NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第35回 新しい滑りの世界へ-1
山とスキーと写真。それだけのシンプルな人生。
ニセコウパシツアー主宰・ニセコウィンターガイド協会理事
スキーヤー・写真家 渡辺洋一さん

 

 

 

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 静岡県(蒲原町)で生まれて立川(東京都)や所沢(埼玉県)で育った僕がはじめてスキーをしたのは、小学校4年生のころ。友だちに誘われて、新潟の六日町に行ったんです。ハッカ高原とミナミ。完全に魅せられてしまいました。そのときから人生が、スキーに取りつかれたといってもいいかもしれません。

 

 スキー板を手にいれて、スキー場通いがはじまります。小学校から、正月を家で家族で過ごしたという記憶がないんです。ふだんの遊び場は武蔵野の雑木林が残る狭山丘陵ですから、雪はごくたまにしか降りません。僕は雪国で育ったスキーヤーではなかった。人工スキー場の狭山スキー場に、自宅から自転車でずいぶん通いました。

 

 そのころからスキー雑誌のアルペン競技の写真を見て、なんてカッコイイ世界があるんだ!と思っていました。そんなときスキーショップで競技スキーの名門チーム「マキシマムスキーチーム」のことを知り、これだっ! と思った。すぐ入らせてもらって、大人に混じって滑るようになりました。

 

 スキー部のある高校に行きたかったけれど、関東にはほとんどありません。だからマキシマムスキーチームでのスキーに集中しました。2年生のときからインターハイ予選で入賞するようになります。そうするとはじめは冷ややかだった高校も応援してくれるようになりました。3年生のときの予選では、手違いで130番スタートになってしまったことに発奮して、最終スタートから2位に入ったりしました。生涯最高記録の128人抜き!(笑)

 

 大学は絶対に北に行こうと考え、岩手県の大学に進学しました。自分でスキー部を立ち上げました。インカレの入賞は果たせなかったけれど、大学時代もすべてスキーが中心。大部分をスキーのためのアルバイトとスキー場ですごしたものです。バックカントリーを滑り出したのも、そのころから。もちろん、勉強もしましたよ(笑)。卒論のテーマは、「過疎の村とスキー場開発」について研究しました。

 

 就職は、少しでもスキーに関係するところに、という選択肢もあったけれど、あえて全く関係ない分野にしました。情報機器メーカーの営業職です。好きなことを仕事にしちゃうと、それはそれでムリが出ると思ったから。
 26歳のときに念願の札幌勤務となります。テイネ、キロロ、ルスツ、ニセコ、旭岳…。とにかく自由になる時間はスキー三昧です。北米にも行きました。この時代に、すっかり、山スキーの虜になりました。デポ旗を打ちながら、春には大雪山や十勝連峰をずいぶん歩きました。弟がカメラマンということもあり、このころから独学で写真を研究しながら、山とスキーを撮りはじめます。大雪山で、サラサラの雪煙が逆行に光る中をスキーヤーがかっ飛んでいくところなんか、撮る方も撮られる方もほんとうに楽しかった。

 

 すばらしい友人もどんどんできていって、結局、転勤の辞令がおりそうになった30歳で会社を辞めました。上司にはもったいないといわれたけれど、1年前に辞表を出して、そのあいだスキーと人生を真剣に考えて、ひらふに移りました。生活のすべての真ん中にスキーを置く。そしたらどんな生き方ができるだろう–。そんなふうにシンプルに考えたんです。収入のあてもないけれど、とにかくひらふに住んで、滑ってみよう、と。1996年でした。

 ふつうならペンションや飲食店でバイトをしながら、となるだろうけれど、自分にはどうもちがうと思った。蓄えも少しあったので、とにかく滑る。それだけ。人生でこんな機会はもうないな、って思いながらね(笑)。
 そのうち、写真で暮らしていくのはどうだ、って考えたのです。カナダでヘリスキーをしたときに写真の撮影サービスがあって、自分の滑りを撮ってもらってとてもうれしかった。そのカメラマンがまた、カッコイイ滑り屋だったんです。あの世界は、「あるゾ」、と思った。

 

 真冬はひらふ、春になるとアラスカへ何年も通いました。植村直己や星野道夫の世界にも興味を持っていたのと、その当時、世界のフリースキーヤーはアラスカをめざしてたんです。カメラマンをはじめたころ、NACのロス・フィンドレーさんに誘われて毎年5月からは、ラフティングの写真を3年間撮ってました。
 ラフティングでも、大自然の中で楽しんでいる写真を撮って渡すと、みんなほんとうに喜んでくれる。会社員時代に大きな商談を決めたときよりも、こっちの方が自分に向いていると思いました(笑)。この仕事の手応えを感じました。

 

 そのころ、全財産を投じて最新のカメラシステムを買い揃えました。これでいよいよ蓄えがなくなったので、もうやるしかない。写真の技術も、現場で必死に高めていった。シーズンが始まると、センターフォーでうまそうな人を見つけて写真を撮らせてもらえますか、と聞きながら撮って、気に入ったら買ってもらう。撮った人はやっぱりみんな喜んでくれたのです。そのうちもっと効率をよくしようと思って、スクールとタイアップさせてもらった。

 

 やがてバックカントリーにも行くようになって、スキーガイドと撮影をセットにした「ニセコウパシ」を立ち上げました。ウパシとは、アイヌ語で雪のことです。
 90年代半ばから、スキーはボードの影響を受けながら、大きく進化していきました。山を滑るのも、昔のように平面をイチ、ニ、イチ、ニと規則正しく滑るのではなく、ファットスキーによってもっとダイナミックに地形と交わる滑りができるようになる。玉井太郎さんなどといっしょに山に入って、新しいスキーの世界を開拓していきました。

 

 ひらふを本拠地にスキー写真を撮ることが僕の暮らしとなり、やがて映像作品にも取り組むようになった。そして毎年、内外の雑誌などの仕事で、世界の山にも通うようになりました。世界のいろんな山を滑って撮る。そうするとニセコの個性がさらによくわかるようになりました。

 

 外から来た僕たちによって、あるいは新しい切り口の写真や映像によって、土地の人やスキー場会社が気づいていなかったひらふの価値や魅力が知られるようになった。生意気に聞こえるかもしれないけれど、それも事実じゃないかな。だからこそみんなで、この山と雪をこれからもっと大切にしなければならない。

 

 羊蹄山を真正面に望むこの場所に住まいと仕事場を建てたのが2005年。スキーと写真でこの土地の魅力を世界に発信すること。それが自分の仕事なんだと自信を持って思う、自分の本拠地です。もちろん仕事には、自分ひとりじゃなく、ニセコの仲間たちとの連携が欠かせない。そして時代をさかのぼって、この山と人間との関わりの歴史を正しく学ぶことも大切。さらに最近は、それをまた若い世代につないでいくのも自分たちの仕事だと思っています。

 

代表作品
写真集  「NISEKOPOWDER」「ひらふニセコ」「雪山を滑る人」
映像作品 「ルーヴェ」シリーズ