NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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倶知安ネイティブのプロ・スノーボーダーを紹介しましょう。

hiromasa_ihara.jpg 僕は1980年に倶知安に生まれました。22才でプロライセンスを取って、現在は雑誌やDVD、イベントなどで活動しています。

 倶知安の子どもはみなそうですが、雪あそびはまずミニスキーやソリから。小学生になってやがてスケートボードに乗るようになって、その延長でスノーボードと出会いました。中3の春、ひらふにあったスノーボードショップでボードを買って、ビデオを見ながら独学で滑りはじめました。それからは両親があきれるくらい熱中していきます。

 次のシーズンの3月、スノーボードジュニア世界選手権が白山一里野温泉スキー場(石川県)で行われ、力試しに挑戦しました。

 ひらふではほとんどできなかったハーフパイプ競技で、親はすごい世界を知ったら熱が冷めるんじゃないか、と思ったようです。でも僕は、「力いっぱいがんばってこい!」と応援してくれたと思った(笑)。そしてこのたった2日間で、自分でも驚くほど成長しました。そして直後に白馬乗鞍であった全日本のユース(ハーフパイプ)で優勝しちゃったんです。

 

 両親もさすがに驚いたようです。そのときのボードは、札幌のスーパーマーケットで買ったもので、いわゆるメーカーものではありませんでした。倶知安農業高校2年生のシーズン、フィンランドで行われたワールドカップにも出場しました。子どものころから運動神経は良い方で、スノーボードのほかにノルディックスキーにも熱中していましたし、高校では野球部のキャプテン。集中力にもちょっと自信がありました。ボードにのめり込む日々が続きました。

 

 でもだんだんと、人と競うだけではつまらないなと思うようになったんです。後輩の中井孝治君が出てきてスノーボード競技はさらに盛り上がっていったけれど、僕はなんだか、ポイントを競うだけでは満足できなくなりました。もっとなんというか、自分を表現する手段としてスノーボードを考えたかった。だからやがて競技の世界から雑誌や映像の世界に舞台を移しました。アメリカで写真家の花坂孝さんと会って意気投合したことも大きかった。やがて、スノーボードはアートなんだ、って確信したのです。つまり山と雪は白いキャンパスで、そこに自分が何を表現するか。その一瞬を切り取ってくれるのが、写真家です。

 

 2008年の暮れ、自分を表現するもうひとつのメディアとして、倶知安の駅前通に「マニャーナカフェ」をオープンさせました。マニャーナとは、スペイン語で「明日」の意味です。

 ボードを脱いでも、ひとりの大人として社会と関わっていく基盤がほしいと思いました。店の内外に、スノーボードの世界観はあえて出していません。仲間うちだけでわいわい盛り上がる店にするよりも、まず地元の人に日常的に通ってもらう店にしたかったから。倶知安ではよく「山の人」「まちの人」という言い方をします。僕はこのカフェで、それぞれの人が気軽に交わってほしい。そのためにも、いまよりさらに、まちの人に山に入ってほしい。そしてここから世界に向けて何かを発信できたら、と思っています。

 

 仕事で海外のいろんなまちを訪ね、たくさんの刺激を受けるたびに、倶知安のことを考えます。21世紀になってオーストラリア系の人びとが移り住むようになり、彼らから刺激を受けて倶知安は少しずつ変わってきた、とも感じています。倶知安で生まれ育った人間として、山で積み重ねられてきた人と雪の歴史を大切に受け継ぎながら、その上で、このまちに何か新たな刺激をもたらしたい。カフェに集まるいろんな人の力を借りながら、僕はこの店でも、自分なりの何かを表現していると言えるかもしれません。

 

 

● 井原寛公さんのブログ
http://iharahiromasa.jugem.jp/

 

●マニャーナカフェ
倶知安町南1条西2丁目4-2
tel : 0136-22-3735
http://lapulife.com/cafebar.html

ブログ更新再開!

new_gondola.jpg2011年12月17日にひらふスキー場(現グラン・ヒラフ)がスキーリフト営業開始50周年を迎えることを記念して開設した当ニセコひらふおもしろ歴史ブログですが、12月10日にヒラフゴンドラがリニューアルオープン、同時に新マウンテンセンターもオープンし、まさに、50周年を期に次のステップを上るひらふの新シーズンの幕開けとなりました。

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2009年の12月にはじまった当ブログも36編を数えるにいたりましたが、この度、その取材を基にし、さらに詳しく纏め上げた単行本「ニセコパウダーヒストリー」が完成いたしました。
当ブログ更新が一時立ち止まったのは、実はこの本の刊行作業に没頭させて頂いておりましたのがその理由です。ブログ更新を待たれていらっしゃいましたファンの方々には深くお詫び申し上げます。
この「ニセコパウダーヒストリー」は、日本語版、英語ダイジェスト版の2種類を発行し、2011年12月1日より発売いたしております。
ホテルニセコアルペンなどグラン・ヒラフ内の売店及び道内主要書店、amazon.co.jpなどでお求めいただけますので是非、お手にして頂ければと思います。

また、ひらふゴンドラ乗り場駅舎1Fには、この本の内容に準じた「ニセコパウダーヒストリー展示室」を開設し、パネル展示と、同名の動画上映も行っております、是非、お立ちよりください。

●開設期間:2011年12月10日〜2012年3月31日
●開設時間:9:00〜16:00
※入室無料

 
 
 
 
_MG_9499.jpg 僕が生まれ育ったのは、神奈川県の大和市。1969(昭和44)年生まれですが、家のまわりにはまだ雑木林や遊べる川があって、小学生のころは友だちとそんな世界をかけずり回っていました。冬はたまに雪がふると、ミニスキー。少年時代のヒーローは、植村直己と星野道夫でした。大自然や冒険的な世界へのあこがれから、北海道にも行ってみたいと思っていました。
 中学高校と夢中になったのは、自転車(ロードバイク)。仲間とあちこちにツーリングに出かけました。特にパスハンティング(峠越え)が好きで、丹沢のヤビツ峠なんかに通ったものです。自転車の魅力は、なんといっても、体ひとつで日常を超えたスピード感が楽しめること。これはスキーとも共通しますね。ダートだってタイヤだけ換えて、ロードタイプにこだわっていました。
 高校卒業後すぐに北海道に来ました。知り合いの伝手(つて)で日高の軽種馬牧場で、1年間働きました。その後、スキー場でバイトをしながらスキーを始めます。初めに行ったのはルスツリゾート。翌年からニセコで働きながら滑るようになります。
 
 そもそもスキーを始めたのは、高校を卒業してから。初滑りをしたのは車山高原(長野県)。とにかく転んでばかりで、楽しむどころでは無かったです。ニセコで働くようになってからもスキーに取り組みますが、なかなか上達もせず楽しめるようになりませんでした。スキーに挫けそうになっていた頃、友達にスノーボードをすすめられて始めます。スキーとは違いすんなりと滑れるようになって行き、すっかりのめり込みました。バブル景気まっ盛りの当時、流行っていたスキーはとにかく派手で、あまりそういった世界に興味を引かれなかった僕にとって、スノーボードは魅力にあふれていました。既成概念に捕われない独創的な楽しさ、パウダースノーに全身を包まれ滑る時の浮遊感。まだ数えられるくらいしかスノーボードをしている人もおらず、午後になってからでも、どこもかしこもノートラック。一日中パウダー三昧でした。
 ひらふで住み込みのバイトを見つけて(齊藤正信さんのBang-Bang)、ひたすら滑りまくったんです。1991年だったと思います。一緒に滑る仲間のほとんどはスキーでした。滑れるようになって行くにつれ、行動範囲が広がって行きますが、スキーヤーについて行く事が出来ません。
 そんなときテレマークスキーを知ったのです。始めて見ると普通のスキーよりも以外とうまく滑れました。斜度の緩いところ、雪の深いところ、林の中、ボードでもがいていたところでも軽々と抜けて行けてビックリしました。雪の上を「歩ける!」、「面白い!」。衝撃でした。
 でもそれは当然のことで、スキーはもともと雪上を移動するために生み出された、生活で使う道具だったんですからね。テレマークは、そんなスキーの原点である歩く機能が残された道具なんです。
新雪の森の中を移動したり山に入るのに、テレマークほどふさわしい道具はありません。スピードも出るし、その軽快さはスノーシューの比ではないんです。テレマークスキーを履けば、縦横無尽に山を動き回れます。ニセコだけに限らず、そもそも日本の冬にとっても合ったスキーだと思います。
 
 
 やればやるほど上達して、滑れば滑るほど虜(とりこ)になった。ちょうど道具もどんどん変化していた時代でした。さらにニセコには、山本由起男さんや深町計彦さんという、日本のテレマークスキーの先頭を切りひらいている人がいました。滑る度に、もっとうまくなりたい! と心から思わされました。そのうちレースにも出るようになって、テレマークひと筋になっていったのです。
 レースは技術の頂点をめざす世界ですから、うまくなる動機づけとしてはこれ以上のものはありません。本州のレースにも出て、コンスタントに上位入賞できるようになりました。
 でも遠征の費用はもちろん自腹。居酒屋のバイトは午後3時くらいにはじまって、最後の片付けから解放されるのは、午前2時くらい。それでも翌朝、リフトが動きはじめる朝一から滑っていました。キツイとかつらいとか、そんなこともちろんまったく思いもしなかった(笑)。もっと滑りたい、もっとうまくなりたい! それだけです。
 ワールドカップや世界選手権など国際レースに出るようにもなったのですが、世界レベルには到底敵いませんでした。
 そんなときです。ナベさん(写真家の渡辺洋一氏)から、「アラスカにいっしょに来ないか」と誘われました。迷わず「行きたい!」と応えました。
 実際行ってみると、全てのスケールがまったくちがい、日本では味わうことの出来ない、冒険的で圧倒的なスリルと興奮がありました。自分が求めるテレマークスキーの世界が見つけられたような気がしました。それは、今の僕につながるスキーとの出会いです。それからアラスカには6度も通いました。
 
 その一方で、海外で滑りニセコに戻る度に、ニセコの素晴らしさを再認識するようになりました。平地の森にも雪が積もり滑れる。世界的に見ると、雪といえばあくまで森林限界を超えたような標高の高い険しい土地に降るもので、日本がとても特殊な環境だということに気付くようになりました。特にニセコは抜群な雪の量と質、滑るのに最適な斜面に恵まれてるのですから。
 
 ニセコという素晴らしい環境があったからこそ、滑るようになり、そしてテレマークスキーにのめり込み、世界が広がって行った。そんな自らを虜にした、ニセコの素晴らしさを伝えて行きたいという思いから、ガイドやスクールの仕事「TOYRU(トイル)」を立ち上げたのは今から11年程前。
 2003年には、ガイドやスクールの事務所を兼ねて、このショップを作りました。たくさんの仲間たちに手伝ってもらって、ひと月で手作りました。
 
 2006年には、ニセコ地域のスキーガイドたちが集まり「ニセコウィンターガイド協会」(NWGA)を作りました。僕が代表を務めています。ニセコに来てくださる方々に安全に楽しんで行ってもらうために、ルールやマナーの普及に取り組みながら、地域との連携を図る活動を行っています。
 
 ニセコは自信をもって、世界中のスキーヤーに自慢できる場所です。ここに根を張って暮らしている僕たちは、ニセコをさらにもっと良くしていきたいと、心から思っています。目先のことを考えるのではなく、本当にここにしかない価値を大切にして育んでいかなくてはなりません。
 ニセコの原点であり最大の財産は、雪と山の魅力です。このことを、これからさらにしっかりと発信していかなければ、と思っています。

 

 

 

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 静岡県(蒲原町)で生まれて立川(東京都)や所沢(埼玉県)で育った僕がはじめてスキーをしたのは、小学校4年生のころ。友だちに誘われて、新潟の六日町に行ったんです。ハッカ高原とミナミ。完全に魅せられてしまいました。そのときから人生が、スキーに取りつかれたといってもいいかもしれません。

 

 スキー板を手にいれて、スキー場通いがはじまります。小学校から、正月を家で家族で過ごしたという記憶がないんです。ふだんの遊び場は武蔵野の雑木林が残る狭山丘陵ですから、雪はごくたまにしか降りません。僕は雪国で育ったスキーヤーではなかった。人工スキー場の狭山スキー場に、自宅から自転車でずいぶん通いました。

 

 そのころからスキー雑誌のアルペン競技の写真を見て、なんてカッコイイ世界があるんだ!と思っていました。そんなときスキーショップで競技スキーの名門チーム「マキシマムスキーチーム」のことを知り、これだっ! と思った。すぐ入らせてもらって、大人に混じって滑るようになりました。

 

 スキー部のある高校に行きたかったけれど、関東にはほとんどありません。だからマキシマムスキーチームでのスキーに集中しました。2年生のときからインターハイ予選で入賞するようになります。そうするとはじめは冷ややかだった高校も応援してくれるようになりました。3年生のときの予選では、手違いで130番スタートになってしまったことに発奮して、最終スタートから2位に入ったりしました。生涯最高記録の128人抜き!(笑)

 

 大学は絶対に北に行こうと考え、岩手県の大学に進学しました。自分でスキー部を立ち上げました。インカレの入賞は果たせなかったけれど、大学時代もすべてスキーが中心。大部分をスキーのためのアルバイトとスキー場ですごしたものです。バックカントリーを滑り出したのも、そのころから。もちろん、勉強もしましたよ(笑)。卒論のテーマは、「過疎の村とスキー場開発」について研究しました。

 

 就職は、少しでもスキーに関係するところに、という選択肢もあったけれど、あえて全く関係ない分野にしました。情報機器メーカーの営業職です。好きなことを仕事にしちゃうと、それはそれでムリが出ると思ったから。
 26歳のときに念願の札幌勤務となります。テイネ、キロロ、ルスツ、ニセコ、旭岳…。とにかく自由になる時間はスキー三昧です。北米にも行きました。この時代に、すっかり、山スキーの虜になりました。デポ旗を打ちながら、春には大雪山や十勝連峰をずいぶん歩きました。弟がカメラマンということもあり、このころから独学で写真を研究しながら、山とスキーを撮りはじめます。大雪山で、サラサラの雪煙が逆行に光る中をスキーヤーがかっ飛んでいくところなんか、撮る方も撮られる方もほんとうに楽しかった。

 

 すばらしい友人もどんどんできていって、結局、転勤の辞令がおりそうになった30歳で会社を辞めました。上司にはもったいないといわれたけれど、1年前に辞表を出して、そのあいだスキーと人生を真剣に考えて、ひらふに移りました。生活のすべての真ん中にスキーを置く。そしたらどんな生き方ができるだろう–。そんなふうにシンプルに考えたんです。収入のあてもないけれど、とにかくひらふに住んで、滑ってみよう、と。1996年でした。

 ふつうならペンションや飲食店でバイトをしながら、となるだろうけれど、自分にはどうもちがうと思った。蓄えも少しあったので、とにかく滑る。それだけ。人生でこんな機会はもうないな、って思いながらね(笑)。
 そのうち、写真で暮らしていくのはどうだ、って考えたのです。カナダでヘリスキーをしたときに写真の撮影サービスがあって、自分の滑りを撮ってもらってとてもうれしかった。そのカメラマンがまた、カッコイイ滑り屋だったんです。あの世界は、「あるゾ」、と思った。

 

 真冬はひらふ、春になるとアラスカへ何年も通いました。植村直己や星野道夫の世界にも興味を持っていたのと、その当時、世界のフリースキーヤーはアラスカをめざしてたんです。カメラマンをはじめたころ、NACのロス・フィンドレーさんに誘われて毎年5月からは、ラフティングの写真を3年間撮ってました。
 ラフティングでも、大自然の中で楽しんでいる写真を撮って渡すと、みんなほんとうに喜んでくれる。会社員時代に大きな商談を決めたときよりも、こっちの方が自分に向いていると思いました(笑)。この仕事の手応えを感じました。

 

 そのころ、全財産を投じて最新のカメラシステムを買い揃えました。これでいよいよ蓄えがなくなったので、もうやるしかない。写真の技術も、現場で必死に高めていった。シーズンが始まると、センターフォーでうまそうな人を見つけて写真を撮らせてもらえますか、と聞きながら撮って、気に入ったら買ってもらう。撮った人はやっぱりみんな喜んでくれたのです。そのうちもっと効率をよくしようと思って、スクールとタイアップさせてもらった。

 

 やがてバックカントリーにも行くようになって、スキーガイドと撮影をセットにした「ニセコウパシ」を立ち上げました。ウパシとは、アイヌ語で雪のことです。
 90年代半ばから、スキーはボードの影響を受けながら、大きく進化していきました。山を滑るのも、昔のように平面をイチ、ニ、イチ、ニと規則正しく滑るのではなく、ファットスキーによってもっとダイナミックに地形と交わる滑りができるようになる。玉井太郎さんなどといっしょに山に入って、新しいスキーの世界を開拓していきました。

 

 ひらふを本拠地にスキー写真を撮ることが僕の暮らしとなり、やがて映像作品にも取り組むようになった。そして毎年、内外の雑誌などの仕事で、世界の山にも通うようになりました。世界のいろんな山を滑って撮る。そうするとニセコの個性がさらによくわかるようになりました。

 

 外から来た僕たちによって、あるいは新しい切り口の写真や映像によって、土地の人やスキー場会社が気づいていなかったひらふの価値や魅力が知られるようになった。生意気に聞こえるかもしれないけれど、それも事実じゃないかな。だからこそみんなで、この山と雪をこれからもっと大切にしなければならない。

 

 羊蹄山を真正面に望むこの場所に住まいと仕事場を建てたのが2005年。スキーと写真でこの土地の魅力を世界に発信すること。それが自分の仕事なんだと自信を持って思う、自分の本拠地です。もちろん仕事には、自分ひとりじゃなく、ニセコの仲間たちとの連携が欠かせない。そして時代をさかのぼって、この山と人間との関わりの歴史を正しく学ぶことも大切。さらに最近は、それをまた若い世代につないでいくのも自分たちの仕事だと思っています。

 

代表作品
写真集  「NISEKOPOWDER」「ひらふニセコ」「雪山を滑る人」
映像作品 「ルーヴェ」シリーズ

新しい滑りの世界へ 掲載

1990年代、欧米の動向にも呼応しながら、ひらふには新しいスキーの潮流が起こります。「新しい滑りの世界へ」では、その中心を担い、現在も最前線で滑り続ける人々をご紹介致します。

 
 
ロス・カーティー夫妻IMG_1631.jpg 僕は1966年にオーストラリア南東部のブリスベンで生まれました。10歳からキャンベラで育って、子どものころからスキーは大好き。でもいちばん熱中したのは、アイスホッケーです。ユースのナショナルチームの副キャプテンに選ばれて、1983年に釧路と苫小牧(ともに北海道)に来ました。はじめての日本です。17歳でした。ゲームの日程が終わると、日本にとても興味があったので、ヒッチハイクで旅をすることにしました。いろんな人に親切にしてもらって、結局九州まで行ったんです。
 それから大学を卒業する年(1989年)に、ニセコのアンヌプリスキー場に来ました。学生時代は国内でスキーパトロールのバイトをしながらスキーを楽しんでいて、ヨーロッパやカナダでも滑りました。今度はちがうところで滑ってみたいと思って、雑誌に出ていたJALのツアー広告を見たんです。来てみて、ほんとにすばらしい雪に感動しました。再びニセコに来ようと思い、日本語の勉強をするために、そのまま、夏場は札幌でホームステイもしました。このお宅の方々とは、今でもお付き合いがあります。そこのお母さんは、サホロでのパトロールの仕事も探してくれたので、年末から年明けの3月までそちらに滞在することもできました。
 
 大学を出ると、一応向こうで就職しました。コンピュータの会社です。でも次の年はひらふに行こうと思って、前もって履歴書をサンモリッツリフトさんに送って、パトロールの仕事につくことができました。そのとき、ホテルニセコアルペンのショップでアルバイトをしていたのが、やがて奥さんになる邦代です。
 
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ロス/邦代は東京でOLをしていたんだよね。
邦代/アパレルメーカーの営業補佐の仕事。東京のデパートをあちこちまわっていました。仲の良い友だち3人で、どこか行きたいなぁなんて言っていて、海外旅行の計画を立てていたんだけれど、結局ニセコに来てアルペンショップでアルバイトを始めたの。私は二十歳のころ白雲荘(ひらふ)に泊まっていて、ひらふが大好きだったし。
ロス/当時はコンビニなんてないし、ショップらしいショップといえばアルペンしかなかったから、チョコレートやコーラをよく買いに行ってました。
 
邦代/ロスは待機することが苦手だったので、よくゲレンデ中を滑りまくっていました、合間によくお店に寄ってくれました。初めてのデートはアルペンの従業員食堂でした、2回目は今は無き、ハンクの家・・懐かしいです・・。日本語が殆ど話せないロスと、英語の全く話せない私たちには英和辞書は必要不可欠!!ロスは日本語を一生懸命勉強していました。
ロス/おかげで僕たちは結婚できた!(笑)
邦代/次の年もその次も、私たちは冬のひらふで働きながら、滑りました。
カーティ/僕は居酒屋や、渡辺淳子さんの「グランビュンデン」で働きました。「グラビュン」では、ロス・フィンドレーさんも働いていた。
 
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 やがて邦代とふたりで、オーストラリアのスノーボードを日本に輸出するビジネスをはじめました。全国のボードショップをふたりで営業にまわったんです。たいへんだったけど、円高だったのでうまくいきました。でもやがて円が弱くなって、利益が上がらなくなってしまった。そこでニセコでスノーボードのショップとスクールをはじめました。オーストラリアと日本のツアー企画などもね。
 94年にNOASC(Niseko Outdoor Adventure Sports Company)を創業して(98年に株式会社に)、バックカントリーのツアーや、夏のラフティング、カヤック、アドベンチャーキャンプなどへ、業務を広げていったのです。8月のじゃが祭り(倶知安町)では旭ケ丘公園でクレーンを使ってバンジージャンプをやったのですが、これは話題のわりには採算割れだった(笑)。
 95年ころから、僕やロス・フィンドレーさんのスポーツビジネス、ピーター・マーフィーさんのツアービジネスなど、ひらふのオースラリア人の仕事が注目を集めるようになりました。それからニセコのパウダースノーが、オーストラリアや東アジアの人たちに急速に知られるようになり、それがまた日本の中で大きな話題となっていきます。
 
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ロス/1996年に僕たちは晴れて結婚できました。
邦代/ロスは私の両親を納得させるために、近所のおばちゃんたちから仲良くしていったのよね(笑)。その行動力と誰とでもすぐ仲良くなれる人柄に、両親も反対しようがなかった。
ロス/気がついたら僕たちはいつのまにか3人の子の親になっていた。毎年オーストラリアに何ヶ月か暮らして、子どもたちがオーストラリアと日本の文化の両方を身につけることができているのは、よかったと思う。ひらふでは、3人とも樺山分校に通っている。
邦代/ロスは子どもが大好きだから、ほかの子どもたちをまじえて、スイミングやアウトドア活動にもとても熱心に取り組んでいますね。いまはスイミングとラグビークラブに一生懸命。
ロス/オーストラリアに比べると日本でラグビーはマイナースポーツだけど、いろんな人たちと力を合わせて、これから、ひらふの夏はラグビーだ、って思われるくらいにしていきたい。去年はここにオールジャパンの合宿も来たしね。子どもたちにラグビーの素晴らしさを教えたいんだ。スキーやボードは滑る人だけが楽しいけれど、ラグビーなどのチームスポーツは、プレイヤーとたくさんの観客が一体となって楽しめることがいいと思う。
邦代/学校やスポーツを通して、私たちは子どもたちがいる意味をあらためて実感することも多いよね。子どもを通して、知らない大人同士がすぐ友だちになれる。学校の行事やPTAに関わることで、地域との絆がさらに強くなっていくから。
 
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 21世紀に入って、ツアー会社と、不動産会社も作りました。NOASCと合わせて、ソフトとハードの両面でニセコを楽しむビジネスの仕組みを広げたのです。これからは、オーストラリアをはじめとした英語圏の人たちだけじゃなく、アジアの人たちをもっとニセコに呼び込みたい。そうした気運を盛り上げるためには、倶知安町とかニセコ町、蘭越町といった枠組みを超えて、みんながひとつになっていろんなことをやればいいと思う。
 僕がここでビジネスをする理由というか原点は、スポーツと自然です。つまりビジネスのための、利益をかせぐだけのビジネスではない、っていうこと。北海道のように移民が新しくまちを作ってきたオーストラリアには、鉱山とかリゾートとか、産業に直結して発展してきたまちたくさんあります。スポーツと自然をリソースとして生まれたまちもね。倶知安やニセコも、豊かな農業を基盤にしながら、スポーツと自然によって日本のどこにもないまちが、これからさらにできていくんじゃないかな。そのために僕はがんばりたいし、このまちがどうなっていくのかを見続けることが、とても楽しみなんです。

 
 
ロス・フィンドレー夫妻_MG_9545.jpgロス/僕がはじめて陽子と会ったのは、1991年の2月。ひらふのゲレンデの中にある望羊荘だったね。
陽子/私は当時、ひらふのロッヂロンドさんに居候しながら、選手としてモーグルに夢中でした。ある日望羊荘の食堂の隅っこに、たくあんをかじりながらご飯を食べているロスがいました。なんて貧乏そうな「外人」かと思って、思わず話しかけたの(笑)。
ロス/だってライスは200円でたくあんはタダだったからね。そのときの陽子のまぶしいくらいのスマイルが、僕を結局北海道に住まわせたんだと思う。それから僕たちはずっといっしょにいる。
陽子/ロスはそのころ、テイネ(札幌)の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」でインストラクターをしていました。私は、夏は札幌に暮らして、冬はひらふをベースにモーグルの大会を転戦していました。「夏稼いで冬滑る」。そのためにふたりで協力しよう! と思いが一致して、やがてふたりで札幌でのバイトを見つけて、いっしょに暮らすようになりました。でも母からは、結婚するなら3年はいっしょに暮らしてみて、本当にわかり合ってからにした方がいいんじゃない? と言われました。ロスがはじめて日本に来たころは、日本の景気もとても良かった時代だね。
ロス/そう。オーストラリアでは、日本の留学生がワーキングホリデーを使ってたくさん働いていました。彼らの明るくてまじめな人柄を見て日本人には親しみがあったし、日本の経済もとても好調だったので、一度来てみたかったんだよ。
 
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 僕は1964年にオーストラリアのメルボルンに生まれ、シドニーで育ちました。キャンベラ大学でスポーツ学や経営学を学んで、86年に卒業。子どものころからいろんなスポーツをして、空手もやりましたよ。中でもスキーが大好きで、身につけた技術を活かして、アメリカとスイスでインストラクターをしました。学生時代から、スポーツを軸にして自分の人生を組み立てていこう、と思っていたんです。
 はじめて日本に来たのは1989年。ワーキングホリディビザを使って、札幌の手稲の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」で、2年ほどインストラクターをしました。それからひらふを知って、この山と雪に夢中になった。ここに住みたいと思って、91年の暮れから、冬は渡辺淳子さんのグラウビュンデンの支店のグラウビュンデンサンズで、春からは北沢建設でアルバイトをはじめたんです。
 
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陽子/恩人となってくださったのが、倶知安の北沢建設の北沢輝義社長ですね。
ロス/そうです。樺山(倶知安町)でログハウスを建てていました。資材の多くが輸入品だったので、英語の説明書に何が書いてあるかを訳してくれないか、と頼まれたんです。そうして建設現場で働くことになり、大工の技術を学ぶこともできました。同時に、日本語もずいぶん上達したよ。
陽子/はじめのころは、「お~いゲンノ取ってくれ」、なんて言われてもチンプンカンプンだったけどね(笑)。
ロス/そうね(笑)。94年の秋に、山田神社で神前結婚式を挙げたんです。オーストラリアから両親と兄弟を呼んで。
陽子/それから、ひらふで夏のビジネスをしようとふたりで考えて、95年の春、NAC(ニセコアドベンチャーセンター)を立ち上げました。メインの事業は、尻別川でのラフティング。ラフティング? 何それ? という時代でしたけれど(笑)。
 
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 ニセコの冬は文句なくすばらしくて、国の内外からいろんな人々がやってくる。でも夏は人の流れがパタッと止まっていました。とてももったない。だから夏のニセコの魅力をうまく伝えたいと思って、尻別川に目をつけました。いつも水量が豊富で、ニセコの自然が満喫できる清流です。ニュージーランドなどで盛んなラフティングがここでできないか、と考えたのです。陽子とカヤックで何度も下ってみて、これならいける! と確信しました。北海道ではじめてでした。
 といってもはじめての人がいきなりカヤックはあつかえないので、ゴムボートを使うことにしました。お金がないので、最初は一艘だけ。パドルは自作です。農家で使う鍬(くわ)の棒を買って、ブレードは廃材で作りました。でもこれがよく折れちゃう(笑)。毎日修理や補充が欠かせません。ボートも、3回目に底に大穴が空いてしまいました。なんとか修理して営業を続けました。
 お客さんには、ドライスーツを着てもらうことにしました。これはラフティングでは、世界で最初かもしれません。ドライスーツだから濡れたり寒さの心配がなくて、グンと人気が出たのです。
 最初のころ、PRのために札幌に行ってふたりでビラをまいたりしましたね。ちょうど川下りが重要なモチーフになっている「激流」という映画(主演:メリル・ストリープ)が封切られて、その映画館の前とかで。そうするうちにしだいに口コミやインターネットで広まってお客さんが増えて、2年目からは軌道に乗ったんです。
 
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ロス/本州からの修学旅行にラフティング体験を取り入れる学校も増えて、売り上げは順調に伸びていきました。97年に僕は、日本リバーガイド協会の設立に関わりました。そしてこの年の春、大滝村の大滝中学校が廃校になって、その体育館の部材を払い下げてもらうことができた。これを使って大きな社屋を建てようと思ったんです。ラフティングやトレッキングツアーの受付カウンターや、アウトドアグッズのショップ、そしてカフェ。さらにクライミングウォールを作ることにしました。営業を続けながらの手作りなのでずいぶん時間がかかってしまったのですが、1998年の12月にオープンできました。
陽子/ログハウスの建設現場で大工の技術を身につけたことが、とても役に立ったね。それと、建設工事とその後の営業でも、ひらふに暮らしたいと考えていた若い人たちに仕事場を提供できたことも、よかったと思う。
ロス/そうだね。少し前の僕たちみたいな人がたくさんいたし、その人たちの中にはいま、ラフティングやガイドなど、ひらふでいろんなビジネスをしている人がたくさんいる。みんなとにかくこの土地が好きで移り住んだ人たちだから、そういう人がたくさんいるまちって、これからさらに面白くなっていくパワーを秘めていると思う。
 
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 2003年、僕は国土交通省の「観光カリスマ百選」に外国人として初めて選んでもらいました。NACを立ち上げてから、冬だけじゃない夏のニセコの魅力を新しく掘り下げて発信する活動が評価されたようです。いまのニセコなら、夏に一週間いても、毎日いろんなことがたっぷり楽しめます。子どももファミリーも、そして若者や大人のグループも、スキーやスノーボードだけじゃないニセコの大自然の魅力を、もっともっと知ってほしい。陽子とひらふに暮らし、4人の子どもを育てながら、僕はいつもそう考えてきました。
 世界の中で、まず自分のいるところをさらにもっと良いところにしていきたい–。それはみんなが持っている自然な気持ちだと思う。僕も陽子も、たくさんの人たちと刺激し合い連携しながら、いつもそんな思いを大切にしています。

ひらふを動かす新しい力といえるのが、90年代にオーストラリアから移り住んだ人びとです。「ひらふとオーストラリアの出会い」では、その代表的な人々へのインタビューを掲載いたします。

 
 
新谷暁男さん_MG_9265.JPGのサムネール画像 私は札幌生まれ(1947年)で高校生のときに本格的に山に魅せられました。大学(酪農学園大学)ではもちろん山岳部。厳冬期の十勝大雪や知床連峰の縦走、利尻山など、そのころはまず北海道の山ととことん向き合いました。大学を出ると、農業調査員として3年間ネパールに行くチャンスがあり、ヒマラヤへの思いと準備を温めます。そして生活の基盤を作るために、モイワスキー場(ニセコ町)にロッヂ・ウッドペッカーズを開業しました。1975(昭和50)年のことです。
 70年代後半からパキスタンやヒマラヤ、中国への遠征を重ねて、86年のネパールヒマラヤ、チャムラン峯(7380m)登山隊では隊長を務めます。これらの自分が組み立てる山行は、すべて自前が基本。それが信条なんです。そのあとアルゼンチンのアコンカグア峰(6980m)三浦雄一郎登山隊の支援隊長となりました。
 また80年代半ば、パタゴニア社の創設者イヴォン・シェイナードさんと出会ったことがきっかけでシーカヤックの世界に入り、その後積丹や知床、千島、アリューシャン、南米ビーグル水道やホーン岬などを漕破しました(南米は関野吉春グレートジャーニーのサポート)。そのころから、夏は海(シーカヤック・ガイド)、冬は山という生活を続けています。
 知床では、海岸でのたき火の規制をめぐって多くの人と議論を重ねて、たき火の技術やマナーを整備してきました。あそこでたき火ができないと、人は死にます。では自然の持続的な営みにダメージを与えないためにどんなたき火をすれば良いのか、そこを考えながら、行政や関係機関に働きかけていったわけです。
 
 ひらふには、中学生のころから来ていました。ちょうどリフトができたころですが、リフトには乗らず(笑)、例えば1000m台地から頂上を経て五色温泉に下りて、モイワから昆布温泉へ、といったコースを楽しんでいました。
 
 さて、雪崩をめぐる「ニセコルール」について話しましょう。これはスキー場管理区域の外を滑走する人たちと、すべてのスキー場利用者の安全のために、2001年に作られた公式ルールです。制定に関わったのは、「ニセコアンヌプリ地区なだれ事故防止対策協議会」、「ニセコスキー場安全利用対策連絡協議会」、「ニセコフリーパスポート協議会」、「後志地方山岳遭難防止対策協議会」。
 私は25年前くらいから、山でスキー事故が起きると捜索の指揮にかり出されるようになりました。当時のニセコのバックカントリーは、毎年死亡事故が起きる、日本でいちばん雪崩事故の多いエリアだった。これをなんとか防ぎたい。正確なデータをもとに、危ない日には「今日お天気はこうで、このへんが危ないから注意しろ」と知らせたいと考えたのです。
 自分の経験からも、雪崩は吹雪の最中かおさまった直後に起きると知っていました。意外に思われるかもしれませんが、データで見てもそうなのです。まずこのことを正しく伝えたい。そして境界ロープにいくつかゲートを設けて、パトロールを配置する。毎日の山の状況はインターネットで発信して、ゲートからゲレンデの外に出て行く人たちに、パトロールがそれを再確認していく。そしてもちろん、いつも危険だから行ってはいけないエリアのことや、万一事故が起きた場合の救助費用のことなども前もって情報を提供していく。
 予報のためには、山頂の気温や風の情報などを正確に公表する必要がありますから、そのために作られたのが、ニセコ雪崩事故防止協議会と、そこが管轄するニセコ雪崩調査所です。調査所では毎日定時にインターネットで、気象データと予報を日本語と英語で発信しています。
 
 しかしリフト会社や行政は当初、そもそもゲレンデの外に行くのが悪い。ルールを作ることは、外に行くことを奨励するから認められない。事故があったら誰が責任をとるんだ、という姿勢でした。管理側からすればまあ当然でしょう。でも責任論を語っても事故はなくならない。ニセコの世界に通じる大きな魅力は、降りしきる新雪の中を自由に滑られること。国有林を管理する倶知安の後志森林管理署なども交えて、話し合いを続けました。
 ひらふさんはわりと早い時期に、そこまでしても滑りたいという人たちがいる現実があるのだから、彼らの安全を守ることが重要ではないか、と考えてくれるようになった。そのことがビジネスにとってもメリットがあるわけです。そこには同時に我々からの、ツアーガイドたち(NWGA・ニセコウィンターガイド協会)や、自分の遊びたい気持ちを優先しがちなスキーヤーやボーダーたちへの働きかけがありました。特に「滑らせろ滑らせろ」という、若い連中の突き上げに対してね。ひとりの勝手な行動が、みんなの自由を奪っていくことにつながるんだゾ、と。そうして、「ルールは自由を守るためにあるんだ」ということ、そのことを多くの人が実感としてわかっていったのです。
 結局10年かけて、関係機関は私たちのやり方を「追認」してくれるようになった。それが現在の「ニセコルール」です。ここまで来るのに10年かかった。でもそのプロセス自体が、我々の財産ではないかと思います。えらい先生や役人がみんなをリードするのではなく、そうした権威に頼らず、逆に権威を下から巻き込んで、自前で作ったルールですから。
 
 ニセコのすばらしさは、まだまだ人に十分には伝わっていないと思う。外国人に対してはなおのこと。そしてニセコ自体も、我々の手と知恵でまだまだすばらしくなっていける。私はそう確信しています。
 
 
新谷暁生さん/ロッジ・ウッドペッカーズオーナー・ニセコ雪崩事故防止協議会ニセコ雪崩調査所所長・シーカヤックガイド

 
 
山本由紀男さんMG_9363.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像 1948(昭和23)年に岩内町で生まれました。親父が教員で、やがて曽我小学校(ニセコ町)の校長になったので、一家でニセコ(当時は狩太町)に移ります。
 自分はネィティブのスキーヤーだと思っています。意識するしないに関わらず、スキーがいつも暮らしの中にあった。小学生のころ、なにしろ半年近くが雪のある暮らしですから、冬の移動手段はみんなスキーでした。道に除雪なんか入りませんから、生活道路を歩くとしたら、馬そりが作ったわだちをなぞるしかありません。狩太駅の裏にあった雪印の工場に、酪農家が生乳を納入する馬橇です。だから隣の家に行くのもスキー。郵便配達もスキーをはいて郵便を届けていましたね。スキーは遊びというよりは日常の道具だった。
 しかし一方で、もちろん遊びでもあった(笑)。親父がスキー気違いで、体ができて体力がついてくると、冬はよく山スキーに連れて行ってもらいました。(ちなみに夏は、行き帰りとも歩きで曽我〔ニセコ町〕から岩内の海まで行ったりしました)
 父は戦前はクロスカントリー・スキーの選手で、戦後は教則本を何冊か書いています。当時のスキーは今とはまったくちがうカンダハー。リフトができる(1961年)のずっと前から、ここはスキーのメッカでした。道内はもちろん、本州からもいろんな人たちが滑りに来ていた。ニセコの山とスキーが本当に好きな人々です。
 
 50年前にリフトが作られスキー場ができたころ、多くの人が全日本選手権や国体などの競技大会の誘致に力を注ぎました。当時の全日本とか国体は、今とは比較にならないくらい、開催地にとって意義や魅力がありました。よそから人がどっと来て有名になれる。だから懸命に誘致に取り組んだのです。でも、リフトが付いてゲレンデができると、スキーを楽しむエリアが小さく限定されるようになってしまった。その前は技術さえあれば山のどこだって自由に滑ることができました。いまは、今日は深雪で滑られるかどうかなんて言ってますが、昔は滑るところには深雪しかなかった(笑)。でもだんだん、ゲレンデの枠の外に出てはダメ、ということになっていく。考えてみればおかしな話です。
 といっても、技術もない人がバックカントリーに出て行っては危険です。事実80年代以降いろいろな事故も起こってしまっていたので、スキー場側などから規制が強まった時期もあります。そのことを心配した有志が「ニセコルール」を作りました。「ニセコルール」の取り組みは、事故を心配して規制する側と滑り手の双方が協調を模索しながら、バックカントリーでより安全に楽しめることを目指しているのだと思います。ルールを守ることによって、本来自由であったはずのバックカントリーでの活動が戻ってくればいいと思います。
 
 1976(昭和51)年にひらふで「ゆきやま山荘」をはじめて、15年ほど営業しました。春になってお客さんたちとリフトのない斜面や原野で遊ぶとき、もっと自由に動きやすいスキーができないかと考えていて、当時は誰もやっていなかったテレマークスキーをやってみようと思いました。親父が残した本棚に戦前のテレマーク教則本があって、それを改めて研究して、海外の動向も学びながら、手探りでマスターしていったのです。ご承知のようにテレマークスキーとは、ノルウェーのテレマーク(テルマルク)地方で発達したスキーで、アルペンスキーやクロスカントリースキーの原型ともいえるもの。「登る、歩く、滑る」の3つを軽快にこなせる、山の移動手段としては最適のスキーです。やりはじめるとスキーの世界がまたひとつ大きく広がって、夢中になりました。仲間も次第に増えていって、彼らがまた、日本各地にテレマークを広めていきました。
 
 ニセコの自然の中にお客さんを案内するのには、クロスカントリースキーもとても有効です。特に雪がしまって天気が良くなる春先は最高。僕は子どものころから楽しんできたことですが、野鳥を見たり、日なたのフキノトウやドンガイ(イタドリ)の芽を採ったり。沼でユスリカのイミテーションフライをエサにオショロコマを釣ったり。景色だけじゃなくて、動くもの、生きたものを相手にすると自然はもっともっとスゴイ世界を見せてくれる。ゲレンデをサッと滑っただけで帰ってしまうのじゃ、もったいないですよ。
 ひらふをベースにしたそういう遊びを、もっとたくさんの人が味わうようになったら、ニセコもさらに良い方向に変わっていくと思う。もちろん、ルールやマナーをしっかり守ることは必要。自然を深く楽しむために、土地のガイドといっしょに山に入るという遊び方が、もっとふつうになれば良いのです。ガイドの価値や役割を、さらに多くの人に知ってほしい。いわばそういう文化を根気よく育てていかなければ、と思っています。
 
ニセコは、さほど広くはないこのエリアに、とても多彩な自然があります。羊蹄山、尻別川、ニセコアンヌプリ、そして北に山を下りれば日本海–。僕は、体も心も、この風土に育てられました。この土地で楽しくてすばらしい体験をたくさんしてきて、これからもたくさんの人と、そうした時間を共にしたい。
 ひらふスキー場50周年を機に何かを考え直したり、新しくはじめることがあるとすれば、僕は発想を大きく変えることだと思う。つまり、ただ一方的に山を利用したり消費することはもうやめよう。今までこんなにたくさんいろんなことを楽しませてくれた山に対して、我々が何かを返していくことはできないだろうか、と考えてみる。そうすると、山とのつきあいも変わっていくでしょう。じゃあ具体的に何ができるのか–。我々は次の時代のために、それをみんなで考えて、実行していく時期に来ているんだと思っています。
 
山本由紀男さん/日本テレマークスキー協会(TAJ)名誉会長・元プロスキーヤー・元 SIA公認ニセコプロ・スキースクール校長