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Niseko Powder History【第7回】

| カテゴリ: Niseko Powder History

山とスキーが取り持った出会い

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さて日東商船㈱の竹中治社長はなぜ、海運ともファイバーボードともまったく畑ちがいのスキー場事業への進出をこのように即決し、わずかの期間で実現させてしまったのか。竹中社長の人となりをまとめておきましょう。

竹中は1900(明治33)年和歌山市に生まれ、官吏だった父にしたがって幼少期には台湾や朝鮮の小学校に通いました。東京商科大学在学中に高等文官試験に合格して、卒業後すぐ官界に入ります。大阪の資産家の家系に婿養子で入ると1932(昭和7年)から実業界に転身。大阪株式取引所員などを経て1937年に37歳で日東鉱業汽船を創業。海運のほかに科学、陸運、航空、観光、石炭、電機、新聞など多くの事業に関わった、一世の風雲児ともいわれる経済人でした。戦争中は読売新聞の役員も務め、戦争の激化に伴って商工省時代の先輩岸信介に懇願されると、商工省大阪事務所長や大阪軍事管理部総務長として同省へ返り咲きました。戦前の日東鉱業汽船を再建してタンカーを軸にした日東商船を起こしたのは戦後の48年。日本の海運業界は1960年代に大きな再編の渦に巻き込まれますが、この記事はその直前でした。とりわけ竹中の名を知らしめたのは、スエズ運河の権益をめぐってエジプトとイスラエル、イギリス、フランスが起こしたスエズ動乱(1956年)の趨勢を読み切ったこと。彼は荷主との契約で、目先の利益を追った短期契約ではなくあえて逆ばりの長期契約に踏み切り、これがその後の日東商船の進路を大きく拓くことになりました。

筋金入りの左党で、晩年は右手に複数企業の決裁書類、左手にジョニーウォーカーが社長室での日常。間違いや未熟を許さない苛烈なワンマン経営者でありながら人生の機微を寛容にわきまえた竹中は、交わった人びとに強烈な印象を残すスケールの大きなリーダーでした。

当時倶知安スキー連盟理事長だった千坂功司さんは回想します。

「そもそも竹中さんはスキーについて何もご存知ありませんでした。リフトって何だ?という調子です。でもだからこそ、ものごとをまっさらの状態で判断できたのではないでしょうか」

ここにも、ひらふの秘められた物語が眠っています。

 

1961年の2月から3月にかけて、竹中は技術者らを引き連れて、チシマザサの資源調査のためにはじめて倶知安を訪れました。ワイスホルン周辺を調査する一行の写真が残っています。そしてこれに先駆けて現地に入り、地元の協力を受けながらワイスからニセコアンヌプリ一帯に独自の踏査を重ねていた人物がいました。ファイバーボードの開発研究エンジニアであった、大川研究所の大川修作さんです。彼はニセコ高原観光㈱所長大川仁吉の末弟でした。

大川家は5人兄弟で、仁吉は、長兄の理一郎の下の二男、修作は一番下の5男。そして彼らの父は、製紙やパルプ製造の分野で知られるエンジニア、大川理作です。理作は、親族にあたり大川平三郎(1860〜1936)のもとで研究のキャリアを積み、戦後は大川研究所を主宰して各地の製紙工業のコンサルタントを務めていました。兄弟はみなこの父のもとで仕事をする製紙・パルプの技術者だったのです。

明治以降に急速な開拓がはじまった北海道にとって、当時はまだ資源収奪型産業の代表的な存在であった製紙業との関わりは深く、その意味でも大川家と北海道との出会いには興味をひかれます。こうした延長に、根曲がり竹を原料にしたファイバーボードの開発があったのです。

千坂さんはつづけます。

「私たちは地元のスキーヤーとして、大川修作さんを案内しました。竹中さんがいらしたとき、ちょうどチセヌプリで地元の大会があったのです。社長にこれを見てもらって、もしリフトがあれば、こうした大会がどんなに便利になって盛り上がるかを説明しました」

千坂さんは1927(昭和2)年に巌ヌプリの硫黄鉱山の集落で生まれ、子どものころからニセコの山々は遊び相手。当時は倶知安駅に勤務する国鉄マンでした。職場でスキークラブを立ち上げたほか、56(昭和31)年には仲間とまちを動かして、旭ヶ丘にロープトゥを設置しています。この動力は、米軍が放出したディーゼル発電機でした。また倶知安駅が属する札幌鉄道管理局では、冬になるとニセコへのスキー客の誘致に取り組んでいました。まだ30代の山とスキーを愛する者同士、千坂さんと大川修作さんはすぐ打ち解けていきました。

大川修作さんは、旧制の中央大学山岳部出身。「戦後すぐ、1946(昭和21)年に入学しましたが、同期は年も境遇もバラバラ。戦地帰りで肩章をもいだ軍服で通う学生などもいました」と言います。

「焼け野原になった東京で、講義はあるけれど飯もないアルバイトもない。だから東京を離れて山歩きばかりしていました。田舎にいけば銀シャリ(米飯)にありつけます。まさに『国破れて山河あり』。冬は山スキーに夢中になりました。1959年の秋。親父が技術指導している岩内の工場に派遣されて、ササの植生を調べる資源調査のために、ニセコの山歩きをはじめました」

現地に入ると修作さんは、ニセコの魅力にすぐ夢中になります。雪が積もりはじめると登山靴をスキーに履き替えました。当初北海道ファイバーボード社は、ササの採取地をワイスホルンに計画していました。しかし修作さんはそのプランだけに縛られずに、山系を幅広く調べてまわりました。そして1961年の2月から3月にかけて、竹中社長ら日東商船幹部の視察があり、地元からは千坂さんらのサポートがあったのです。この時点で千坂さんや高橋町長の頭には、ササを搬出する索道はリフトに転用できる、という確信があり、大川修作さんもそれを充分に理解していたと思われます。

大川さんは言います。

「合板会社の所長から索道会社の所長へ———。はからずも人生の大転換をとげた兄の仁吉も、それまでスキーとは縁の薄い人でした。スキーのすばらしさや将来性を焚きつけるのに、僕もひと役買ったわけです」

役場の最前線で日東商船との交渉に当たっていた宮下雄一郎さんは言います。

「竹中さんは大川兄弟を肉親のように信頼していましたが、末っ子である大川修作さんはとくにかわいがられていた印象があります。竹中さんには、『倶知安町も熱心だしお前がそこまで言うのなら・・・』という気持ちもあったのではないでしょうか」

 

 

Mountain lover and Ski lover

The core business of Mr.Takenaka’s company was something far from skiing or lift operations. It was actually marine transportation and fiberboard production. Why did he decide on investing in the ski business, and how did he manage to realize this so quickly?? Let’s have a look at Mr.Takenaka’s history to understand why.

Takenaka, born 1900 in the city of Wakayama, spent his childhood days in Taiwan and Korea’s elementary school for his father was a diplomat. He followed his fathers footsteps and worked for the country right after university graduation. Married to an Osaka-based business owning family in 1932 and his talent in business grew. Started the marine transportation company in 1937, expanded his areas of business to chemical industry, land transportation, aeronautics, tourism, mining, electric appliances, and newspapers.

Strong leader who showed very little tolerance about mistakes, usually had a glass of Johnny Walker in his left hand and multiple corporate documents in his right hand.

Koji Chisaka, who was head of Kitchen Ski Federation at that time looks back and described Takeneka.

“Takenaka-san knew nothing about skiing. What is a lift? What equipment do you need to ski? These were the questions he asked me! Probably because he had zero knowledge about skiing, he was able to assess the skiing business without being biased.

Very interesting how history is a build up of these random happenings.

 

Chisaka continues;

“We took Okawa and Takenaka to Chisenupuri, where a local ski race was being held. We wanted to explain to Takenaka the positive impact that a ski lift can bring.”

Chisaka was born literally in the mountains of Niseko. He’s parents were residing in a small mining town at the base of Iwaonupuri mountain. The Niseko mountains has always been his friend and his playground. Began working at Kutchan train station, formed a skiing club at work, requested the Town to install a rope-tow to Asahigaoka Ski hill. Long story short, Chisaka was a natural born ski addict.

Okawa Shusaku, the younger brother of the Okawa family, who’s destiny made a steep turn along with the fiberboard factory, grew his love to the mountains during his University days, where he was a member of the Mountaineering club. Okawa, describes his University days as; “It was right after the war and Tokyo was nothing but ashes and burnt buildings. No work, no food, just nothing. So I often left Tokyo and walked around the mountains outside Tokyo. In winter, I’d again head to the mountains but with my skis. I was sent to assist my father’s factory in Niseko, and that’s where I met the Niseko mountains.”

Days after landing in Niseko, Okawa Shusaku fell in love with Niseko’s nature. Okawa walked around various mountains in the area to investigate bamboo growth, but many believe his mountain expedition was more a fun adventure rather than a company investigation.

“My older brother, who suddenly became head of lift operations from factory manager, he had very little ties with skiing. I guess I took a role in convincing him the beauty of skiing and the future of the skiing industry.”

 

本文はニセコひらふスキー場発達史発行委員会(Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu)により、2011年に発行されたニセコパウターヒストリーの本文中からの転載原稿です。
本文章の転用・転載は固く禁じます。
執筆ライター:谷口雅春
取材構成コーディネート:平山淳也(有限会社エーピーアイ)

The texts are reprinted from the text of Niseko Powder History published in 2011 by Committee for Publishing History of Ski Resorts Development at Hirafu.
Reproducting all or part of this content is forbidden.
Writer: Masaharu Taniguchi
Co-ordinate: Junya Hirayama (API ltd.)

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