NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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 新年を迎えるグラン・ヒラフの名物といえば、「大晦日たいまつ滑走」。35回目となる今年も、参加スキーヤーの募集がはじまっています。今回はこの「たいまつ滑走」のお話です。
  
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 ひらふの「たいまつ滑走」のスタートは、1975年。はじめたのは、現在グアム政府観光局日本代表の光森裕二(56)さんです。小樽生まれで札幌育ちの光森さんは、子どものころからスキーが大好き。高校生になってもその情熱は熱くなるばかりで、冬はニセコ高原ホテルのレストランで住み込みのアルバイトをしながら、スキー漬けの日々をおくっていました。
 
「バイト仲間もスキーに夢中になっているやつばかり。だから大晦日のカウントダウンのイベントに、なにかおもしろいことやろうぜ! という話になったのです。紅白歌合戦を見ているだけじゃつまらない、とね」
 光森さんたち10数名はスキー場の理解を得て、スキーをかついて第一ゲレンデを第二の壁の上まで登り、午前0時を期していっせいに滑りはじめました。これぞ正真正銘の初滑り。これは面白い! それならばと次の年光森さんは、たいまつを持って滑ることを提案。角材に布を巻いて灯油をしみこませ、灯火とともに滑りました。
 
「ニセコ高原ホテルの人たちが手伝ってくれたのです。そんなこと危ないからやめろ、と言われるかもしれないと思っていたので、うれしかったですね。それからひらふの行く年来る年は、リフト(ホテル)の協力をいただきながら、このイベントが恒例となっていきました。今年でもう35年なんですね」
 
 その後観光業界に進んで何度も海外勤務を経験した光森さんですが、海外にいるときでも年末には必ずひらふに帰って、仲間たちとたいまつ滑走の運営にあたってきました。
 
 1980年代になって本州からのスキーツアーが盛んになると年末のリピーターの中から、自分もたいまつ滑走をしてみたい! と希望する人たちが増えて、滑走者は200人前後にふくらみました。ニセコひらふでたいまつ滑走をして年を越すことがステータスのようになって、その魅力が口コミで広まっていったのです。また当時は、一般客が気軽にたいまつ滑走に参加できるスキー場はほかにほとんどありませでした。21世紀を迎える2000年のミレニアムには280名を超えるスキーヤーが参加して、忘れられないビッグイベントとなりました。
 
 光森さんは、世界のスキーリゾートの中でも、一般客がこれだけのスケールで楽しむたいまつ滑走はない、と言います。もともと若者たちのノリでスタートしたこのイベント。ボーゲンができれば誰でも参加でき、細かな決まりはありません。今ではオーストラリアや東アジアからのスキーヤーも欠かせない顔ぶれとなり、世界に開かれたスキー場にふさわしい光景となっています。
「私たちは、ただ好きだから、面白いからと、みんなでやってきました。その自由さが、たくさんのスキーヤーや運営ボランティアを引きつけているのではないでしょうか。それと自慢がもうひとつ。いままで吹雪で中止になったことは、一度もないんです! スキー場開設50周年に向けて、70年代にニセコヒラフでスキーを一生懸命していた人たちとまた会えれば、とてもうれしいです!」
 今年も、たくさんの参加者と見物の皆さんが集うことを、大晦日のヒラフが、待っています。
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たいまつ滑走のスタート説明をされる光森裕二氏2009.12.31撮影

  先般ご案内申し上げました、プレ50周年トークショー『そうだったのか!ニセコスキー100年史』を12月17日(金)に、予定通り開催いたしました。
 当日は、会場を埋め尽くす程のたくさんのお客様にご来場いただき、心より感謝申し上げます。
 
 ゲストとしてお招きした中浦皓至氏(日本スキー研究所 代表)からは、98年前にニセコにスキーを伝えたレルヒ中佐や、100年前に北海道大学の学生らにスキーの存在を伝えたハンス・コラー教授についてのエピソードをお話しいただき、北海道でのスキー事始めの興味深い諸事実に出会うことができました。
 また、同じくゲストとしておこしいただいた永江勝朗氏からは、昭和初期の倶知安でのスキーについて、グラン・ヒラフの始まりであるニセコ高原観光設立までの経緯、リフト開設時の様子などをお話いただきました。当時、実際に現場におられた方から、生のお話をお聞きすることができたことは、スキー場の今を担う我々にとっても大きな励みとなりました。
 
 トークショーの最後は、景気付けの意味も込め羊蹄太鼓保存会 鼓流の皆さんに、熱気溢れる力強い演舞で締めくくって頂きました。
 羊蹄太鼓の創始者である故高田緑郎さんは、ニセコのスキー文化草創期からスキーに親しまれた方で、数々の競技会において最後の選手がゴールするまで太鼓を打ち鳴らして応援をされたと伺っています。また、今回の演舞曲「ニセコ連山太鼓」もスキーでニセコ連山を登り、滑り降りる一連の動きをイメージして作られたとのことで、まさに、今回のトークショーのテーマにふさわしい締めくくりを迎えることができたと感慨を持って聞かせていただきました。
 
 司会進行を勤めた谷口雅春氏、ゲストの中浦皓至様、同じくゲストの永江勝朗様、見事な演舞を披露して頂いた鼓流の皆様、ならびに会場にお越し頂いた皆様に心よりの感謝を申し上げ、あわせて本委員会の今後の活動にご理解とご協力をお願い申し上げます。
 
                   2010年12月20日
                   ひらふスキー場発達史刊行委員会
                   委員長 久野賢策
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 来年2011年12月17日、 ニセコ グラン・ヒラフ は、 1961年のニセコ高原観光第1・第2リフト開設以来50年目にあたる記念すべき年を迎えます。そして、その4ヶ月後の再来年2012年4月17日は、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ中佐(1869〜1945)が1912年に羊蹄山登山を挙行しニセコにスキーの存在を知らしめて以来100年目を迎えます。
 一つのウィンターシーズンに、地域におけるスキー場開設50周年とスキーの伝来100周年を迎える2011年を前にして、この度、ニセコのスキー発達史を振り返るトークショーをプレ周年イベントとして開催致します。
 トークショーを司会進行するのは、現在「ニセコスキー100年史 ひらふスキー場発達史刊行委員会編」ニセコひらふおもしろブログの取材執筆にあたっている谷口雅春氏。
 トークゲストには、北海道のみならず日本全国のスキー伝来期の歴史を長年にわたり調査研究され、数々の書籍を発表されている中浦皓至氏をお迎えします。
 そして、ニセコ高原第1・第2リフト開設時、ニセコ高原観光株式会社設立に参加され、後にサンモリッツリフト株式会社の専務取締役をお努めになられた永江勝朗さんにもお越し頂き、当時の様子を振り返っていただきます。
どうぞ、皆様のふるってのご来場をお待ち致します。
<テーマ>
 ニセコの歴史を再発見!
   そうだったのか!ニセコスキー100年史
<開催要項> 
開催日:2010年12月17日(金)
時 間:開場 18:30  開演 19:00〜20:30 
場 所:ニセコ グラン・ヒラフ高原スキーセンター ファミリーレストランピルカ
    入場無料
出 演: ・谷口 雅春 氏
      ニセコスキー100年史
        -ひらふスキー場発達史刊行委員会編 現在執筆中ライター
      著書:『奇跡の音楽祭 札幌・PMF の夏』(北海道新聞社)
        『千年の響き
         ー正倉院楽器復元とアンサンブルオリジン』(小学館スクエア)
        『札幌アート・ウォーク』(北海道新聞社)
      聞き書き:『大地の遺産-知床からのメッセージ』(牛来昌著,響文社)
                                     他
     ・ 中浦 皓至 氏  日本スキー研究所 代表
      「日本スキー ・ もうひとつの源流―明治45年北海道」著者
       元北海道立当別高等学校教諭.日本スキー学会理事.
       全日本スキー連盟(SAJ)指導員.北海道アルペンスキー研究会副会長.
      著書:楽しく早くうまく―指導員マニュアル(北海道スキー協会)
         スキー技術の歴史と系統(北海道大学図書刊行会)
         Skiing Together(共著,北海道アルペンスキー研究会) 他
     ・ 永江 勝朗 氏 元ニセコ高原観光(株)・サンモリッツリフト(株)

 ご記憶の方も多いことでしょう。ひらふには2003年のシーズンまで、高原リフトとアルペンリフトという、経営が独立した二社のリフトがありました(2004年シーズンからグランヒラフに統合)。1961年の12月に最初のリフトを架けたニセコ高原観光(株)に対して、1965年にアルペンリフトを設置したのは、サンモリッツリフト(株)。両社はその後ながく火花を散らすライバル関係で知られることになりますが、サンモリッツ社設立のいきさつは、現在ではあまり語られていません。当事者であった永江勝朗(かつろう)さんの手記とご本人へのインタビューをもとに、史実をまとめておきましょう。
 永江さんは1925年、北海道勇払郡穂別村生まれ。小学校2年生になるとご両親と倶知安に移り住みます。倶知安指導信用農協などを経て、地元からニセコ高原観光(株)へ入社した第一号社員でした。
 1965年の春、ひらふに大きなニュースが告げられます。のちにアルペンコースと呼ばれる一帯に、地元の大雪閣(株)がリフトの架設を申請したのです。そこは1962年3月、第40回全日本スキー選手権大会アルペン競技会のコースとなった斜面です。
 大雪閣の前身は、1962年の3月(リフト最初のシーズン)に開業した簡易宿泊所「ダイマルヒュッテ」。ヒュッテの経営者は、倶知安町の安東興業氏でした。ニセコ高原観光が当初宿泊業に取り組まない方針だったため、地元の歯科医院を経営するかたわらスキーによる地域づくりに意欲を持っていた寺岡四郎氏が、安東氏に参入を勧めたもの。翌シーズン、本格的なスキー宿である「大雪閣」が誕生します(80年代に経営が替わり現在のホテルスコットへ)。
 ニセコ高原観光は、将来のビジョンとしてリフト拡張計画を温めていました。しかしその時点ではまだ創業4シーズンを終えたばかり。親会社日東商船(株)に対して、創業時の赤字を脱してようやく自立の目途が立ってきたところでした。しかし大雪閣のリフト申請をただ黙って見ているわけにはいきません。日東商船の竹中治社長に「ぜひわが社も申請を」と稟議を上げます。しかし社長の返事は、「リフトはもうやらん」。 順調なテイクオフができなかったスキー場経営に、投資の価値を見いだすことはできないという判断です。
 現地の永江勝朗さんは切歯扼腕(せっしやくわん)、「この際代わりに寺岡四郎さんにリフトを架けてもらおう」と、寺岡氏に相談を持ちかけます。熟慮の末に寺岡氏は参入を決断。受け皿は、倶知安町旭ヶ丘スキー場を経営していた(株)ニセコリフトサービスを前身とする、サンモリッツリフト(株)です。同社はニセコ高原観光のダミーであることを鮮明にしながら競願に臨み、関係者の協議と高橋清吉町長や酒井町議会議長、安東興業氏の了解の上で事業許可を獲得しました。
 しかしサンモリッツリフトには、人材をはじめほとんど実態がありません。永江勝朗さんは、ニセコ高原観光に在籍のまま、新たなリフト会社の立ち上げに当たることになります。

初期の民宿の話をつづけましょう。
 現在は第一級の芝生グランドを2面持ち、夏はサッカーやラグビーの合宿もできる「ロッジ・コロポックル」の創業は、リフト開業の1961年(現在地には1973年に移転)。創業者の岡田光義さんは、当時のことを懐かしみます。
「うちは畑が大きくなかったので、冬になると親父は山仕事(伐採)をしてたもんです。自分の代になってリフトができて、家にいられるようになった」
 といっても慣れない民宿経営。とまどいも多かったそう。
「豚汁に、皮のついた豚肉を使っていたんです。そしたらあるお客さんが、汁にヒゲが入ってると怒った。そんなことを思い出すね」
 奥さんの英子さんは、宿をはじめるにあたって猛特訓を重ねて調理師免許を取りました。料理に使うイモや牛乳、米、野菜はもちろん自家製です。
「なんだか急に民宿をやることになってしまって、準備からして大変でした。自分たちが暮らしていた母屋を客室にして、私たちは納屋を改造して移ったんです。お客さんには、とにかく心を込めて地元のおいしいものを食べてほしいと思っていました」
 いま経営を担う息子の文義さんはまだ小さく、比羅夫駅にスキーヤーを乗せた汽車が着くと、馬そりで迎えにいく役目でした。

IMG_0930小.jpg旅館コロポックルの岡田光義さん、英子さんご夫妻 2010年9月撮影

 1968(昭和43)年に「銀嶺荘」をはじめたのは、先代の岡田富雄さん。1970年に冬季国体が倶知安で開催されることになり、倶知安町からの要請に応えた開業でした。現在のご主人岡田智信さんは、「客商売なんて両親にとってはまったく初めてのことで、父も母もは夏のあいだ畑仕事の合間を見て、温泉地にいってサービスのことを勉強してました」と言います。
 やはり自前の素材を使った大皿料理が売りものでした。開業当初は客集めに苦戦しましたが、やがて本州からのスキーツアーが大人気になると、泊まるだけでいい、寝るのは廊下でもいい、などという繁盛ぶりでした。11室ではじめた「銀嶺荘」ですが、6度の増築を経て、いまでは54室の老舗スキー宿になっています。

IMG_12982小.jpg旅館銀嶺荘の岡田智信さん 2010年9月撮影

 現在は「居酒屋さかえ」を経営する阪井正行さんが「さかえ旅館」をはじめたのも、国体の準備がはじまった1968年(2007年に廃業)。1965年に大雪閣の調理師として函館の湯ノ川からやって来たのがひらふ暮らしのはじまりでした。阪井さんは、開業当時のひらふは冬しかお客さんが来なかったといいます。
「なんとかしなければと、ひらふスキー場振興会という集まりを作って、リフトと宿泊施設の関係者が会費を集めて視察に行ったり、テニスコートなど夏場の対策を話し合ったんです。やがて札幌オリンピックがあり、70年代の終わりからスキーツアーが入るようになって、一気に盛り上がっていきました」
 また阪井さんはプロの調理師として、農家民宿の女将さんたちを集めて料理講習会を開きました。まちとしてのひらふの魅力は、宿全体の取り組みで高めていかなければ、と考えていたからです。

IMG_0865小.jpg元旅館さかえ 坂井正行さんご夫妻お孫さんとともに 2010年9月撮影
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※上記は、ニセコ高原リフト開設から2年後くらいの時期周辺地図(当時山田温泉で配布されていたハンカチをトレース) 納田さん、小田さん、浦野(現白雲荘)さん、岡田さんら草創期の宿を営まれた方々のお名前が記載されています。

 ひらふで最初期にはじめられた民宿は、みなスキー場にほど近い農家でした。農家ではたいてい、牛を1〜2頭飼っていました。糞で堆肥を作って地力を高めるためです。そのために宿泊客には毎朝しぼりたての牛乳がふるまわれ、とても喜ばれました。タマゴも庭で飼っていたニワトリのもので、目の前の畑のジャガイモなども、食卓を飾ります。農家が自前のミルクや農産品をたっぷりとふるまうもてなしは、今日のファームレストランの原形ともいえるものでした。最初の7軒のうちのひとつだった「小田民宿」の2代目だった小田正信さんは言います。
「1泊2食500円。いまでは考えられませんが、全部相部屋です。なにしろ人気が出たころは、押し入れでも廊下でもいいからとにかく泊まらせてほしい、とお客さんがやってくる日も珍しくありませんでした」
 当時はお嫁入りして間もなかった奥さんのキミエさんは、「牛乳やイモのほかにも、冬になる前にイワナをいっぱい釣って焼いてから甘露煮にしておいたり、山菜の塩漬けなどを作り置きしていました。関西からのお客さんが庭でカマクラを作って、その中でジンギスカンをしたことありました。大喜びでしたよ」と語ります。

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宿泊客の車がひしめき合う小田民宿(当時)の駐車場(昭和40年代)

 
 しかし朝早くて夜遅い生活がつづき、家族総出で働いてもとにかく毎日たいへんだったそう。
「朝早いのは慣れていますが、夜遅いのはゆるくなかったです」とキミエさん。小田民宿は、正信さんが体をこわしたこともあり、1978年で営業を閉めました。
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当時を懐かしく語る小田ご夫妻 平成22年9月撮影

 高原コースの真下で人気の宿として営業を続ける「白雲荘」も、最初期の民宿からのスタート。創業時から牛乳風呂を名物としています。これも当時牛を飼っていたことから生まれたアイデアでした。現在の宿を切り盛りする浦野妙子さんは、かつてファンとしてひらふに通いつめたスキーヤー。
「函館どつくに務めていました。金曜の夜に函館を発って早朝比羅夫駅に着くとすぐ、今では考えられないような重たい道具と長いスキーをしょって、2時間近くかけてゲレンデまで歩きました。リフトが動くまで時間がありましたから、ただバスを待っているより、山にとにかく早く着きたかったのです」
 やがて本州はもとよりヨーロッパやカナダのスキー場にまで出かけるようになった妙子さんは、1975年に白雲荘にお嫁入りしたのでした。
「当時のひらふは、リフトと宿しかないような状態でした。アフターの楽しみがとても少ない。だから白雲荘で、喫茶店(ウェーデルン)と飲食店(居酒屋かかし)をはじめました。ひらふで最初でしたよ」
 地域にないものを作って、ひらふをもっと魅力的なまちにしよう。そう考えた浦野さんはその後、夏場のためにテニスコートを作るなど、地域全体を見すえた経営を広げていきました。
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浦野妙子さん 白雲荘の食堂にあるグラン・ヒラフコースマップとともに
平成22年9月撮影

 ニセコ高原比羅夫スキー場(現・ニセコグラン・ヒラフ)で1962(昭和37)年3月に第40回全日本スキー選手権アルペン競技会が開かれるのに合わせて、急ごしらえの民宿が7軒つくられたことは先に述べました。その時代のエピソードをひろってみましょう。
 民宿をはじめたのはみなスキー場にほど近い農家で、倶知安町のすすめによるものでした。町としては、期待の新産業であるスキーの裾野を広げていくとともに、土壌条件にやや恵まれていないそのエリアの農業経営を支援する狙いもありました。といっても予算の面で具体的な助成はなく、7軒は金融機関から融資を受けるための民宿組合を組織します。中心になったのが、納田又治さん。
 ご子息で現在「ペンション納田」を経営する納田忠さんは語ります。
「昭和7(1932)年に親父が建てた家ではじめました。大小合わせて6部屋くらいあったでしょうか。当時は消防署や保健所の規制もゆるかったので、わりあいたやすくできたのだと思います。もともとリフトができる前からうちには、(自衛隊)倶知安駐屯地(1955年開設)の皆さんが泊まりに来て滑っていました。九州出身の方が多かったことを覚えています。正月に実家に帰らず滑って、はやくスキーをマスターしようとがんばっていた人が多かったですね」


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ペンションになる前、「民宿 納田」の頃(昭和50年代)

 
 納田さんの父である又治さんはまた、スキー場誕生に深く関わる仕事をしていました。本家に当たる納田助七さんが営林署から請け負った、スキーコース造成のための伐採を任されたのです。斜面を覆う大きな木々は、豪雪に耐えて曲がりくねりながらも強靱な生命力をもった、ダケカンバが多かったそうです。リフトオープンの前年(1960年)。設計図に合わせて大木を伐りだし、馬でふもとまで下げる作業を、2、3人でひと冬かけて行いました。
その後自分の代になって忠さんは、夏のあいだスキー場の火防線(山火事に備える)づくりに加わりました。林床を筋刈りしてたくさんのトドマツを植えました。現在スキー場のふもと周辺にあるトドマツ林は、こうして作られたものでした。
 
 「子どものころは、冬になるとどこに行くにも長靴スキー。スキーは遊びではなくまず暮らしの道具だった」という納田さん。現在のペンション納田は、3代目忠幸さんの奥さん(康子さん)が英語を話せるために外国人客も訪れ、畑の景観が魅力の、国際色豊かな宿として親しまれています。

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ぺんしょん納田 納田忠さん 平成22年9月30日撮影

※ダケカンバは、白樺と同じカバノキ科カバノキ属の落葉広葉樹。別名、ソウシカンバ。低温や強風・積雪に良く耐え、森林限界地点では強靭にもぐにゅぐにゃと曲がった低木として育つ特徴を持ちます。森林が何かの原因で消滅した後、いち早く生える木である点で白樺と似ています。

第18回 ひらふ、スキーのメッカへ

 1963(昭和38)年2月。札幌市が冬季オリンピック開催地に立候補しました(最初は68年の開催をめざすも仏のグルノーブルに破れ、72年開催に再チャレンジ)。翌年の1月から2月にかけて、オーストリアのインスブルックで開かれた冬季五輪へ、北海道や札幌市、北海道スキー連盟などから視察団が派遣されます。メンバーの中には、倶知安町の高橋清吉町長らも加わっていました。視察団は冬のリゾート地として名高いスイスのサンモリッツに4泊しましたが、この機を活かして高橋町長は、ニセコの絵葉書やバッヂなどを手土産にサンモリッツ市長と接触。姉妹都市提携(1964年12月)への道を開きます。
 昭和初期から、ひらふはしばしば「東洋のサンモリッツ」と形容されていました。きっかけは、1928(昭和3)年に山とスキーを愛する秩父宮殿下が来道して、スキーでニセコアンヌプリなどに登られたこと。ちょうどこの年に日本が初参加したサンモリッツ冬季五輪があり、新聞が、殿下が「極東のサンモリッツ」に、という見出しを掲げたのです。そうして36年後に、倶知安町はサンモリッツとの友好の実現させたのでした。その後はじまった交流では、ドイツ語と英語をよくしたニセコ高原観光の大川仁吉所長も、中心メンバーのひとりとなりました。
 現在は小樽でさわだスポーツ店を経営する澤田勝美さんは、1945(昭和20)年喜茂別町生まれ。ひらふにリフトが開業(1961年)したころ、倶知安農業高校スキー部で活躍していました。自分のような強い選手なら合宿や遠征で、(スキーシーズンの)3学期は2日くらいしか学校に行かなかった、と笑います。
「当時はそれで良かったんです。なにせ農業高校だから自前の米や野菜持参で合宿に行きました。手作りのバターやチーズだって持って行ったから、どこにいっても大歓迎されたもんだ(笑)」
 中学から社会人まで、さまざまなスキー部が、ひらふの山田温泉や鯉川温泉、昆布温泉などにやってきました。1964(昭和39)年の夏に旭ヶ丘スキー場南面に倶知安シャンツェ(60m級)が完成すると、「スキーのメッカひらふ」の知名度はいっそう高まります。
 前回で全国ではじまったスキーブームにふれましたが、ひらふの場合その主役は、一般スキーヤーと並んで選手たちでもありました。澤田さんは倶知安農業高校卒業後、札幌オリンピック(1972年)出場をめざして札幌の木箱メーカー(当時)トーモクのスキー部に入りました。ニセコは、札幌オリンピックに4人ものスキー選手を輩出しましたが、残念ながら澤田さんの出場はかないませんでした。
「五輪のあと会社を辞めて、小樽でスポーツ店をはじめました。札幌オリンピック前後、スキー人口はどんどん増えていきましたね」
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高原第1リフト乗り場に並ぶ人々1964年頃
 少し話を戻しましょう。
 1966(昭和41)年3月。倶知安町議会は、1970(昭和45)年のスキー国体誘致を決議します。リフト開業時の宿泊施設不足や未熟なアクセスや除雪体制のことは先述しましたが、これらの解決のために官民挙げての取り組みが進められました。

第17回 第一次スキーブーム到来!

  さて当時のひらふや倶知安の動きを見てみましょう。
 まずその10年以上前の1950(昭和25)年、山と海が織りなす多彩な自然に恵まれたニセコ周辺は、その価値が認められて道立公園に指定されていました。1958(昭和33)年9月にはニセコ周辺観光開発協会が発足して、国定公園への昇格運動がはじまります。またこの年から、悩まされるばかりだった豪雪を逆手にとってみんなで冬を楽しもうと、「倶知安雪まつり」が町民グランドではじまりました。
 1962(昭和37)年4月、熱心な運動が実り、自然公園審議会がニセコ・積丹・小樽海岸の国定公園化を答申。5月、これを期に後志(しりべし)支庁を中心に、後志観光連絡協議会が発足しました。構成メンバーは、倶知安町、蘭越町、狩太町(現ニセコ町)、岩内町、積丹町、古平町、余市町、寿都町、喜茂別町、小樽市の10市町村。6月には倶知安町役場に、観光課が新設されました。そうして翌63年7月、ニセコ積丹小樽海岸国定公園が誕生します。こうしたあゆみは、観光が、一次産業とならぶ地域の基幹産業として位置づけられていく歴史ともいえるでしょう。
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国定公園指定記念祝賀会
 日本全体をとらえるとこの時代はちょうど、戦後復興の段階を終えて高度経済成長への離陸に成功したころ。日米安全保障条約の締結をめぐる騒乱のあとに発足した池田勇人内閣の目玉は、国民所得倍増計画でした。1964(昭和39)年10月にはアジアで初となるオリンピックが東京で開幕。スキーの世界にも、このころ最初の本格的なブームが訪れます。
 ひらふ開業の年、1961年11月発行の週刊平凡(平凡出版)には、「あなたのスキー準備はできましたか!?」という特集があり、そこでは全国のスキー人口は400〜500万人、とくに最近、サラリーマンやBG(ビジネスガール、OL)の増加が目立つ、という一節があります。山男や学生のものだったスキーが、一般の人々のものになりはじめたのです。
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1961年11月発行週刊平凡(平凡出版)
 また1965年のシーズンを控えて、名門雑誌月刊太陽(平凡社)は、「スキーへの招待」という特集号を編みました。目次には、「アルプス・スキー場の魅力」(ヨーロッパのスキー案内)、「海抜3000mを滑る」(日本アルプスの立山を滑る三浦雄一郎のルポ)といった骨太の企画から、「スキー用品のAからZ」、「母と子のスキースクール」、「ファミリースキーを8ミリで撮る」などの実用情報、さらには「スキーにっぽん発展史」、「スキーを科学する」という啓蒙記事が並んでいます。特集の扉には、「いま、スキー熱は高まるいっぽう。なにが、そんなに人々をとらえるのでしょうか」というフレーズが踊ります。
 スキーをめぐるこうした熱気の中で、ひらふスキー場もしだいに存在感を高めていきました。
写真資料提供:倶知安風土館

第16回 初期のゲレンデ整備

 開業当初のゲレンデはどのようなものだったでしょう。1962(昭和37)年3月の全日本スキー選手権アルペン競技大会では、コース整備や除雪に自衛隊の協力が欠かせなかったと述べました。陸上自衛隊倶知安駐屯部隊が倶知安町に移駐したのは、1955(昭和30)年の秋。自衛隊にとっては雪中訓練の一環としての意味もあり、全日本スキー連盟やニセコスキー連盟、人員や資材の輸送を担った国鉄などとの連携が進められました。

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 ピステン(ゲレンデ整備車)もない時代ですから、大会のコースづくりはすべて人海戦術です。第2リフトの壁も、20人くらいが1チームになってスキーで踏み固めながら降りていきました。ポールは比羅夫駅から会場まで、馬そりで運ばれました。またスタート地点とゴール間の連絡は、無線ではなく有線でした。
 では大会のないふだんのゲレンデはどうだったでしょう。開業時に車両担当として、倶知安ハイヤーからニセコ高原観光に転職した佐竹真一郎さんは、「ゲレンデはスキーヤーによって自然に固められていったものです」と回想します。
「週末だと昼すぎには深雪はだいたいならされていました。ひらふに来る人はうまいスキーヤーが多かったですから、きれいなこぶが自然にいくつもできていきます。第2の壁は、うまい人しか近づきませんでしたね。自然にできるこぶの美しさは当時、八方尾根(長野県)の黒菱(クロビシ)と双璧と言われたものです」
 ゲレンデ整備が機械化されたのは、開業から7年後の1968年。新潟県の大原鉄工所がスイスのメーカーと技術掟携して開発した国産第1号のゲレンデ整備車「ラトラック」が導入されました。
「朝2時とか3時に起きて、リフトが動く前にラトラックで整備をはじめます。60年代に比べると俄然忙しくなってしまった」
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 日本にドイツのピステンブーリーが入ってくるのは1970年代後半。ひらふでは1977年に導入しましたが、道内ではまだ2台しかありませんでした。
 話を開業時にもどしましょう。佐竹さんが続けます。「まだナイターがない時代ですから、リフトは夕方5時で終了。シーズン中は、事務所長以下ほとんどスタッフが泊まり込みます。大川仁吉所長は酒を飲みませんから、やることといえば麻雀しかありません。取引先やマスコミの倶知安支局長など、いろんな人もやってきて、事務所は夜ごと雀荘と化しました。いまでは考えられないでしょうが、ほんとに麻雀しかやることがなかったのです(笑)」

※上段写真は、「降りしきる雪とともに」ニセコ国際ひらふスキー場の30年(1992年刊) より
下段写真は写真資料提供、大川富雄、渡辺淳子各氏提供