NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2011年4月
« 3月   5月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  

Recent blog article

| TOP |

第31回 レジェンドの系譜-1
これからは、僕らが山に恩返しをする
日本テレマークスキー協会(TAJ)名誉会長・ゆきやま山荘 山本由紀男さん

 
 
山本由紀男さんMG_9363.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像 1948(昭和23)年に岩内町で生まれました。親父が教員で、やがて曽我小学校(ニセコ町)の校長になったので、一家でニセコ(当時は狩太町)に移ります。
 自分はネィティブのスキーヤーだと思っています。意識するしないに関わらず、スキーがいつも暮らしの中にあった。小学生のころ、なにしろ半年近くが雪のある暮らしですから、冬の移動手段はみんなスキーでした。道に除雪なんか入りませんから、生活道路を歩くとしたら、馬そりが作ったわだちをなぞるしかありません。狩太駅の裏にあった雪印の工場に、酪農家が生乳を納入する馬橇です。だから隣の家に行くのもスキー。郵便配達もスキーをはいて郵便を届けていましたね。スキーは遊びというよりは日常の道具だった。
 しかし一方で、もちろん遊びでもあった(笑)。親父がスキー気違いで、体ができて体力がついてくると、冬はよく山スキーに連れて行ってもらいました。(ちなみに夏は、行き帰りとも歩きで曽我〔ニセコ町〕から岩内の海まで行ったりしました)
 父は戦前はクロスカントリー・スキーの選手で、戦後は教則本を何冊か書いています。当時のスキーは今とはまったくちがうカンダハー。リフトができる(1961年)のずっと前から、ここはスキーのメッカでした。道内はもちろん、本州からもいろんな人たちが滑りに来ていた。ニセコの山とスキーが本当に好きな人々です。
 
 50年前にリフトが作られスキー場ができたころ、多くの人が全日本選手権や国体などの競技大会の誘致に力を注ぎました。当時の全日本とか国体は、今とは比較にならないくらい、開催地にとって意義や魅力がありました。よそから人がどっと来て有名になれる。だから懸命に誘致に取り組んだのです。でも、リフトが付いてゲレンデができると、スキーを楽しむエリアが小さく限定されるようになってしまった。その前は技術さえあれば山のどこだって自由に滑ることができました。いまは、今日は深雪で滑られるかどうかなんて言ってますが、昔は滑るところには深雪しかなかった(笑)。でもだんだん、ゲレンデの枠の外に出てはダメ、ということになっていく。考えてみればおかしな話です。
 といっても、技術もない人がバックカントリーに出て行っては危険です。事実80年代以降いろいろな事故も起こってしまっていたので、スキー場側などから規制が強まった時期もあります。そのことを心配した有志が「ニセコルール」を作りました。「ニセコルール」の取り組みは、事故を心配して規制する側と滑り手の双方が協調を模索しながら、バックカントリーでより安全に楽しめることを目指しているのだと思います。ルールを守ることによって、本来自由であったはずのバックカントリーでの活動が戻ってくればいいと思います。
 
 1976(昭和51)年にひらふで「ゆきやま山荘」をはじめて、15年ほど営業しました。春になってお客さんたちとリフトのない斜面や原野で遊ぶとき、もっと自由に動きやすいスキーができないかと考えていて、当時は誰もやっていなかったテレマークスキーをやってみようと思いました。親父が残した本棚に戦前のテレマーク教則本があって、それを改めて研究して、海外の動向も学びながら、手探りでマスターしていったのです。ご承知のようにテレマークスキーとは、ノルウェーのテレマーク(テルマルク)地方で発達したスキーで、アルペンスキーやクロスカントリースキーの原型ともいえるもの。「登る、歩く、滑る」の3つを軽快にこなせる、山の移動手段としては最適のスキーです。やりはじめるとスキーの世界がまたひとつ大きく広がって、夢中になりました。仲間も次第に増えていって、彼らがまた、日本各地にテレマークを広めていきました。
 
 ニセコの自然の中にお客さんを案内するのには、クロスカントリースキーもとても有効です。特に雪がしまって天気が良くなる春先は最高。僕は子どものころから楽しんできたことですが、野鳥を見たり、日なたのフキノトウやドンガイ(イタドリ)の芽を採ったり。沼でユスリカのイミテーションフライをエサにオショロコマを釣ったり。景色だけじゃなくて、動くもの、生きたものを相手にすると自然はもっともっとスゴイ世界を見せてくれる。ゲレンデをサッと滑っただけで帰ってしまうのじゃ、もったいないですよ。
 ひらふをベースにしたそういう遊びを、もっとたくさんの人が味わうようになったら、ニセコもさらに良い方向に変わっていくと思う。もちろん、ルールやマナーをしっかり守ることは必要。自然を深く楽しむために、土地のガイドといっしょに山に入るという遊び方が、もっとふつうになれば良いのです。ガイドの価値や役割を、さらに多くの人に知ってほしい。いわばそういう文化を根気よく育てていかなければ、と思っています。
 
ニセコは、さほど広くはないこのエリアに、とても多彩な自然があります。羊蹄山、尻別川、ニセコアンヌプリ、そして北に山を下りれば日本海–。僕は、体も心も、この風土に育てられました。この土地で楽しくてすばらしい体験をたくさんしてきて、これからもたくさんの人と、そうした時間を共にしたい。
 ひらふスキー場50周年を機に何かを考え直したり、新しくはじめることがあるとすれば、僕は発想を大きく変えることだと思う。つまり、ただ一方的に山を利用したり消費することはもうやめよう。今までこんなにたくさんいろんなことを楽しませてくれた山に対して、我々が何かを返していくことはできないだろうか、と考えてみる。そうすると、山とのつきあいも変わっていくでしょう。じゃあ具体的に何ができるのか–。我々は次の時代のために、それをみんなで考えて、実行していく時期に来ているんだと思っています。
 
山本由紀男さん/日本テレマークスキー協会(TAJ)名誉会長・元プロスキーヤー・元 SIA公認ニセコプロ・スキースクール校長