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Niseko Powder History【第8回】

| カテゴリ: Niseko Powder History

NPH-8

 

全日本スキー選手権の開催

1961年12月17日に開業したニセコひらふスキー場のリフトは、その後年内は無料開放となりました。国鉄(現JR北海道)では前シーズンから、札幌と狩太(現ニセコ)間のスキー列車として、毎週末に準急ニセコ号の運行をはじめていました。初年度は1両で、このシーズンから2両編成。

年が明けて62(昭和37)年。1月には、日本交通公社(現JTB)と国鉄(東京鉄道管理局)主宰の北海道スキー観光団の第一陣57人が、上野(東京)からはるばる倶知安駅に到着。高橋町長や観光協会役員らが花束で出迎えました。ほかにも倶知安駅と比羅夫駅に列車が止まるたび、必ずスキーヤーのグループが降り立ちました。両駅からスキー場まで、国鉄バスと道南バスが通っていました。昆布温泉をめざすスキーヤーたちも、できたばかりのリフトを一度体験してから目的地に向かいます。SLの時代に別れを告げるディーゼル気動によるスキー列車は、2年目のこの年から黒字となりました。

2月2日から4日まで、全日本選手権の前哨戦として、ひらふスキー場を会場に第17回北海道スキー選手権アルペン競技大会が開かれました。これに合わせて以後国鉄は、週末のスキー列車として準急銀嶺号も投入し、比羅夫駅と山田温泉間の国鉄バスも増発。日曜祝日には札幌・目名(蘭越町)間と同岩内駅間にディーゼル準急を走らせました。これらは札幌と倶知安を、それまでより1時間近くも短いおよそ2時間で結んだので大好評でした。2月25日の日曜日には、直前まで小樽で開催されていた第17回スキー国体帰りの各地の選手団をはじめ札幌方面からのスキーヤーも押し寄せ、150メートルのリフト待ちができるほどの盛況。リフトには色とりどりのヤッケの花が咲きました。

そして3月9日から12日まで、ひらふにリフトを誕生させるきっかけともなった第40回全日本スキー選手権アルペン競技会が開幕します(ノルディック競技は札幌)。それまで日本の山スキー史に重要な位置を占めてきたニセコを舞台にした、記念すべき大イベントです。高松宮の臨席をあおぎ、本部長に高橋清吉町長を据えるまちをあげた取り組みでしたが、除雪(比羅夫駅・スキー場間4キロなど)やコースづくりを担ったのは倶知安駐屯地の400名の自衛隊員で、彼らは滑降コースのゴール下にテント村を作って野営しました。運営の現場は、倶知安スキー連盟の中心にいた国鉄や後志支庁の職員たちでした。倶知安スキー連盟理事長だった国鉄の千坂功司さんも中心メンバーのひとりです。役場企画室の宮下雄一郎さんは、「国道の除雪がはじまったのがその2年前にすぎず、駐車場も雪を除くのではなく踏み固めるだけ。私は道路のことや電話、電気敷説の交渉にてんてこ舞いで、とにかくすべて、役場にお手本がない事態だった」と言います。倶知安市街で冬期間に車が安定して走る事ができたのは、このときからでした。

ゲレンデを整備する圧雪車もない時代ですからコースづくりはすべて人海戦術。第2の壁も、20人ほどが1チームになってスキーで踏み固めながら降りていきました。ポールは比羅夫駅から会場まで、馬そりで運ばれました。スタート地点とゴール間の連絡は、無線ではなく有線でした。

大会中の天候はあいにく連日荒れ模様。積雪も多く除雪に追われ、自衛隊の働きが頼みでした。悪コンディションのもと、18都道府県217人の選手たちはワックスに大いに悩みました。目まぐるしく変わる転向に、男子滑降では第一シード組が完敗してしまいます。しかし北海道選手団は、男子回転で上位独占。そのほか女子滑降と同大回転をのぞく種目ですべて優勝するなど、大活躍を見せたのです。

このときの道産子優勝者は、スコーバレー五輪(1960年・米国)に出場した滑降の武田孝(明治大学)のほか、回転の玉井武(国鉄北海道)、大回転の大平義博(早稲田大学)。女子は、回転の中家千鶴子です。釧路生まれの中家の所属は、小樽創業の名門スキー企業、東洋木材(現トーモク)でした。ちなみにその前年、長野県志賀高原での第39回大会で大回転を制したのは、倶知安高校2年生の気田義也で、倶知安の次の年の全日本選手権で滑降と回転の二冠に輝いたのは、倶知安農業高校出身の福原吉春(明治大学)でした。地元大会での活躍が期待されたこのふたりでしたが、残念ながら気田は早大進学にともなって欠場。福原は同時期にスイスのビラールで行われたユニバーシアード大会に出場して、回転で見事4位に入りました。彼らをふくめた地元の名選手たちについては、項をあらためましょう。

短い準備期間でなんとか重責を果たしたひらふスキー場でしたが、大会終了後、多くの問題点が指摘されました。まず挙げられたのが、宿泊施設の不足です。たしかにその時点でまともな宿泊施設といえば、山田温泉と大丸ヒュッテ(のちの大雪閣)のみ。ふたつを合わせても収容人数は250名程度です。大会に合わせて急ごしらえで7件の農家が民宿をはじめましたが、それも関係者全員を止めるには足りず、多くの人が倶知安市街に泊まることになりました。

さらにアクセスも未整備で、町外からの交通は国鉄です。札幌・函館間の定期ダイヤには蒸気機関車C62が牽引する急行にセコ1号、同3号があり、勾配がきつい小樽・長万部間で行われる迫力満点の重連運転は、函館本線の名物でした。これに週末のスキー列車(札幌・狩太間、札幌・目名間のディーゼルカー)が加わりました。比羅夫駅と倶知安駅からの連絡はバス頼みでしたが、たびたびスタックしてしまいました。

 

All Japan Skiing Competition

Niseko Hirafu lifts were open to the public for free of charge for the month of December 1961. Ski trains from Sapporo to Niseko ran on the weekends and a group of 57 skiers came all the way from Tokyo to Kutchan to ride the new lift and to ski. Every time a train will arrive to Kutchan or Hirafu station, a group of skiers came the train. Amazingly, the ski train from Sapporo became a profitable one from year two.

From 2 – 4 Feb, the 17th All Hokkaido Skiing Competition was held at Niseko Hirafu as a test case for the All Japan Skiing Competition. Additional fleet of buses were put into transport guests from/to the train station to the ski slope. New diesel engine train connected Sapporo to Kutchan in two hours. On Sunday, 25 February, so many visitors visited the ski slope forming a lift seem to be an  queue of 100 meters!

Next month, in March 1962, the big event that triggered the lift construction in Hifaru finally took place. The 40th All Japan Skiing Competition. Was a brilliant event with added value with a visit of the Royal Family. Every member of town took part to make the event successful. One thing for sure is that the event wouldn’t have realized if it wasn’t for the 400 members of the Self Defense Force. The 400 members actually camped at the base of the mountain and cleared snow from the 4km long road between Hirafu station and the ski lifts.

This is still years before the snow groomers made debut. Ski runs were compressed by manpower. 20 skiers would form a line and ski down to groom the snow. Poles used for the competition was brought to the lifts by horses pulling sleds. No radio communication between the start and finish course marshals. Every communication was done via wired telephone… Good old times.

Weather wasn’t in favor of the competition. Everyday was met with heavy snowfall and strong winds. The 400 Self Defense Force members worked around the clock to keep the course condition skiable. 271 participants from all parts of Japan competed in the event. Team Hokkaido dominated in Mens Slalom, also took crown of almost all competitions.

Hirafu Ski Resort, despite the short preparation period, managed to host the competition in success. However, numerous comments were posted to Town after the competition. The biggest of the comments were “lack of accommodation.” At that time, there was only about 250 beds in the Hirafu area. 7 farmers began farm-inns for the competition, but that of course wasn’t enough. Many members had to find lodging in the town of Kutchan.

Staying in Kutchan and skiing in Hirafu is not an issue today, but back in those days roads weren’t paved and snow clearing wasn’t as thorough as it is now. Buses packed with skiers would often get stuck on it’s way from the train station.

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

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