NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第45回 ひらふを彩るストーリー8
合板工場誘致からはじまった、「スキーのまち」。
元 倶知安町長  宮下 雄一郎さん

 

 

 

1961(昭和36)年12月のリフト開業に、倶知安町役場から深く関わったのが、のち1983年から3期町長を務めた宮下雄一郎さん。リフトは当初、スキー用ではなく刈り取ったチシマザサの搬出用に計画されたことは、このシリーズ前半で述べました。当時のお話をうかがいましょう。

 

 

yuitiro_miyasita.jpg 1959(昭和34)年1月、その前に後志支庁長を務めていた高橋清吉さんが倶知安町長に初当選しました。新町長は企業誘致と観光振興を軸にした新たなまちづくりを掲げて、総務課に企画室という部署を作りました。初代の室長が、34歳だった私です。町長はトップセールスで、チシマザサを原料とする合板工場(北海道ファイバーボード)の誘致に動きましたが、私はそのお供をしました。一方で、岩内町も誘致をめざしていました。

 

 役場内には、その数年前にビート工場の誘致に契約寸前でご破算を食らった悔しさがありました。関係者はこのとき、倶知安には工場がこないというジンクスがある、などと噂したものです。そこで十分作戦を練ったのです。ササは岩内より倶知安側の方が資源量があり、搬出にも都合が良い。用地も胆振線六郷駅近くの町有地を提供する。そうした条件をもって東京丸の内の日東商船(合板工場の親会社)の本社に行きました。そのとき生まれてはじめて飛行機に乗りました。プロペラ機で、新聞に『昨日の飛行機搭乗者』という名簿が載った時代です(笑)」
 奮闘のかいあって、倶知安は工場誘致に成功を収めました。役場内には「工場建設本部」が設けられ、高橋町長がじきじきに本部長に就任します。

 

 


 

 合板工場用の索道がスキーリフトに替わったいきさつはすでにこの連載にありますから、そちらに譲りましょう(第11回第12回「はじまりはファイバーボード」)。宮下さんは、ひらふにリフトを誕生させるきっかけともなった第40回全日本スキー選手権アルペン競技会の裏方としても最前線にいました(大会については、連載第14回「ひらふで全日本スキー選手権開かれる」)。

 


 

 

 全日本選手権は、高松宮の臨席をあおいだ、まちはじまって以来の大イベントです。本部長には高橋清吉町長が就きました。除雪(比羅夫駅〜スキー場間4キロなど)やコースづくりで全面的に協力を願ったのは、倶知安駐屯地の自衛隊員の皆さん。彼らは滑降コースのゴール下にテント村を作って野営しました。運営の現場は、倶知安スキー連盟の中心にいた国鉄や後志支庁の職員たちでした。しかしなにしろ、国道の除雪がはじまったのがその2年前にすぎず、駐車場も雪を除くのではなく踏み固めるだけ。私は道路のことや電話、電気敷設の交渉にてんてこ舞いで、とにかくすべて、役場にお手本がない事態でした。倶知安市街で冬期間に車が安定して走ることができたのは、このときからだったのです。

 

 大会が終わった年の春、倶知安、狩太(現ニセコ)、蘭越の各町長を中心に、ニセコ・積丹エリアの国定公園化をめざす運動がはじまります。これを期に後志支庁を中心に、後志観光連絡協議会が発足しました。構成メンバーは、倶知安町、蘭越町、狩太町、岩内町、積丹町、古平町、余市町、寿都町、喜茂別町、小樽市の10市町村。そうして翌63年7月、ニセコ積丹小樽海岸国定公園が誕生したのです。倶知安町役場では、観光係が観光課へと格上げされ、企画室長だった私が初代課長に就きました。
 いまふりかえるとこの頃に、観光が一次産業とならぶ地域の基幹産業として位置づけられていくはじまりがあったのですね。

 

 思い出深い出来事としてはほかに、1970年と86年、2回のスキー国体開催があります。とくに86年のときは町長就任1期目でもあり、横路孝弘北海道知事(大会実行委員会会長)のもとで実行委員会副委員長を務めました。約2千人の選手・関係者に対するまちをあげたもてなしは、各界から評価をいただきました。
 人口2万人規模のまちが国体を2度開催しえたことは、関係者と町民に大きな自信と誇りをもたらしました。