NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第41回 ひらふを彩るストーリー4
スキー好きのあまり、スキー宿の嫁に。
白雲荘・浦野 妙子さん

 

 

 

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 函館で生まれ育った私は、子どものころからスポーツや自然が大好きでした。高校の部活は山岳部で、テニスにも熱中しました。函館ドック(現・函館どつく)に就職すると、仲間とテニス部を作りました。スキーを本格的にはじめたのは、就職してから。当時のドックは時代の先頭を走るようなたいへん勢いのある会社で、仕事以外でも多才な人がたくさんいました。その中でスキー部も、国体選手がいるくらい盛り上がっていたのです。
 はじめは部の友人から誘われて軽い気持ちで横津岳に行ったのですが、思ったよりうまく滑れなくて、ちょっとくやしい思いをしました。まだリフトがない時代ですから、シールをつけて登って、思い思いに滑り降ります。でもこうしてマイペースで楽しめるのが、自分に向いていると思いました。函館近郊では、ニヤマ(七飯町)にもよく行きました。シーズンのスタートは、中山峠。当時は11月の頭から滑ることができました。

 

 当時リフトができたばかりのニセコはあこがれの地で、スキー部では毎年滑りに行っていましたが、最初のころ、お前はまだ無理だ、と連れて行ってもらえません。3年目でようやく行けました。でも第2の壁で大転倒したことをおぼえています。それからというもの、仲間たちとのひらふ通いがはじまりました。
 函館を夜中の汽車で出て、狩太(現・ニセコ)駅か倶知安駅で降りて、比羅夫駅で停まる各駅停車に乗り換えます。駅からスキー場行きのバスが出るのが8時。その2時間以上前に着いてしまうので、着くとすぐ歩き出しました。駅でただ待っているより、少しでも早く滑りたいですからね。よくやったなと思いますが、女性でも自分の道具を自分で背負って歩けなければ、スキーはできなかったのです。帰りの汽車は夕方の4時くらい。スキー場から駅までは、スキーと歩きです。

 

 夏や秋には羊蹄山やニセコの縦走を楽しみました。ひと汗流すのは、山田温泉。女友だちと2人で羊蹄山に登り、その足で山田温泉に行こうとしたのですが、途中で暗くなったので温泉の灯りをさがしてようやくたどり着いた、なんていうこともありました。そんなときでも畳の上ではなく、温泉の前にテントを張って寝ました。私たちにとっては、それがふつうだったのです

 

 さて冬の私のニセコ通い。山田温泉や望羊荘が常宿でしたが、地元の人との出会いや交流もはじまって、そんな中でのちに結婚する浦野と出会いました。浦野の家はひらふの農家で、スキー場のリフト設置に合わせて開業した7軒の民宿のうちの一軒でした。「民宿浦野」という名前ではじめて、1964年からは「白雲荘」となります。出会ってから結婚してスキー宿の嫁になるまで、10年以上もかかってしまいましたが、その間スキーやスキー場のことをもっと知りたくて、いろいろな土地に出かけていたのです。1971(昭和46)年にはヨーロッパ・カナダのツアーに参加しました。札幌オリンピックの前で、当時はスキーのために海外に出かけるのは、まだ珍しいこと。北海道からの参加者は私ひとりでした。行ってみて感じたのは、向こうではみんなとても自由に滑っているなぁということ。日本では基礎スキーが唯一の教科書みたいで、型にはまりすぎている。これではまだまだ日本のスキーは世界に通用しない。そう思いました。

 

 73年には、カナダでヘリスキーをしました。新雪だから女性と子どもにはムリ、と言われたのですが「ぜったい大丈夫だから!」とねばって頼んでヘリに乗り込むことができました(笑)。そのとき、スキーパトロールの人たちの毅然とした仕事ぶりに感銘を受けました。また、ロッジへの交通アクセスなどもとても合理的に整っていて、感心しました。国内では、白馬(長野県)に1シーズンいた年もありました。
 結婚前の浦野も、ニセコ高原観光の大川所長からいろいろなことを必死に学んでいました。彼は所長を大川先生と呼んで慕っていましたね。

 

 いろんなスキー場を見て歩くと、ひらふの素晴らしさと同時に、欠けているところも分かってきます。1970年代前半のひらふは、まだスキーしかなかった。アフターの楽しさがないんです。そこで結婚してひらふの住人になると、まず居酒屋を作りました。地域にないものを少しずつ作ろう、その先がけになろう、と考えたのです。当時は夏の楽しみも少なかったので、主人の尻を叩きながら(笑)、テニスコートも作りました。こうしたことが呼び水になって、その後いろいろな店が生まれていきます。
 それから30年以上たって、いまのひらふは、スキーのまわりにいろんな楽しみがあるまちになりました。ニセコのほかのスキー場から、アフタースキーを楽しみに来る人も少なくありません。

 

 主人は逝ってしまいましたが、いまは息子がしっかり後をついでくれています。ここ10年でまた急速に変わりつつあるひらふを思うと、これからの世代にとっては、私がひらふの住人になったころと同じような可能性が、目の前に大きく広がっていると感じています。