NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第43回 ひらふを彩るストーリー6
ウィスラーで、スキーの新しい世界観と出会う。
Niseko343  代表取締役 小田島 勝彦さん

 

 

 

スノーボードに加えて、1990年代のひらふで重要な動きがもうひとつありました。そう、フリースタイルスキーのモーグルです。その源流にいるひとり、アウトドアセレクトショップNiseko343を経営する小田島勝彦さんが語ります。

 

 

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 私は1951年に札幌で生まれました。物心つくころには、冬が来ると豊平川の土手でジャンプの真似事をしたりして遊んでいました。青春は、中学、高校、大学と、アルペンスキーひと筋だったのです。札幌オリンピック(1972年)をはさむ北海学園大学スキー部での4年間は、シーズンごとにひらふ坂のさかえ旅館での合宿が恒例でした。ほかの宿も、全国の大学や有名企業の合宿で大にぎわいでしたね。北海道の企業では、国鉄や電電公社などとゲレンデでよく顔を合わせていました。

 

 練習の甲斐もあり、全道大会で入賞するようになりました。そして旭川で開かれた北海道学生選手権(北海道インカレ)での出会いがのちの結婚にもつながります。しかし大学を卒業するとき、私のスキーはまだその先を求めていました。そこで卒業しても就職せずに、アルバイトをしながら旅行資金を蓄えました。そうして、スキーへの自分なりのけじめをつけようと、ひとりでウィスラー(カナダ)に行ったのです。飛び込みでしたが3カ月ほどスキーパトロールの仕事につくこともできて、そこで全く新しいスキーと出会いました。自分のスキー観が大きく変わる体験でした。

 

 そこで見たのは、パウダースノーを思いのままに滑るフリースタイルスキーで、後にその種のスキーをテーマにした映画の題名からホットドッグと呼ばれるスキーだったり、新雪が降ったら楽しむパウダースキーでした。それまで日本で追求されていた、厳密なフォームでひたすらタイムや精度を競うといったスキーとはまるでちがう滑りに、目を開かれました。
 こんなに自由なスキーがあるのかという驚きと、でも、そうだ自分はこんなスキーがしたかったんだ、という気づきです。帰国すると後のテイネハイランド(札幌)に勤めたあと1979年、ひらふでペンションの売り物件を買ってロッジ・ロンドを開業しました。

 

 1992年のアルベールビルオリンピック(フランス)に、日本人初のモーグル代表となった山崎修 君は、うちに数シーズン居候(ペンションを手伝いながらスキーに打ち込む生活)をしていました。やがてモーグルの宿というイメージができて、たくさんの選手たちがやってきます。のちにロス・フィンドレーさんと結婚する陽子さんも、そんな仲間でしたね。「*1ニセコB&J」というモーグルチームを作りました。
 当時モーグルはゼロからの出発に近かったので、自分もよけい夢中になることができたのだと思います。ここから全国に、新しいスキーを広げていこう、と。妻を含めて居候スタッフの10人近くが、ナショナルチームのメンバーになりました。
 そのころは、とにかくスキーに打ち込むためにペンションの居候をする若者がたくさんいて、受け入れる側も彼らを積極的に応援していたものです。

 

*1 出身者に吉川空(ナショナルチームw指定)、現在も北海道スキー連盟の強化指定選手が5人在籍

 

 


 

 小田島さんたちは91年4月、ひらふではじめてのモーグルスキー大会「スーパーバンプスニセコCUP」を開催。春スキーを掘り起こす狙いもあったこの初回大会の女子で優勝したのは、のちに長野五輪(98年)金メダリストとなる、中学1年生の里谷多英さん。男子はNiseko343店長の伊藤篤 君(元モーグルナショナルチーム、コーチ)でした。さらにこの大会から、ソルトレークオリンピック(2002年)に出場した中元勝也などが巣立っていきました。

 


 

 

 でもいまと全くちがって80年代のモーグルは、スキー場に理解されず苦労もありました。端的にいえばピステンとの戦い(笑)。スキー場側は、せっかくいいこぶができでも、パトロールがこれを見つけるとすぐ削りにかかる。いたちごっこの連続だったんです。万全の協力をいただいている現在では考えられない、なつかしい話です。

 

●Niseko343
倶知安町山田170
TEL:0136-23-0343
http://www.niseko343.com