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Niseko Powder History【第12回】鉄道が開いた未来

| カテゴリ: Niseko Powder History

鉄道が開いた未来

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鉄道の開通前後に光を当ててみましょう。

倶知安の歩みにとって、そしてニセコの山岳スキー史にとってとりわけ大きなできごとが、1904(明治37)年の秋に起こりました。函館と小樽(現・南小樽)を結ぶ、北海道鉄道の函樽(かんそん)線(当時は民営。現JR函館本線)が全通したのです。開業は11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)でした。倶知安には、倶知安駅と大曲駅(のちに比羅夫駅)が開業。大曲とは、駅を挟んでこのあたりの鉄路が、屈曲する尻別川に沿って大きく曲がっていたからです。これまでの不安定な道路や川による交通しかもたなかった倶知安が、文明の最先端のインフラを手にすることになりました。

函館から噴火湾沿いを北上してきた鉄路が、ニシン漁によって当時たいへん栄えていた岩内や寿都を通らずに、なぜ現在のルートに建設されたのでしょうか。黒松内低地帯と呼ばれるように、長万部から分水嶺を越えて黒松内、そして寿都へ抜ける地形を利用する方がはるかに合理的です。これには諸説があります。まず網元の一部からは、鉄道の汽笛や振動がニシンを遠ざけてしまう、とする反対がありました。事実江戸時代の松前藩はニシン漁期には鉄砲や鐘の使用を禁じていましたし、石狩湾岸を通る北海道で最初の鉄道工事では(1879〜80年の幌内鉄道)、張碓や銭函の漁師たちが反対運動を起こしました。

また、日本海沿岸を走らせると大国ロシアに対して不用心にすぎるという懸念もありました。まさに函樽線の工事が進んでいたこの時代、極東進出をはかるロシアはウラル山脈の東から日本海対岸のウラジオストクめがけて、7000キロを超えるシベリア鉄道を怒濤の如く建設中だったのです。さらに、一帯の内陸部には樺山や京極、曽我といった華族の不在地主が大農場を経営していて、拓殖の最前線となっていました。日本海沿岸に比べてはるかに大きな開墾可能地をもつ沿線の将来性と、彼らの政治力が鉄道を呼んだ、という見方もあります。北海道鉄道の創業社長は、自身が第4代北海道庁長官の時代に北海道の鉄道路線を構想した、北垣国道でした。

明治30年代初頭、開拓が進み農産物の出荷や生活物資の調達には、岩内までの馬が頼りでした。倶知安から岩内までは一泊二日。夜明け前に出発して、小沢の南部茶屋で昼食。馬を休ませたあと峠を越えて、岩内着は夕方になりました。岩内には人と馬がいっしょに泊まれる馬宿がありました。

鉄道の開通は、インフラを岩内港に頼っていた状態からの独立を可能にしました。なにしろそれまでは郵便も、小樽を経由するより住所を「岩内港奥、倶知安村」と書く方が早く着いたのです。当時は札幌よりも大きな都市だった小樽と直接結ばれた意味は図りしれません。

羊蹄山麓には広大な原始林が広がっていました。開墾のときは障害でしかなかった立木ですが、鉄路によって原木の大量輸送が可能になったいま、それは一転して大いなる資源となりました。倶知安駅と比羅夫駅には土場が設けられ、小樽への搬出を待つ丸太がつねに山積みされるようになります。また菜種や菜豆(インゲン豆や大豆類)。軍馬用のエン麦などの農産物が小樽や札幌へ容易に出荷できるようになりました。当時の所要時間は小樽まで3時間を優に超えるものでしたが、駅を中心に商店や運送店、飲食店などがあつまり、まちの骨格が生まれていったのです。

 

1906(明治39)年4月には、各地に道庁の出先機関を置く、北海道独自の戸長役場の制度が二級町村制に改められ、官選村長を中心にした自治の体制が生まれます。倶知安は村長を持つ倶知安村となりました。まちの人口も1907(明治40)年にはすでに1万5000人を突破するなど、急ピッチで増加しました。駅前通の原型もこのころ整えられています。

1910(明治43)年には、後志支庁(現・後志総合振興局)が置かれることになります。これには前史の説明が必要でしょう。

明治以降北海道の行政組織は、開拓使の時代(1869〜82年)と三県一局(函館県・札幌県・根室県・農商務省北海道事業管理局)の時代(1882〜86年)を経て、今日までつづく北海道庁がつかさどることになります。1897(明治30)年、その後ながくつづく支庁制度が設けられ、北海道は19の支庁に分けられました。倶知安が属したのは、岩内支庁です。周辺には小樽支庁、寿都支庁がありました。

鉄道開通によって多くの入植や投資を集めて急成長をとげた倶知安は、明治40年代に入ると、岩内、小樽、寿都、3つの支庁の統合と誘致をめざします。今日でいう大々的なシティプロモーションです。中心になったのは、倶知安郵便局や倶知安高等小学校(ほどなく村に移管)を創立した河合篤叙(あつのぶ)と、言論人の山田羊麓(ようろく)。

出雲団体のひとりだった河合は、支庁制度がはじまった1897年に倶知安郵便局を開きました。当時は国による設置が追いつかなかったため、郵便局は各地の有力者が設置したのです(のちの特定郵便局)。河合はまた1905(明治38)年には、信仰の対象となっていた羊蹄山への登山道を同志たちと開削して休憩所を設け、蝦夷富士(羊蹄山)登山会を立ち上げていました。羊蹄山は、原始林をしたがえた群を抜く高さと、ひらふから仰ぐとりわけ秀麗な山容で人々の心をひきつける独立峰です。太古から先住の人々はもとより、厳しい開墾に明け暮れる移民たちにとっても、さぞや特段の意味や力をもった存在であったでしょう。その羊蹄山にちなむ名を掲げる山田の本名は山田実次で、倶知安ではじめての新聞「新京報」を発刊したほか、1916年発行の倶知安町史などを執筆しています。

彼らが支庁移転の論拠としたのが、まずなんといっても地域に鉄道を持つ圧倒的な利便性。そして、8世紀にまとめられた日本最古の正史である「日本書紀」の第26巻、斉明天皇の時代の記述です。そこには、7世紀に畿内の将軍である阿倍比羅夫(あべのひらふ)が大船団を率いて蝦夷地(北海道)にやってきて、後方羊蹄に役所を設けたと記されているのです。山田らはこの記述をもとに後志地方の中心は倶知安であり、昔から政治はここで行われていたと主張。だから小樽・岩内・寿都支庁をひとつに統合した上で倶知安に新支庁をおくべきだという運動を展開しました。この時代の日本では、欧米列強やロシアの圧力に抗するために、国家神道を軸にした国民教育が進められていました。そうした時代背景もあり、彼らの主張が河島醇(あつし)道庁長官を動かし、1910(明治43)年3月、小樽、寿都、岩内の各支庁が統合されて後志支庁となり、支庁は倶知安におかれることになったのです。また函樽線は、交通網の一元化をめざす国策として進められた鉄道国有化にもとづき、1906(明治39)年に国有化されていました。これを機に「大曲駅」は「比羅夫駅」となりますが、この改名にも支庁誘致運動が関わっていたのでしょう。

支庁設置以降、倶知安の発展はさらに盤石なものとなります。営林署の設置(大正2年)や役場庁舎の現在地への移転新築(同3年)、そして町制施行(同5年)、倶知安中学校の開校(同11年。第一期生96名)などがつづきました。

 

Railroad To The Future

 

Evolution in the train network brought huge change to Kutchan.

An epic making evolution took place in the Autumn of 1904. The date was November 3rd. This was the day when a train network fully connected Hakodate and Otaru. Two train stations opened in Kutchan town, Kutchan Station and Hirafu Station. Up until this day the only way to get to Kitchen was either driving on rough road or a ride down the river.

The train network also changed the logistics of Kutchan. Before the train network, all logistics of Kitchen was dependent on Iwanai port that people wrote “Deep Iwanai, Kitchen Village” on parcels when sending packages to Kutchan. At the time, Otaru was a larger port city than Sapporo, and Kitchen had direct connection to the large city with the train network.

Kutchan, vast land in between Mt.Annupuri range and Mt.Yotei was covered by virgin forests. These forests was a large obstacle to the pioneers. However, now with the train transportation system in place, these virgin forests became gold. Trees were cut and piled up in front of both Hirafu and Kitchen stations waiting to be delivered to Otaru. Agricultural products also became a good export item. It took a little over 3 hours via train from Kitchen to Otaru, but this was much quicker than what used to be a 2 day horse ride to Iwanai port. Shops, restaurants, and inns started business around the train station and started to form a town.

 

In 1906, Kutchan became an independent village and by 1907, the village had a population of over 15000! About the same population we have now in 2017!! Amazing how the village grew so rapidly and Kutchan station street we know now was pretty much built at this time.

 

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

Niseko Powder History【第11回】ニセコの名を高めた名湯群

| カテゴリ: Niseko Powder History

ニセコの名を高めた名湯群

Onsen

硫黄の次にこのエリアが知られるようになったのは、温泉のおかげでした。はじまりは1885(明治18)年。岩内に住む渡島某(倶知安町百年史の記述)がチセヌプリ南麓に間欠泉を発見して、からわらに笹掛けの小屋を立てました。大湯沼、現在の湯本温泉です。渡島の没後は老いた未亡人が春から秋まで湯宿を開いたので、人はここを「婆(ばば)の湯」と呼び、いつしか馬場温泉と呼ばれていました。湯本温泉と解消されたのは、経営が替わって建物が新築された1992(大正11)年のこと。

1984(明治27)年には、倶知安への最初の入植者のひとりである山田邦吉がニセコアンヌプリの東中腹、標高600メートル付近に温泉を見つけて、1897(明治30)年に山田温泉として開業。現在のグラン・ヒラフの温泉沢コースの一画です。このできごとが、今日グラン・ヒラフがある「倶知安町字山田」のはじまりとなりました。まわりは官林だったので木が伐れず、邦吉の弟である山田和雄が山麓から道を拓き、木材を運び上げて工事を行いました。1897(明治30)年の春に山田温泉として開業しましたが、5年後に邦吉は急逝。その後は2度経営が替わり、1914(大正3)年には小樽で米穀を商っていた岡田乙吉が譲り受けます。岡田家はその後長く経営を続けました。

 

そのほか現存する温泉について起源をまとめておきましょう。

1895(明治28)年には、磯谷の成田元吉が昆布から入ったところに成田温泉(現・薬師温泉)を発見、明治32年に営業をはじめました。しかし原始林の中の一軒家ですから、春のニシン漁が終わったあとで岩内などからやって来るやん衆(ニシン漁に働きに来た男たち)や、硫黄鉱山の男たち、冬の漁師などしか客が来ず、1913(大正2)年に昆布駅からの道に尻別川を渡る端が架けられるまで、商売はふるいませんでした。この道ができると、駅と温泉のあいだに乗合馬車が通いました。

おなじ昆布の青山温泉も、成田元吉によって発見されました。成田はこれを狩太村(現ニセコ町)の青山徳治に譲り、青山は1904(明治37)年に青山温泉を開業。現在も昆布温泉にある鯉川温泉は、滋賀県の宮川久吉が磯谷の網元山川八百蔵の力を借りて1899(明治32)年に創業し、昭和7年から鯉川温泉と改称しています。

さらに西の新見温泉は1908(明治41)年に新見直太朗が発見しましたが、知られるようになったのは、新見が私費で蘭越駅から道路を開いた1914(大正3)年以降のこと。1920(大正9)年代には、ニセコアンヌプリの西に現在の五色温泉のはじまりとなる井上温泉と稲村温泉が開業し、1937(昭和12)年の冬には、ニセコアンヌプリとイワオヌプリのあいだに札幌鉄道局の山の家(のちに国鉄山の家、現ニセコ山の家)が開かれました。これは札幌鉄道局にとって、奥手稲山の家(1930年竣工)に次ぐ2番目のスキー小屋で、ワイスやチセヌプリ、ニトヌプリなどにも近い山スキーの拠点として人気を呼びました。

鉄道によって、ニセコの景勝と温泉への関心はいっそう高まっていきました。それはまた、北海道帝国大学(現・北海道大学)や小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の街区星のあいだでスキー熱が高まっていくのと軌を一にしています。大正に入ると、時代は山スキーの大いなる魅力に目覚めていくのです。

 

 

Everyone Loves Onsens

 

We mentioned earlier that it was sulfur that first made the name “Kutchan” well known. What made the town’s name well-known next was also something from mother nature, onsens. First onset in the area was in 1885, a man found a natural spring of hot water at the Southern base of Mt.Chisenupuri. He built a small shed by the natural spring. I’m sure some of the readers may have seen this natural spring, it is now known as “Yumoto-onsen.”

In 1894, another onsen was found by a man who’s family name was “Yamada” at around 600 meters on the Eastern face of Mt.Annupuri. Those that have visited Niseko in the early 2000s may remember a hotel called “Yamada-Onsen” located at the top of Hirafu-zaka. Now we know why the Hirafu area’s street address is called Yamada!

 

Let’s look at the roots of some other onsens in the area.

Yakushi-onsen was first found in 1895, and was opened to public on 1899. Since the location was right in middle of a deep forest, the onset did not attract many guests until a road connecting the onsen and Konbu train station opened up.

Nearby Aoyama-onsen was found in 1904, Koikawa-onsen was in 1899. Niimi-onsen was found in 1908, but it wasn’t until the founder cut opened the road from Rankoshi train station in 1914 that it began to attract public attention. On the West side of Mt.Annupuri, the Goshiki-onsen was found and opened in the 1920s. In 1937, Niseko Yama-no-Ie, which is still used as base of backcountry skiing by mountain lovers today, opened.

At around the same period, the train network was improved making access to the Niseko Kutchan area much easier. If getting to Kutchan isn’t an issue, it is no surprise that the area’s rich nature, beautiful onsens, astonishing views and quality powder snow attracted a lot of visitors.

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
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Writer: Masaharu Taniguchi
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Niseko Powder History【第10回】倶知安開拓の夜明け

| カテゴリ: Niseko Powder History

倶知安開拓の夜明け

 

明治の初頭、倶知安の地はうっそうたる大森林のままに虻田村の一部とされ、地名もありませんでした。羊蹄山に沿って尻別川左岸に、わずかにアイヌの刈り分け道があっただけだったといわれます。そのため、明治政府が重罪の政治犯などを収容するために集収監(監獄)の設置を計画したとき、石狩川中流の樺戸や十勝川沿岸と合わせて、このあたりが候補地となりました(集収監は1881年に樺戸、現在の月形町に開庁)。

大日本帝国憲法が発布された翌年、日本がいよいよ近代国家としての形を整えつつあった1890年(明治23)年には、この地は皇室の財産である御料林に組み入れられます。御料林となれば管轄は御料局となり開墾は禁じられるのですが、一方で北海道庁は、この一帯を入植に適している土地としてあげました。開拓と農業に関する月刊誌「北海之殖産」1890年8月号、殖民地選定報告の中に「クッチャン原野」の名が登場するのです。これが、倶知安の名前が公文書に登場する最初とされています。

この報告の中で「クッチャン原野」は、「東西北の三方は『ムイ子(ね)』『イナヲ』『イワヲ』の諸山脉に囲繞せられ、南方はマッカリベツ山(羊蹄山)に抱擁せられたる原野にして、其東微南は『ベヽナイ』に至りて、『メナ』原野に接す。之を『クッチャン』原野となす」とあります。メナは現在京極町に属します。イナヲとは今日国道5号が通り、共和町と倶知安町の境界の倶知安峠のこと、そして報告はクッチャン原野を、殖民(植民)と放牧の適地であるとしました。

さてクッチャンという地名は、どこから来ているのでしょう。

それはアイヌ語の「クッ・シャン・イ」に由来します。「くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ」という意味。これがクッシャニとなり、さらにクドサニと変わり、俱登山(くとさん)と漢字が当てられました。つまりクッチャンとは、尻別川の支流、俱登山川の旧名なのです。クッシャニがクッチャンとなりました。1893(明治26)年に「倶知安」の漢字をあてたのは、当時の北海道庁参事官白仁武(しらに たけし)です。

 

倶知安の開拓に最初に意欲を燃やしたのは、仁木村(現・後志管内)を拓いた阿波(徳島)の人たちです。中心にいたのは、仁木開拓のリーダー仁木竹吉です。竹吉は同郷の青年たちにクッチャン原野への入植をすすめ、やがて阿波(徳島)の人々を柱に共同出願組合が結成されました。中心は、廃藩置県(1871年)で氏族の身分を失った旧臣たち。これは、北海道の内陸開拓の多くに共通した背景です。

1890(明治23)年の秋、小沢村の南部茶屋でアイヌの案内を頼み、踏査隊がはじめて現地に入りました。この南部茶屋は青森からの移民が営んでいた旅館・飲食店で、クッチャン原野の入り口にあることから、のちに岩内から上陸した人々の開拓の基地の役割を果たすことになります。一行の先にはもちろん道もなく、もっぱら川筋がルートです。彼らはイワオヌプリに登って、予定地一帯を俯瞰することにも成功しました。

現地を見たあと、組合は道庁に土地の貸し下げを申請します。当時の規則(北海道土地払下規則)では官有未開地をひとり原則10万坪(約33ヘクタール)に限って払い下げ、10年以内に6万坪以上の開墾に成功すると、千坪1円で払い下げられることになっていました。一戸の目安として考えられた5町歩だと、約15円でその土地が自分のものになるのです。米価を基準に現在に換算すると、およそ7万円前後でしょうか(明治30年後半の東京の白米価格は10キロ90銭前後)。しかし組合員の中には、小作身分の家族も多かったのが実情です。彼らが開墾に成功しても、土地を手にするのは地主でした。

1892(明治25)年5月。最初の5人がクッチャン原野の開墾をスタートさせました。道路も未整備の時代。彼らは踏査隊がとったルートと同じく岩内から上陸し、南部茶屋を経て原野に入りました。ほどなくほかの人々もつづき、この年のうちに47戸がクッチャンの住民になるべく、チシマザサが林床を覆いつくし、昼なお暗い原始の森に立ち向かったのです。

そのころのクッチャンには、大人ふたりでも抱えきれないほど太いヤチダモやアカダモ、ハンノキなどの大木が茂り、開墾は、これらを切り倒し、背丈を超えるササを刈るところからはじまりました。ようやく地面が顔を出すと、ササ葺きの拝み小屋(拝み手のように屋根と壁を一体にした掘っ建て小屋)を建て、わずかの土地に、まずイモや豆、アワ、トウキビ、カボチャなどの種が蒔かれます。ほどなくソバや大根なども植えられていきました。

阿波の先人たちにつづき、やがて島根県からの結社移民である山陰移住会社をはじめ、本願寺農場、成瀬農場、山梨団体、出雲団体などの集団移住がつづき、倶知安は村としての形をなしていきます。出雲団体を率いた鈴木重慶はまもなくアメリカに留学し、帰国後は東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の助手などを経て再び倶知安の開拓事業に復帰します。このときアメリカ式の大型機械を本格的に導入したことで知られますが、北海道開拓に多くの事例があるように、舶来理論の単なる移植は成功につながりませんでした。

倶知安の行政の区分は、当初は虻田村にありました。1896(明治29)年になってようやく、倶知安村としての戸長役場が設置されました。

 

 

Kutchan’s Early Days

 

Up until the 1890s, the area we now call Kutchan was just land covered by forests and the name “kutchan” didn’t even exist. It is said that the only “road” that existed at that time was a footpath along the bank of Shiribetsu River which the local Ainu people used to carry out wood and plants from Mt.Yotei. It was such a large piece of land so away from anything, this land was once considered a location to build a prison facility!

In 1890, the entire island of Hokkaido was built into the Emperor’s asset. Usually anything that belongs to the Emperor is considered un-touchable in Japan. However the Hokkaido Bureau proposed that the island of Hokkaido is worth investing and developing. Agricultural paper issued in August 1890 wrote “Kutchan plains” and this is believed to be the first official mention of Kutchan.

In this paper “Kutchan plain” is described as “field surrounded by mountain range on it’s East, West and North sides. On it’s South stands the single peak Mt.Yotei.” The paper concluded by recommending Kitchen plain as the ideal location for farming, and to put cattle.

Where did the name “Kutchan” come from?

It originate to the Ainu language of “Kut-shan-i.” To put this to English, direct translation would be “pipe-flowout-place.” Believed that the way Shiribetsu River flows through tight bends and curves is behind this name. “Kutshani” changed to “Kudosani” and with time, turned to “Kutchan.” The current Kanji of 俱知安 was applied in 1893.

 

The first fleet of pioneers to Kutchan was those that originally came from Tokushima Prefecture who opened Niki-town. The leader of the fleet was a young man called Takekichi Niki. Yes, it was from his family name that the town of Niki was named after. He persuaded youngsters from his hometown to settle in too Kutchan and the first page of Kutchan’s history began.

In Autumn of 1890, the first fleet, with local Ainu leading the way, came into Kutchan. The team hiked up Iwaonupuri to grab a birds-eye view of the Kutchan area.

After inspecting the Kitchen area, the fleet pleaded to Hokkaido government to lease the land to them. After long discussion and negotiation, first 5 pioneers settled into Kutchan in May of 1892. Within that year, 47 housings were built in Kutchan and began cutting down trees that covered the area.

At that time the whole land was covered with trees with trunks so wide that it took more than two men to carry. The pioneers first cut these tree down and once they hit soil, started to grow potatoes, beans, corns and pumpkins. Soon after the pioneers started to grow other vegetables too.

Pioneers from other areas of Japan followed the first fleet form Tokushima and Kutchan started to look like a village. At the beginning, Kitchen wasn’t a village of it’s own and was considered an area within Abuta Village. It wasn’t until 1896 that Kutchan was acknowledge a village.

 

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
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