NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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『北海大観 (ほっかいたいかん)』(大正3年7月13日発行)より


 硫黄の次にこのエリアが知られるようになったのは、温泉のおかげでした。はじまりは1885(明治18)年。岩内に住む渡島某(※倶知安町百年史の表記)がチセヌプリ南麓に間欠泉を発見(大湯沼。現湯本温泉)。かたわらに笹掛けの小屋を建てて浴場にしました。
 1894(明治27)年には、倶知安への最初の入植者のひとりである山田邦吉がニセコアンヌプリの東麓に温泉を見つけて、1897(明治30)年に山田温泉として開業。このできごとが、今日グラン・ヒラフがある「倶知安町字山田」のはじまりとなりました。
 1896(明治29)年には尻別川をのぼったところ(現蘭越町)に成田温泉(現薬師温泉)、1898(明治31)年には同じく現蘭越町に宮川温泉(現鯉川温泉)が発見され、1905(明治38)年にも現蘭越町に青山温泉が開かれます。ニセコはしだいに、北海道でも有数の山岳温泉郷となっていったのです。1904(明治37)年に小樽(高島)・函館間に北海道鉄道(現JR函館本線)が開通すると、ニセコの景勝と温泉への関心はいっそう高まっていきました。


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五色温泉(昭和初期)


 明治末から大正にかけて、ニセコではさらに温泉開発が進められます。1908(明治41)年には、倶知安から硫黄鉱山に向かう旧道沿いに小川温泉(のちに青山温泉、現在廃業)が。同じころ蘭越の奥地に新見温泉が開業しました。1920(大正9)~26年には、現在の五色温泉のはじまりとなる井上温泉と稲村温泉が開業。1937(昭和12)年の冬には、それらの近くに札幌鉄道局の山の家が開かれました。

 大正から昭和へ、こうしてニセコの温泉が人気を集めていくのと、北海道帝国大学や小樽高等商業学校(現小樽商科大学)の学生のあいだでスキー熱が高まっていくのは、期せずして重なっていました。時代は山スキーの大いなる魅力に目覚めていくのです。


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 さて、これからひらふスキー場が開業した1960年代の話をしていく前に、しばらく時代をさかのぼることをご容赦ください。なにしろニセコのスキー史はレルヒ中佐が倶知安を訪れた1912(明治45)年にはじまるのですし、ニセコに人の営みが生まれたころについても、ぜひ皆さんに知っていただきたいのです。すべては、ニセコひらふをもっと楽しみ、もっと好きになっていただくために?。

 倶知安町に最初の入植があったのは、徳島県人を中心とした47戸が開墾に着手した1892(明治25)年のこと。漁業や交易で中世からさまざまな人の営みがあった日本海側とちがい、北海道の内陸開拓が本格化するのは明治20年代のことでした。
 しかし江戸時代、グランヒラフのあるニセコアンヌプリの北西隣、イワオヌプリから硫黄が採掘され、岩内に運び出されていたことが記録に残っています。採掘は遅くとも1804(文化初)年にさかのぼりますが、本格的に採掘されたのは、1861(万延2)年ころのこと。ニシン漁を中心に当時の岩内で大きな商いをしていた場所請負人佐藤仁左衛門(屋号は仙北屋)が、約20キロの山道を整備して、採掘した硫黄を馬で岩内まで運びました。労働力は、ニシン漁のために集めた雇い人たち。彼らが困難の末に開いた道は、現在の道々66号、ニセコパノラマラインの原型となったのです。


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 時代が明治に下ると、開拓使のお雇い外国人ライマン(地質学者)のお墨付きもあり、本格的な採掘がスタート。1886(明治19)年には三井財閥が日本で初めての蒸気精錬法によって生産を拡大しました。当時硫黄は、日本の重要な輸出品であったマッチの製造に欠かせないもの。開拓がはじまった北海道にとって、きわめて重要な資源だったのです。鉱山は経営母体が替わりながらも、1937(昭和12)年まで操業されました。2009年、かつてのイワオヌプリ硫黄鉱山は、経済産業省の「近代化産業遺産群」に選ばれました。
 ニセコひらふの前史は、こうしてまず、岩内側からはじまります。

 ひらふにニセコ最初の、そして日本最長のリフトが生まれた1961年。この年がどんな年であったのか、振り返ってみましょう。



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 日本経済は岩戸景気と呼ばれた好況の終盤にあり、その後なお10年ほども順調な成長サイクルは続きます。この国は、戦後の復興をとげて高度成長への上昇気流に乗っていました。
 海外に目を向ければ、1月にアメリカで、ジョン・F・ケネディが43歳で大統領に就任。春にはソ連(当時)が人類初の有人衛星ヴォストーク1号を打ち上げ、ガガーリン飛行士が地球一周に成功していました。8月、東ドイツ(当時)が東西ベルリンの境界を封鎖。のちのベルリンの壁となります。
 日本はといえば、大相撲で柏戸と大鵬(第48代)が同時に横綱昇進。札幌では、札幌交響楽団が北海道で最初にして唯一のプロ・オーケストラとして誕生します。この年の本の ベストセラーは、松本清張の『砂の器』でした。



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 ニセコ高原比羅夫スキー場にリフトが開業した12月。青函トンネルの調査抗工事がスタート。夢の大プロジェクトがいよいよ実現に向けて動きだします(建設には四半世紀以上かかり、営業開始は1988年)。北海道の知床が国立公園へと答申されたのもこの月で、ユニークなニュースとしては、文豪夏目漱石が青年時代から(明治25年から22年間ほど)、倶知安(くっちゃん)町の北にある岩内に戸籍を移していたことがわかったのも、この12月でした。開拓時代の北海道は徴兵免除地だったことから取られた措置だったようです。


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 さてこうして振り返ってみると、世界は戦後の復興から新たな成長や政治体制の枠組みに入り、科学も宇宙時代に向けて急速な進歩を遂げていました。日本でも伸び盛りの経済の勢いを受けて、文化やスポーツが大きなターニングポイントを迎えていました。

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 「2万人の人出で」「ニセコスキー場で盛大にリフト開通式」―。
 これは1961年12月17日(日)、ニセコ高原比羅夫スキー場のオープンを告げる、北海道新聞の見出しです。
 第1第2リフトの合計1,070メートル(現在のキング第1ペアA・B線と、キング第2クワッドの前身)というスケールは、当時の延長距離では、日本有数の画期的なリフトの誕生でした。ひらふスキー場(現ニセコグラン・ヒラフ)の歴史は、ここからはじまったのです。


 日本のスキーリフトはまず戦後まもなく、札幌の藻岩山や志賀高原丸池(長野県)などに進駐軍専用として設置されました。やがて草津温泉スキー場(群馬県)や野沢温泉スキー場(長野県)に民間のリフトが作られていきます。1961年の北海道には、札幌の荒井山や藻岩山、小樽の天狗山などにすでに中小規模のリフトがありました。しかし、戦前から「東洋のサンモリッツ」と呼ばれたひらふに誕生したこのロングリフトが、やがて来る北海道での本格的なスキーブームの扉を大きく開けることになります。


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 12月17日。リフト開業日のひらふは久しぶりの快晴。札幌から初運行した臨時の準急スキー列車「ニセコ号」や胆振線(伊達紋別駅・倶知安間。1986年廃線)がニセコでのリフトの誕生を待ちかねたスキーヤーを運び、比羅夫駅からスキー場へは、国鉄バス、ニセコバス、銀嶺バス3社の計9台のバスが招待客や一般客をピストン輸送。北海道副知事やスキー連盟関係者と共に、ニセコ高原観光の竹中治社長がテープカットをすると、有名選手らがつぎつぎにリフトで上がり、美しいシュプールを描きながら滑走をはじめました。それに合わせた盛大な花火が興を添えまさに盛大なる様相を呈したわけです。ただし、この日一日でひらふに、2万人もの人出があったという新聞報道については、正確な入り込み人数として異論もあるようで、その事実の如何については、今後のページで取り上げてみたいと思います。


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プロローグ

テオドール・エードラー・フォン・レルヒ

 日本にスキーを伝えた重要な人物に、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(1869?1945)がいます。レルヒは日露戦争(1904?05年)でロシアに勝利して一躍世界の注目を集めた日本軍の研究のため、1910(明治43)年11月に来日しました。陸軍では、八甲田山での雪中行軍中に210名中199名が遭難した事件(1902年)の衝撃もあり、彼のスキー技術(長い一本杖スキー)に注目。新潟県の高田歩兵第58連隊でのスキー指導を依頼します。1912(明治45)年2月には、レルヒは北海道の旭川第七師団でもスキーを指導しました。そしてこの年の4月15日、彼は羊蹄山に登るために、倶知安(くっちゃん)村(当時)を訪れました。


蝦夷富士登山会本部前のレルヒ
登山中の一行


 倶知安町では、開基120年にあたる2012年に、レルヒ来町100年を迎えます。またその前年、2011年はひらふスキー場誕生50年。私たちは、こうした大きな節目に合わせて、「ニセコひらふのスキー史」をあらためて綴ってみたいと思います。その前史もたっぷりと含めて、ひらふを愛するあなたのためにロングシリーズではじまる「ひらふスキー場誕生50年物語」。どうぞご期待ください。


下山中