotei Climbing Club’s office. Applied wax on skis, took a group photo, and at 8.30am, began the hike up Mt.Yotei. The weather wasn’t to their favor, strong wind and sleet hit the team. From the midst of the mountain up was covered in deep cloud.

The team formed a single line and russelled up. By 10.00am, they made it up to 550 meters elevation. From there up, the snow was hard and slopes tough, and the team was forced to take their skis off and hike up. By 11am, they reached just about the tree line. But from their up, the slopes gained more gradient and it was just impossible for them them to take their skis with them. They left their skis there and continued the hike with one ski stock.

Spring snow was hard packed and strong wind was a big obstacle to the team. It was dangerous but step by step, the team headed to the peak. Local newspaper wrote 7 article son this expedition, and according to the article Lerch repeatedly commented based on their equipment and skill, “we can’t go any further.” However, other participants insisted that “Japanese men don’t give up that easily” and continued on. By the time they reached the 6th station, it was already noon.

From the 7th station up is more of a wall rather than a slope. Blizzard was so strong that you couldn’t keep your eyes open. Temperatures dropping, the team didn’t have any senses in their fingers and toes. They all stayed low and headed straight up. However, no matter how far up they go, they couldn’t see a thing! No crater, no peak. There was one member in the team who have climbed Mt.Yotei previously and he realized that they have already reached the peak and shouted out “we’re here!” Temperature was 15 degrees below zero, no need to stay here for long. Lerch ordered the team to head down, immediately.

 

Going back was as difficult as going up.

The Japanese members who didn’t have good equipment suffered frostbites to their fingers, toes and nose. They slid down steep surfaces because their equipment could not keep them on their feet. Lerch, on the other hand did not slide down thank to the Austrian skis with metal studs.

Everyone finally strapped on their skis at 5th station. Weather turned a bit better and even some sunshine showed up. But the slopes were just too tough for the tired crew and they fell down more than they skied down. Lerch, again on the other hand skied easily down the slope. The team arrived to the Climbing Club’s office at around 5.40pm. Took a good break, warmed themselves up and headed to town. All members of town was waiting for the team’s return and a tremendous party was held. This is history’s first backcountry skiing on Mt.Yotei.
Did Lerch’s team really make it to the peak of Mt.Yotei??

This has been a long time controversy. Mr.Nakaura, who leads Japan Skiing History Research Institute concluded from his interviews, extended research on the day’s weather, equipment that the members had, that the team made it just above the 9th station. Not the peak of the mountain.

Does it mean that Lerch did not make it to the peak? Mr.Nakaura, despite his conclusion comments, “when judged by the modern day alpinism, they did not make it to the peak. However, there has been times when it was considered the peak once the team have passed the 9th station. Lerch did hike to the peak, that is one way of seeing it.”

A similar controversy aroused when the Edo-era explorer Matsuura Takeshiro wrote about his Yo5otei hike in his “Shiribeshi Diary.” Nowadays it is believed that Matsuura Takeshiro’s Yotei hike is a fiction. Compare to this, Lerch’s hike is far more realistic and certain. Anyways, April 17th, 1912 is a historic day in Hirafu’s skiing history.

 

Lerch went back to his home country in September of the same year, married to his beloved in his 50s, and passed away in Vienna in 1945 at the age of7. Kuchan town , in remembrance of Lerch, build his statue in 1967, the year the town celebrated its 50th anniversary.

 

本 文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

Niseko Powder History【第14回】レルヒ中佐、ひらふへ

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レルヒ中佐、ひらふへ

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ここでいよいよ、日本に最初に近代スキーを伝えたひとりとされる人物、オーストリアのレルヒ中佐が登場します。レルヒとひらふの関わりについては、これまで倶知安史で語られてきたことに加えて、現在のレルヒ研究の第一人者で日本スキー史研究所所長中浦皓至(こうじ)さんの著作『日本スキー・もうひとつの源流』(北海道大学図書刊行会)や関係論文、ご本人へのインタビューから構成しましょう。

 

テオドール・エドラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch・1869-1945)は、オーストリア=ハンガリー帝国(当時)の軍人で、アルペンスキーの開祖とされるマチアス・ツダルスキー(Mathias Zdarsky)の直弟子。卓抜したスキー技術の持ち主でした。レルヒの来日前、日本人にとって欧米人が使うスキーは、未知の道具でありスポーツでした。

レルヒは、欧米の大方の予想をくつがえして日露戦争でロシア帝国に勝利した日本軍を研究するために、1910(明治43)年11月末に交換将校として来日します。陸軍では、その8年ほど前(1902年1月)に八甲田山の雪中行軍で大規模な遭難事故をおこしていたこともあり、彼のスキー技術に着目していました。厳冬期の雪中でも、スキーの技術があれば行軍や戦闘ができるからです。

レルヒはまず、雪深い新潟県高田(現・上越市)の第十三師団歩兵第五十八連隊に赴任します。1911(明治44)年1月のこと。さっそく東京の砲兵工廠に作らせたスキーによって、将校や県内の中学教師らを対象に、金谷山でスキー講習が行われました。将校にはおよそ2ヶ月の特訓、教師らには5日間のレッスンです。

彼のスキー(板・靴・金具)は当時祖国で主流だった1本杖スキーで、ツダルスキーがオーストリアのリリエンフェルトというまちで完成させたのでリリエンフェルト式スキーとも呼ばれます。2メートルほどの杖の先には金物の石突きがついていました。リングはありません。スキー板は単板で、金具は、かかとが上がる鉄板のタイプ。現在のスキーとはかなり異なります。もうひとつの主流であるノルウェー式スキーは平地や森林での滑走にはすぐれていましたが、金具が急斜面向きではありません。それに対してツダルスキーのスキーは、山岳でも操作がしやすい特長がありました。

レルヒは秋以降に中佐に昇進。年が明けて1912年2月には、第七師団野砲第七連隊付きとなり、いよいよ北海道の旭川へ赴任します。

当時の北海道はどんなところだったでしょう。

レルヒ来日の1910年。王子製紙苫小牧工場が創業を迎え、札幌でははじめてのビアホールや常設映画館がオープンしていました。人口は全道合わせて170万人台で、日本海沿岸ではニシン漁が史上最盛期を迎えています。札幌の大通逍遥地(現・大通公園)が整備され、火災ののちに復旧工事が進んでいた道庁赤れんが庁舎が、今日に残る形でお目見えしたのもこの年でした。

 

レルヒは旭川に7ヶ月ほど滞在します。彼から話題のスキー技術を学ぼうと、まち北部の近文台(現・春光台)で3週間あまり講習が行われました。生徒は、道内の連隊から来た20人の将校と6人の民間人。将校たちは、学んだ技術を自分の部隊に伝えることが義務づけられていました。第七師団には4つの歩兵連隊があり、そのうち二十五連隊は札幌の月寒にありました。この月寒からの参加者もあり、また民間人とは、小樽新聞上川支局の奥寺甚吉ら記者2名と4人の郵便局員でした。スキーは、前任地の高田ですでに国内製作がはじまっていたので、師団が高田に注文していました。

講習・訓練の内容は、スキーの携行や着脱にはじまり、「直立行進」「登行」「滑降」「方向転換」「制動滑降」「転倒・起立」「遽止(きょし)」「難路通過」「軍需品運搬」など、基礎から応用までを総合的にマスターしようというもの。応用の中には、「テレマーク」や「クリスチャニア」といったノルウェイ由来の技術が含まれていたことも注目されます。スキーは当時から、山岳を滑るオーストリア式(アルペンスキー)と、平原や丘陵を滑ったりジャンプを行うノルウェイ式(ノルディックスキー)に大別されましたが、レルヒはスキーの歴史やそうした背景などについても広く講義を行ったのでした。

札幌の月寒第二十五連隊から参加したのは、三瓶(さんべ)勝美中尉、松倉儀助中尉、中澤治平少尉ら。旭川からもどった1912(明治45)年3月、彼らはレルヒ直伝のスキー術を連隊に伝えるべく、月寒練兵場などで講習会を開きます。スキーを持っていれば民間人も参加できたので、東北帝国大学農科大学(1918年から北海道大学。以下便宜上「北海道大学」あるいは「北大」)の学生や中学教師、一般の人々も参加しました。これが、札幌における本格的なスキー史の源流のひとつです。全国初の学生スキー部となった北大文武会スキー部の源流のひとつです。全国初の学生スキー部となった北大文武会スキー部の歩みも、ここからはじまりました。

 

Lerch’s first days in Hirafu

 

Now, let’s shine the spotlight at one of the first persons who brought skiing to Japan, Theodor Edler von Lerch, a military man from Austria. There already is many studies done and books published about history of skiing in Japan and Mr.Lerch. The contents of the following pages consists of these previous studies and from interviews to Mr.Koji Nakaura, the Director of Japan Ski History Research Institute.

 

Theodor Edler von Lerch (1869-1945) was a military man of the Austria=Hungary Empire and apprentice to Mathias Zdarsky, the founder of modern of alpine skiing. Back in those days, skiing performed in Europe was unknown in Japan, the sport itself was unknown and all equipment used was a complete mystery.

 

Mr.Lerch, commonly known as General Lerch in Japan, first set his foot in the country in November of 1910 to study the Japanese military after the unexpected victory over the Russian Empire. The Japanese military had a tragic accident during Winter mountaineering training which led to death of 8 men, had their eyes wide open to Mr.Lerch’s skiing skills. With appropriate skiing skills and equipment, Winter military operations could be performed with lower risk.

 

His first group of skiing students in Japan was a fleet stationed in the snowy mountains in Niigata prefecture. In January 1911, he performed skiing training to military officers and school teachers. To the military officers, a 2-month long intensive training, and to the school teachers, it was a 5-day lesson.

 

Ski equipment he used was a single stock ski known as Lilienfeld method, name taken from the city in Austria where Mathias Zdarsky built-up the method. No powder guard was on the stock, and at the end of the 2m long stock was a metal ferrule. Very unlike the modern ski we know, the bindings were made of steel and heels were free. Another trend in skiing in those days was the so called Norway method, which had an advantage in flat and/or tree areas but was not capable of steep hills. While the Zdarsky skis were able to take on various terrains.

 

Lerch’s efforts quickly promoted him to General Major and was assigned to Asahikawa based fleet in February 1912.

 

What did Hokkaido look like in those days? Population of the island was around 1.7 million, first movie theater and beer hall opened up in Sapporo. Herring was the leading the fishing industry, and the red-brick Hokkaido Governmental Office was built at around this time.

 

 

Lerch’s stay in Asashikawa lasted for 7 months. During his stay there, 20 Military Generals and 6 civilians took part in a 3-week ski training. The generals were ordered to learn and take back anything and everything to their own fleet and the 6 civilians were newspaper editors and postmen!

 

Content of the training was not only actual skiing techniques but also went deep to the history of skiing and the difference between Nordic and Alpine skiing. In-class lectures and actual outdoor training, General Lerch made sure the participants learn all that there is about skiing.

 

Of the 20 Generals that took part in the training were 3 men from the Sapporo fleet. After completing the training, in March 1912, the 3 generals held a ski lesson open to the public. Anyone, including civilians were able to join the lesson, as long as they had their own skis, and thus the lesson attracted many Sapporo citizens. This was an epic event in Hokkaido skiing history, and those students that joined the lesson, created Japan’s first University skiing club, the Hokkaido University Ski Club.

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

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