NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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アーカイブ: 2012年1月

 

 

 

スノーボードに加えて、1990年代のひらふで重要な動きがもうひとつありました。そう、フリースタイルスキーのモーグルです。その源流にいるひとり、アウトドアセレクトショップNiseko343を経営する小田島勝彦さんが語ります。

 

 

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 私は1951年に札幌で生まれました。物心つくころには、冬が来ると豊平川の土手でジャンプの真似事をしたりして遊んでいました。青春は、中学、高校、大学と、アルペンスキーひと筋だったのです。札幌オリンピック(1972年)をはさむ北海学園大学スキー部での4年間は、シーズンごとにひらふ坂のさかえ旅館での合宿が恒例でした。ほかの宿も、全国の大学や有名企業の合宿で大にぎわいでしたね。北海道の企業では、国鉄や電電公社などとゲレンデでよく顔を合わせていました。

 

 練習の甲斐もあり、全道大会で入賞するようになりました。そして旭川で開かれた北海道学生選手権(北海道インカレ)での出会いがのちの結婚にもつながります。しかし大学を卒業するとき、私のスキーはまだその先を求めていました。そこで卒業しても就職せずに、アルバイトをしながら旅行資金を蓄えました。そうして、スキーへの自分なりのけじめをつけようと、ひとりでウィスラー(カナダ)に行ったのです。飛び込みでしたが3カ月ほどスキーパトロールの仕事につくこともできて、そこで全く新しいスキーと出会いました。自分のスキー観が大きく変わる体験でした。

 

 そこで見たのは、パウダースノーを思いのままに滑るフリースタイルスキーで、後にその種のスキーをテーマにした映画の題名からホットドッグと呼ばれるスキーだったり、新雪が降ったら楽しむパウダースキーでした。それまで日本で追求されていた、厳密なフォームでひたすらタイムや精度を競うといったスキーとはまるでちがう滑りに、目を開かれました。
 こんなに自由なスキーがあるのかという驚きと、でも、そうだ自分はこんなスキーがしたかったんだ、という気づきです。帰国すると後のテイネハイランド(札幌)に勤めたあと1979年、ひらふでペンションの売り物件を買ってロッジ・ロンドを開業しました。

 

 1992年のアルベールビルオリンピック(フランス)に、日本人初のモーグル代表となった山崎修 君は、うちに数シーズン居候(ペンションを手伝いながらスキーに打ち込む生活)をしていました。やがてモーグルの宿というイメージができて、たくさんの選手たちがやってきます。のちにロス・フィンドレーさんと結婚する陽子さんも、そんな仲間でしたね。「*1ニセコB&J」というモーグルチームを作りました。
 当時モーグルはゼロからの出発に近かったので、自分もよけい夢中になることができたのだと思います。ここから全国に、新しいスキーを広げていこう、と。妻を含めて居候スタッフの10人近くが、ナショナルチームのメンバーになりました。
 そのころは、とにかくスキーに打ち込むためにペンションの居候をする若者がたくさんいて、受け入れる側も彼らを積極的に応援していたものです。

 

*1 出身者に吉川空(ナショナルチームw指定)、現在も北海道スキー連盟の強化指定選手が5人在籍

 

 


 

 小田島さんたちは91年4月、ひらふではじめてのモーグルスキー大会「スーパーバンプスニセコCUP」を開催。春スキーを掘り起こす狙いもあったこの初回大会の女子で優勝したのは、のちに長野五輪(98年)金メダリストとなる、中学1年生の里谷多英さん。男子はNiseko343店長の伊藤篤 君(元モーグルナショナルチーム、コーチ)でした。さらにこの大会から、ソルトレークオリンピック(2002年)に出場した中元勝也などが巣立っていきました。

 


 

 

 でもいまと全くちがって80年代のモーグルは、スキー場に理解されず苦労もありました。端的にいえばピステンとの戦い(笑)。スキー場側は、せっかくいいこぶができでも、パトロールがこれを見つけるとすぐ削りにかかる。いたちごっこの連続だったんです。万全の協力をいただいている現在では考えられない、なつかしい話です。

 

●Niseko343
倶知安町山田170
TEL:0136-23-0343
http://www.niseko343.com

 

 

 

 1990年代半ば、スノーボードのブームが一気に広がります。
 週末になるとひらふには、本州からのツーリストのほかに、真新しいボードを抱えた若いボーダーたちが札幌方面から押し寄せました。本州からの中学・高校の修学旅行でもスノーボード体験を取り入れる学校が現れ、生徒たちの人気を博します。やがて長野オリンピック(1998年)で正式な五輪種目(大回転、ハープパイプ)となったことも、強力な追い風となりました。98年にひらふで日本スノーボード協会(JSBA)公認のスノーボードスクールを開いたのが、倶知安っ子の木村聖子さんです。

 

 

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 子どものころ冬の遊びは、もちろんすべてスキーでした。ここで生まれ育った子どもに、ほかの選択肢はありませんからね。でもボードが注目されはじめたころ、ちょっと変化がほしくて乗ってみたのです。たちまち夢中になりました。スキーはスロープにただ立っているだけで一応滑りますが、ボードはそうは行きません。それがビックリするほどおもしろかった!
 ルスツリゾート(虻田郡留寿都村)には早い時期から、関 規明さんが開いている公認のスクールがあったので、そこで基礎を学びました。

 

 滑れば滑るほど面白くて、すぐ公認インストラクターの資格を取って教える側にまわりました。ほどなく関さんに替わって校長を務めることになりました。振り返ってみればそこまであっという間でしたね。
 7年ほどたって、でもやはり地元でボードと関わりたくなり、ひらふに戻って日本スノーボード協会(JSBA)公認のスノーボードスクール、「マザーグース」を立ち上げました。ひらふでは玉井 太朗さんがJSBAの公認校を開いていましたが、それにつづくスクールでしたね。

 

 私は、基礎を大事にしながら、ふるさとにスノーボードをしっかり根づかせようと考えました。道具の選び方、そしてブーツの履き方ひとつで滑りの感覚は違ってきますからね。そして、道具を大事に扱うこと、子どもでも荷物は自分でもつこと、きちんと挨拶をすること。最初にこういうポイントを重視しました。上達すれば、パウダースノーのひらふでこそ、ボードの魅力が満喫できます。こうした考えは、今もまったく変わっていません。

 

 はじめての方には、とにかく楽しい時間をもってもらおうと心がけました。だから校名も、スポーティな競争イメージとは逆の、女性的でやさしい「マザーグース」(イギリスの童謡集の名前)としたのです。あまり細かいことを言わずに、とにかくターンを早く身につけてもらう。スノーボードの世界をある程度体感してもらえば、あとは自然に欲が出てくるでしょう。

 

 ひらふの基盤になるのは、倶知安の子どもたちです。ですからスクールの中に、「じゃがボーダーズ」というジュニアチームも作りました。はじめはみんな、スポーツというよりヤンチャな遊びです。それで良いんです。その中からは、いまソチ五輪(2014年、ロシア)を狙う渡辺 大介君なども育ってくれました。

 

 開校してしばらくすると、地元でスクールを開くことは、単にゲレンデでビジネスを起こすだけじゃない意味を持つのだな、と感じました。リフト会社やホテルをはじめいろんな方々との関わりが増え、ひらふや倶知安のことを話し合う機会もでてきます。JC(青年会議所)の活動にも加わり、スクールの運営を通して私は、生まれ育ったまちをさらに深く知ることができたと思います。

 

 

日本スノーボード協会公認スクール「マザーグース」
倶知安町南4条東5丁目
TEL:0136-23-3173
http://www5.ocn.ne.jp/~goose/

 

 

 

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 函館で生まれ育った私は、子どものころからスポーツや自然が大好きでした。高校の部活は山岳部で、テニスにも熱中しました。函館ドック(現・函館どつく)に就職すると、仲間とテニス部を作りました。スキーを本格的にはじめたのは、就職してから。当時のドックは時代の先頭を走るようなたいへん勢いのある会社で、仕事以外でも多才な人がたくさんいました。その中でスキー部も、国体選手がいるくらい盛り上がっていたのです。
 はじめは部の友人から誘われて軽い気持ちで横津岳に行ったのですが、思ったよりうまく滑れなくて、ちょっとくやしい思いをしました。まだリフトがない時代ですから、シールをつけて登って、思い思いに滑り降ります。でもこうしてマイペースで楽しめるのが、自分に向いていると思いました。函館近郊では、ニヤマ(七飯町)にもよく行きました。シーズンのスタートは、中山峠。当時は11月の頭から滑ることができました。

 

 当時リフトができたばかりのニセコはあこがれの地で、スキー部では毎年滑りに行っていましたが、最初のころ、お前はまだ無理だ、と連れて行ってもらえません。3年目でようやく行けました。でも第2の壁で大転倒したことをおぼえています。それからというもの、仲間たちとのひらふ通いがはじまりました。
 函館を夜中の汽車で出て、狩太(現・ニセコ)駅か倶知安駅で降りて、比羅夫駅で停まる各駅停車に乗り換えます。駅からスキー場行きのバスが出るのが8時。その2時間以上前に着いてしまうので、着くとすぐ歩き出しました。駅でただ待っているより、少しでも早く滑りたいですからね。よくやったなと思いますが、女性でも自分の道具を自分で背負って歩けなければ、スキーはできなかったのです。帰りの汽車は夕方の4時くらい。スキー場から駅までは、スキーと歩きです。

 

 夏や秋には羊蹄山やニセコの縦走を楽しみました。ひと汗流すのは、山田温泉。女友だちと2人で羊蹄山に登り、その足で山田温泉に行こうとしたのですが、途中で暗くなったので温泉の灯りをさがしてようやくたどり着いた、なんていうこともありました。そんなときでも畳の上ではなく、温泉の前にテントを張って寝ました。私たちにとっては、それがふつうだったのです

 

 さて冬の私のニセコ通い。山田温泉や望羊荘が常宿でしたが、地元の人との出会いや交流もはじまって、そんな中でのちに結婚する浦野と出会いました。浦野の家はひらふの農家で、スキー場のリフト設置に合わせて開業した7軒の民宿のうちの一軒でした。「民宿浦野」という名前ではじめて、1964年からは「白雲荘」となります。出会ってから結婚してスキー宿の嫁になるまで、10年以上もかかってしまいましたが、その間スキーやスキー場のことをもっと知りたくて、いろいろな土地に出かけていたのです。1971(昭和46)年にはヨーロッパ・カナダのツアーに参加しました。札幌オリンピックの前で、当時はスキーのために海外に出かけるのは、まだ珍しいこと。北海道からの参加者は私ひとりでした。行ってみて感じたのは、向こうではみんなとても自由に滑っているなぁということ。日本では基礎スキーが唯一の教科書みたいで、型にはまりすぎている。これではまだまだ日本のスキーは世界に通用しない。そう思いました。

 

 73年には、カナダでヘリスキーをしました。新雪だから女性と子どもにはムリ、と言われたのですが「ぜったい大丈夫だから!」とねばって頼んでヘリに乗り込むことができました(笑)。そのとき、スキーパトロールの人たちの毅然とした仕事ぶりに感銘を受けました。また、ロッジへの交通アクセスなどもとても合理的に整っていて、感心しました。国内では、白馬(長野県)に1シーズンいた年もありました。
 結婚前の浦野も、ニセコ高原観光の大川所長からいろいろなことを必死に学んでいました。彼は所長を大川先生と呼んで慕っていましたね。

 

 いろんなスキー場を見て歩くと、ひらふの素晴らしさと同時に、欠けているところも分かってきます。1970年代前半のひらふは、まだスキーしかなかった。アフターの楽しさがないんです。そこで結婚してひらふの住人になると、まず居酒屋を作りました。地域にないものを少しずつ作ろう、その先がけになろう、と考えたのです。当時は夏の楽しみも少なかったので、主人の尻を叩きながら(笑)、テニスコートも作りました。こうしたことが呼び水になって、その後いろいろな店が生まれていきます。
 それから30年以上たって、いまのひらふは、スキーのまわりにいろんな楽しみがあるまちになりました。ニセコのほかのスキー場から、アフタースキーを楽しみに来る人も少なくありません。

 

 主人は逝ってしまいましたが、いまは息子がしっかり後をついでくれています。ここ10年でまた急速に変わりつつあるひらふを思うと、これからの世代にとっては、私がひらふの住人になったころと同じような可能性が、目の前に大きく広がっていると感じています。

 

 

 

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 1968(昭和43)年から2007年まで、「旅館さかえ」を経営していました。いまは女房とふたりで、「居酒屋さかえ」をやっています。

 

 生まれは日高の三石町字歌笛。18歳のとき札幌で板前の道に入りました。それから調理師免許をとって羽幌や岩見沢で働き、函館の湯の川に行きました。そこで、ひらふの大雪閣で板前をさがしているから行かないか、と誘われたんです。まずその夏に、どんなところかと見に行きました。お客が全然いなくて、閑古鳥が鳴いてましたよ(笑)。当時のひらふは、半年はほんとになにもないところ。ひまな季節は遊んでていいから、と言われて転職を決めたのは、1965(昭和40)年でした。確かに夏場は、国鉄や役場、支庁関係の宴会がときどきある程度だったんです。

 

 そこに3年ほどいて、29歳でかみさんも見つけて、同じひらふで旅館をはじめました。なんとかお金を工面して、8室からのスタート。ひらふ坂の途中、いまのひらふ亭さんの向かいです。1968年当時、リフトができて7年経っていましたが、宿の数もわずかで、ひらふはまさにこれから、というところ。電気もリフト用のものを分けてもらっていて、われわれは電気代をニセコ高原観光に払っていたんです。ひらふ坂も、第1駐車場ができる前で舗装されていませんから、春先にはどろんこ状態。山田温泉やリフト会社が持っているジープでしか上がれませんでした。

 

 サンモリッツリフトの寺岡四郎さんが会長で、永江勝朗さんが現場をまとめる「ひらふスキー場振興会」という集まりがあったんです。リフト会社や宿がそれぞれ会費を出して予算を作って、内地に視察に出かけたりしました。地区として宣伝パンフレットも作りました。そのほか除雪をどうするとか、いろんなことをみんなで話し合ったものです。

 

 ひらふで板前料理を出すところはほかになかったので、うちは料理を売りものにしました。その一方で、一部の民宿のおかみさんたちと一緒に料理の試食会をやったりしました。すべてが新しい土地では、自分のことばかり考えては商売になりませんからね。

 

 でも開業して5、6年は厳しかったです。シーズン中は函館時代の先輩や仲間が来てくれたり、リフト会社が宴会に使ってくれたりもしましたが、夏は女房に旅館を任せて、洞爺の温泉街で働きました。出稼ぎです。
 1970(昭和45)年にここで国体があったとき、青森県の選手団が泊まってくれたんです。そこから縁ができて、その後も青森の方がたくさん来てくれた。シーズン終盤、八甲田で春スキーをする前にひらふで滑る。そんな方がけっこういたんです。そうこうするうちに大手航空会社のスキーツアーがはじまって、世の中にスキーブームがやってくる。ようやく商売の基盤ができていきました。JALのスチュワーデスさんとか整備士さんなども、よく来てくれました。

 

 1980年代の半ばはスキーツアーの全盛時代。高原リフトとアルペンリフトが毎年のように競い合ってリフトを伸ばして、ほんとうに活気がありました。うちの常連さんたちは仲が良くて、スキークラブ(ひらふスキークラブ)を作りました。今でもちゃんと続いていますよ。
 でもそのころ、宿の中にはどうかするとお客さんじゃなくて、ツアー会社の方を向いて仕事をしていたところもあった。そういう宿は、ブームが去ると苦労していましたね。宿は、お客さんとの人としてのつながりをなくしちゃダメです。

 

 私のスキー歴ですか? 来たころは、湯の川にいたときにニヤマ高原で少し滑ったことがある、という程度でした。ニセコは上級者しか行けない所だと思っていた。ここに来てからは、せっかくだからと挑戦をはじめたんです。若かったし、シーズン中は忙しくても一日一回は滑ろうと決めて滑っているうちに、どんどん熱中しました。朝、お客さんをゲレンデまで案内していっしょに滑って、午後はあいた時間に自分ひとりで滑ったり。ゲレンデにいいお手本がいっぱいあったので、上達できたと思います。やがてスキー検定の1級をとることもできました。

 

 旅館は40年やりました。増築を繰り返して35室くらいまで大きくしましたが、そろそろ全面的にリニューアルしなければならない時期を迎えて、考えました。また借金を抱えて旅館をするよりも、もうそろそろ、少しのんびり暮らそうじゃないか。若いときは家族でがむしゃらに働いたんだから、と。そして旅館の土地を売って、近くにこの居酒屋兼住宅を建てたんです。いまは、冬は一生懸命働きますが、夏は弁当や予約のお客さんだけです。

 

 子どもは4人で、孫が5人います。みんな倶知安で暮らしていますから、自分は幸せ者だと思います。三男坊は同じひらふでスープカレーの店をやっています。