NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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アーカイブ: 2011年4月

 
 
ロス・カーティー夫妻IMG_1631.jpg 僕は1966年にオーストラリア南東部のブリスベンで生まれました。10歳からキャンベラで育って、子どものころからスキーは大好き。でもいちばん熱中したのは、アイスホッケーです。ユースのナショナルチームの副キャプテンに選ばれて、1983年に釧路と苫小牧(ともに北海道)に来ました。はじめての日本です。17歳でした。ゲームの日程が終わると、日本にとても興味があったので、ヒッチハイクで旅をすることにしました。いろんな人に親切にしてもらって、結局九州まで行ったんです。
 それから大学を卒業する年(1989年)に、ニセコのアンヌプリスキー場に来ました。学生時代は国内でスキーパトロールのバイトをしながらスキーを楽しんでいて、ヨーロッパやカナダでも滑りました。今度はちがうところで滑ってみたいと思って、雑誌に出ていたJALのツアー広告を見たんです。来てみて、ほんとにすばらしい雪に感動しました。再びニセコに来ようと思い、日本語の勉強をするために、そのまま、夏場は札幌でホームステイもしました。このお宅の方々とは、今でもお付き合いがあります。そこのお母さんは、サホロでのパトロールの仕事も探してくれたので、年末から年明けの3月までそちらに滞在することもできました。
 
 大学を出ると、一応向こうで就職しました。コンピュータの会社です。でも次の年はひらふに行こうと思って、前もって履歴書をサンモリッツリフトさんに送って、パトロールの仕事につくことができました。そのとき、ホテルニセコアルペンのショップでアルバイトをしていたのが、やがて奥さんになる邦代です。
 
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ロス/邦代は東京でOLをしていたんだよね。
邦代/アパレルメーカーの営業補佐の仕事。東京のデパートをあちこちまわっていました。仲の良い友だち3人で、どこか行きたいなぁなんて言っていて、海外旅行の計画を立てていたんだけれど、結局ニセコに来てアルペンショップでアルバイトを始めたの。私は二十歳のころ白雲荘(ひらふ)に泊まっていて、ひらふが大好きだったし。
ロス/当時はコンビニなんてないし、ショップらしいショップといえばアルペンしかなかったから、チョコレートやコーラをよく買いに行ってました。
 
邦代/ロスは待機することが苦手だったので、よくゲレンデ中を滑りまくっていました、合間によくお店に寄ってくれました。初めてのデートはアルペンの従業員食堂でした、2回目は今は無き、ハンクの家・・懐かしいです・・。日本語が殆ど話せないロスと、英語の全く話せない私たちには英和辞書は必要不可欠!!ロスは日本語を一生懸命勉強していました。
ロス/おかげで僕たちは結婚できた!(笑)
邦代/次の年もその次も、私たちは冬のひらふで働きながら、滑りました。
カーティ/僕は居酒屋や、渡辺淳子さんの「グランビュンデン」で働きました。「グラビュン」では、ロス・フィンドレーさんも働いていた。
 
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 やがて邦代とふたりで、オーストラリアのスノーボードを日本に輸出するビジネスをはじめました。全国のボードショップをふたりで営業にまわったんです。たいへんだったけど、円高だったのでうまくいきました。でもやがて円が弱くなって、利益が上がらなくなってしまった。そこでニセコでスノーボードのショップとスクールをはじめました。オーストラリアと日本のツアー企画などもね。
 94年にNOASC(Niseko Outdoor Adventure Sports Company)を創業して(98年に株式会社に)、バックカントリーのツアーや、夏のラフティング、カヤック、アドベンチャーキャンプなどへ、業務を広げていったのです。8月のじゃが祭り(倶知安町)では旭ケ丘公園でクレーンを使ってバンジージャンプをやったのですが、これは話題のわりには採算割れだった(笑)。
 95年ころから、僕やロス・フィンドレーさんのスポーツビジネス、ピーター・マーフィーさんのツアービジネスなど、ひらふのオースラリア人の仕事が注目を集めるようになりました。それからニセコのパウダースノーが、オーストラリアや東アジアの人たちに急速に知られるようになり、それがまた日本の中で大きな話題となっていきます。
 
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ロス/1996年に僕たちは晴れて結婚できました。
邦代/ロスは私の両親を納得させるために、近所のおばちゃんたちから仲良くしていったのよね(笑)。その行動力と誰とでもすぐ仲良くなれる人柄に、両親も反対しようがなかった。
ロス/気がついたら僕たちはいつのまにか3人の子の親になっていた。毎年オーストラリアに何ヶ月か暮らして、子どもたちがオーストラリアと日本の文化の両方を身につけることができているのは、よかったと思う。ひらふでは、3人とも樺山分校に通っている。
邦代/ロスは子どもが大好きだから、ほかの子どもたちをまじえて、スイミングやアウトドア活動にもとても熱心に取り組んでいますね。いまはスイミングとラグビークラブに一生懸命。
ロス/オーストラリアに比べると日本でラグビーはマイナースポーツだけど、いろんな人たちと力を合わせて、これから、ひらふの夏はラグビーだ、って思われるくらいにしていきたい。去年はここにオールジャパンの合宿も来たしね。子どもたちにラグビーの素晴らしさを教えたいんだ。スキーやボードは滑る人だけが楽しいけれど、ラグビーなどのチームスポーツは、プレイヤーとたくさんの観客が一体となって楽しめることがいいと思う。
邦代/学校やスポーツを通して、私たちは子どもたちがいる意味をあらためて実感することも多いよね。子どもを通して、知らない大人同士がすぐ友だちになれる。学校の行事やPTAに関わることで、地域との絆がさらに強くなっていくから。
 
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 21世紀に入って、ツアー会社と、不動産会社も作りました。NOASCと合わせて、ソフトとハードの両面でニセコを楽しむビジネスの仕組みを広げたのです。これからは、オーストラリアをはじめとした英語圏の人たちだけじゃなく、アジアの人たちをもっとニセコに呼び込みたい。そうした気運を盛り上げるためには、倶知安町とかニセコ町、蘭越町といった枠組みを超えて、みんながひとつになっていろんなことをやればいいと思う。
 僕がここでビジネスをする理由というか原点は、スポーツと自然です。つまりビジネスのための、利益をかせぐだけのビジネスではない、っていうこと。北海道のように移民が新しくまちを作ってきたオーストラリアには、鉱山とかリゾートとか、産業に直結して発展してきたまちたくさんあります。スポーツと自然をリソースとして生まれたまちもね。倶知安やニセコも、豊かな農業を基盤にしながら、スポーツと自然によって日本のどこにもないまちが、これからさらにできていくんじゃないかな。そのために僕はがんばりたいし、このまちがどうなっていくのかを見続けることが、とても楽しみなんです。

 
 
ロス・フィンドレー夫妻_MG_9545.jpgロス/僕がはじめて陽子と会ったのは、1991年の2月。ひらふのゲレンデの中にある望羊荘だったね。
陽子/私は当時、ひらふのロッヂロンドさんに居候しながら、選手としてモーグルに夢中でした。ある日望羊荘の食堂の隅っこに、たくあんをかじりながらご飯を食べているロスがいました。なんて貧乏そうな「外人」かと思って、思わず話しかけたの(笑)。
ロス/だってライスは200円でたくあんはタダだったからね。そのときの陽子のまぶしいくらいのスマイルが、僕を結局北海道に住まわせたんだと思う。それから僕たちはずっといっしょにいる。
陽子/ロスはそのころ、テイネ(札幌)の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」でインストラクターをしていました。私は、夏は札幌に暮らして、冬はひらふをベースにモーグルの大会を転戦していました。「夏稼いで冬滑る」。そのためにふたりで協力しよう! と思いが一致して、やがてふたりで札幌でのバイトを見つけて、いっしょに暮らすようになりました。でも母からは、結婚するなら3年はいっしょに暮らしてみて、本当にわかり合ってからにした方がいいんじゃない? と言われました。ロスがはじめて日本に来たころは、日本の景気もとても良かった時代だね。
ロス/そう。オーストラリアでは、日本の留学生がワーキングホリデーを使ってたくさん働いていました。彼らの明るくてまじめな人柄を見て日本人には親しみがあったし、日本の経済もとても好調だったので、一度来てみたかったんだよ。
 
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 僕は1964年にオーストラリアのメルボルンに生まれ、シドニーで育ちました。キャンベラ大学でスポーツ学や経営学を学んで、86年に卒業。子どものころからいろんなスポーツをして、空手もやりましたよ。中でもスキーが大好きで、身につけた技術を活かして、アメリカとスイスでインストラクターをしました。学生時代から、スポーツを軸にして自分の人生を組み立てていこう、と思っていたんです。
 はじめて日本に来たのは1989年。ワーキングホリディビザを使って、札幌の手稲の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」で、2年ほどインストラクターをしました。それからひらふを知って、この山と雪に夢中になった。ここに住みたいと思って、91年の暮れから、冬は渡辺淳子さんのグラウビュンデンの支店のグラウビュンデンサンズで、春からは北沢建設でアルバイトをはじめたんです。
 
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陽子/恩人となってくださったのが、倶知安の北沢建設の北沢輝義社長ですね。
ロス/そうです。樺山(倶知安町)でログハウスを建てていました。資材の多くが輸入品だったので、英語の説明書に何が書いてあるかを訳してくれないか、と頼まれたんです。そうして建設現場で働くことになり、大工の技術を学ぶこともできました。同時に、日本語もずいぶん上達したよ。
陽子/はじめのころは、「お~いゲンノ取ってくれ」、なんて言われてもチンプンカンプンだったけどね(笑)。
ロス/そうね(笑)。94年の秋に、山田神社で神前結婚式を挙げたんです。オーストラリアから両親と兄弟を呼んで。
陽子/それから、ひらふで夏のビジネスをしようとふたりで考えて、95年の春、NAC(ニセコアドベンチャーセンター)を立ち上げました。メインの事業は、尻別川でのラフティング。ラフティング? 何それ? という時代でしたけれど(笑)。
 
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 ニセコの冬は文句なくすばらしくて、国の内外からいろんな人々がやってくる。でも夏は人の流れがパタッと止まっていました。とてももったない。だから夏のニセコの魅力をうまく伝えたいと思って、尻別川に目をつけました。いつも水量が豊富で、ニセコの自然が満喫できる清流です。ニュージーランドなどで盛んなラフティングがここでできないか、と考えたのです。陽子とカヤックで何度も下ってみて、これならいける! と確信しました。北海道ではじめてでした。
 といってもはじめての人がいきなりカヤックはあつかえないので、ゴムボートを使うことにしました。お金がないので、最初は一艘だけ。パドルは自作です。農家で使う鍬(くわ)の棒を買って、ブレードは廃材で作りました。でもこれがよく折れちゃう(笑)。毎日修理や補充が欠かせません。ボートも、3回目に底に大穴が空いてしまいました。なんとか修理して営業を続けました。
 お客さんには、ドライスーツを着てもらうことにしました。これはラフティングでは、世界で最初かもしれません。ドライスーツだから濡れたり寒さの心配がなくて、グンと人気が出たのです。
 最初のころ、PRのために札幌に行ってふたりでビラをまいたりしましたね。ちょうど川下りが重要なモチーフになっている「激流」という映画(主演:メリル・ストリープ)が封切られて、その映画館の前とかで。そうするうちにしだいに口コミやインターネットで広まってお客さんが増えて、2年目からは軌道に乗ったんです。
 
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ロス/本州からの修学旅行にラフティング体験を取り入れる学校も増えて、売り上げは順調に伸びていきました。97年に僕は、日本リバーガイド協会の設立に関わりました。そしてこの年の春、大滝村の大滝中学校が廃校になって、その体育館の部材を払い下げてもらうことができた。これを使って大きな社屋を建てようと思ったんです。ラフティングやトレッキングツアーの受付カウンターや、アウトドアグッズのショップ、そしてカフェ。さらにクライミングウォールを作ることにしました。営業を続けながらの手作りなのでずいぶん時間がかかってしまったのですが、1998年の12月にオープンできました。
陽子/ログハウスの建設現場で大工の技術を身につけたことが、とても役に立ったね。それと、建設工事とその後の営業でも、ひらふに暮らしたいと考えていた若い人たちに仕事場を提供できたことも、よかったと思う。
ロス/そうだね。少し前の僕たちみたいな人がたくさんいたし、その人たちの中にはいま、ラフティングやガイドなど、ひらふでいろんなビジネスをしている人がたくさんいる。みんなとにかくこの土地が好きで移り住んだ人たちだから、そういう人がたくさんいるまちって、これからさらに面白くなっていくパワーを秘めていると思う。
 
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 2003年、僕は国土交通省の「観光カリスマ百選」に外国人として初めて選んでもらいました。NACを立ち上げてから、冬だけじゃない夏のニセコの魅力を新しく掘り下げて発信する活動が評価されたようです。いまのニセコなら、夏に一週間いても、毎日いろんなことがたっぷり楽しめます。子どももファミリーも、そして若者や大人のグループも、スキーやスノーボードだけじゃないニセコの大自然の魅力を、もっともっと知ってほしい。陽子とひらふに暮らし、4人の子どもを育てながら、僕はいつもそう考えてきました。
 世界の中で、まず自分のいるところをさらにもっと良いところにしていきたい–。それはみんなが持っている自然な気持ちだと思う。僕も陽子も、たくさんの人たちと刺激し合い連携しながら、いつもそんな思いを大切にしています。

ひらふを動かす新しい力といえるのが、90年代にオーストラリアから移り住んだ人びとです。「ひらふとオーストラリアの出会い」では、その代表的な人々へのインタビューを掲載いたします。

 
 
新谷暁男さん_MG_9265.JPGのサムネール画像 私は札幌生まれ(1947年)で高校生のときに本格的に山に魅せられました。大学(酪農学園大学)ではもちろん山岳部。厳冬期の十勝大雪や知床連峰の縦走、利尻山など、そのころはまず北海道の山ととことん向き合いました。大学を出ると、農業調査員として3年間ネパールに行くチャンスがあり、ヒマラヤへの思いと準備を温めます。そして生活の基盤を作るために、モイワスキー場(ニセコ町)にロッヂ・ウッドペッカーズを開業しました。1975(昭和50)年のことです。
 70年代後半からパキスタンやヒマラヤ、中国への遠征を重ねて、86年のネパールヒマラヤ、チャムラン峯(7380m)登山隊では隊長を務めます。これらの自分が組み立てる山行は、すべて自前が基本。それが信条なんです。そのあとアルゼンチンのアコンカグア峰(6980m)三浦雄一郎登山隊の支援隊長となりました。
 また80年代半ば、パタゴニア社の創設者イヴォン・シェイナードさんと出会ったことがきっかけでシーカヤックの世界に入り、その後積丹や知床、千島、アリューシャン、南米ビーグル水道やホーン岬などを漕破しました(南米は関野吉春グレートジャーニーのサポート)。そのころから、夏は海(シーカヤック・ガイド)、冬は山という生活を続けています。
 知床では、海岸でのたき火の規制をめぐって多くの人と議論を重ねて、たき火の技術やマナーを整備してきました。あそこでたき火ができないと、人は死にます。では自然の持続的な営みにダメージを与えないためにどんなたき火をすれば良いのか、そこを考えながら、行政や関係機関に働きかけていったわけです。
 
 ひらふには、中学生のころから来ていました。ちょうどリフトができたころですが、リフトには乗らず(笑)、例えば1000m台地から頂上を経て五色温泉に下りて、モイワから昆布温泉へ、といったコースを楽しんでいました。
 
 さて、雪崩をめぐる「ニセコルール」について話しましょう。これはスキー場管理区域の外を滑走する人たちと、すべてのスキー場利用者の安全のために、2001年に作られた公式ルールです。制定に関わったのは、「ニセコアンヌプリ地区なだれ事故防止対策協議会」、「ニセコスキー場安全利用対策連絡協議会」、「ニセコフリーパスポート協議会」、「後志地方山岳遭難防止対策協議会」。
 私は25年前くらいから、山でスキー事故が起きると捜索の指揮にかり出されるようになりました。当時のニセコのバックカントリーは、毎年死亡事故が起きる、日本でいちばん雪崩事故の多いエリアだった。これをなんとか防ぎたい。正確なデータをもとに、危ない日には「今日お天気はこうで、このへんが危ないから注意しろ」と知らせたいと考えたのです。
 自分の経験からも、雪崩は吹雪の最中かおさまった直後に起きると知っていました。意外に思われるかもしれませんが、データで見てもそうなのです。まずこのことを正しく伝えたい。そして境界ロープにいくつかゲートを設けて、パトロールを配置する。毎日の山の状況はインターネットで発信して、ゲートからゲレンデの外に出て行く人たちに、パトロールがそれを再確認していく。そしてもちろん、いつも危険だから行ってはいけないエリアのことや、万一事故が起きた場合の救助費用のことなども前もって情報を提供していく。
 予報のためには、山頂の気温や風の情報などを正確に公表する必要がありますから、そのために作られたのが、ニセコ雪崩事故防止協議会と、そこが管轄するニセコ雪崩調査所です。調査所では毎日定時にインターネットで、気象データと予報を日本語と英語で発信しています。
 
 しかしリフト会社や行政は当初、そもそもゲレンデの外に行くのが悪い。ルールを作ることは、外に行くことを奨励するから認められない。事故があったら誰が責任をとるんだ、という姿勢でした。管理側からすればまあ当然でしょう。でも責任論を語っても事故はなくならない。ニセコの世界に通じる大きな魅力は、降りしきる新雪の中を自由に滑られること。国有林を管理する倶知安の後志森林管理署なども交えて、話し合いを続けました。
 ひらふさんはわりと早い時期に、そこまでしても滑りたいという人たちがいる現実があるのだから、彼らの安全を守ることが重要ではないか、と考えてくれるようになった。そのことがビジネスにとってもメリットがあるわけです。そこには同時に我々からの、ツアーガイドたち(NWGA・ニセコウィンターガイド協会)や、自分の遊びたい気持ちを優先しがちなスキーヤーやボーダーたちへの働きかけがありました。特に「滑らせろ滑らせろ」という、若い連中の突き上げに対してね。ひとりの勝手な行動が、みんなの自由を奪っていくことにつながるんだゾ、と。そうして、「ルールは自由を守るためにあるんだ」ということ、そのことを多くの人が実感としてわかっていったのです。
 結局10年かけて、関係機関は私たちのやり方を「追認」してくれるようになった。それが現在の「ニセコルール」です。ここまで来るのに10年かかった。でもそのプロセス自体が、我々の財産ではないかと思います。えらい先生や役人がみんなをリードするのではなく、そうした権威に頼らず、逆に権威を下から巻き込んで、自前で作ったルールですから。
 
 ニセコのすばらしさは、まだまだ人に十分には伝わっていないと思う。外国人に対してはなおのこと。そしてニセコ自体も、我々の手と知恵でまだまだすばらしくなっていける。私はそう確信しています。
 
 
新谷暁生さん/ロッジ・ウッドペッカーズオーナー・ニセコ雪崩事故防止協議会ニセコ雪崩調査所所長・シーカヤックガイド

 
 
山本由紀男さんMG_9363.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像 1948(昭和23)年に岩内町で生まれました。親父が教員で、やがて曽我小学校(ニセコ町)の校長になったので、一家でニセコ(当時は狩太町)に移ります。
 自分はネィティブのスキーヤーだと思っています。意識するしないに関わらず、スキーがいつも暮らしの中にあった。小学生のころ、なにしろ半年近くが雪のある暮らしですから、冬の移動手段はみんなスキーでした。道に除雪なんか入りませんから、生活道路を歩くとしたら、馬そりが作ったわだちをなぞるしかありません。狩太駅の裏にあった雪印の工場に、酪農家が生乳を納入する馬橇です。だから隣の家に行くのもスキー。郵便配達もスキーをはいて郵便を届けていましたね。スキーは遊びというよりは日常の道具だった。
 しかし一方で、もちろん遊びでもあった(笑)。親父がスキー気違いで、体ができて体力がついてくると、冬はよく山スキーに連れて行ってもらいました。(ちなみに夏は、行き帰りとも歩きで曽我〔ニセコ町〕から岩内の海まで行ったりしました)
 父は戦前はクロスカントリー・スキーの選手で、戦後は教則本を何冊か書いています。当時のスキーは今とはまったくちがうカンダハー。リフトができる(1961年)のずっと前から、ここはスキーのメッカでした。道内はもちろん、本州からもいろんな人たちが滑りに来ていた。ニセコの山とスキーが本当に好きな人々です。
 
 50年前にリフトが作られスキー場ができたころ、多くの人が全日本選手権や国体などの競技大会の誘致に力を注ぎました。当時の全日本とか国体は、今とは比較にならないくらい、開催地にとって意義や魅力がありました。よそから人がどっと来て有名になれる。だから懸命に誘致に取り組んだのです。でも、リフトが付いてゲレンデができると、スキーを楽しむエリアが小さく限定されるようになってしまった。その前は技術さえあれば山のどこだって自由に滑ることができました。いまは、今日は深雪で滑られるかどうかなんて言ってますが、昔は滑るところには深雪しかなかった(笑)。でもだんだん、ゲレンデの枠の外に出てはダメ、ということになっていく。考えてみればおかしな話です。
 といっても、技術もない人がバックカントリーに出て行っては危険です。事実80年代以降いろいろな事故も起こってしまっていたので、スキー場側などから規制が強まった時期もあります。そのことを心配した有志が「ニセコルール」を作りました。「ニセコルール」の取り組みは、事故を心配して規制する側と滑り手の双方が協調を模索しながら、バックカントリーでより安全に楽しめることを目指しているのだと思います。ルールを守ることによって、本来自由であったはずのバックカントリーでの活動が戻ってくればいいと思います。
 
 1976(昭和51)年にひらふで「ゆきやま山荘」をはじめて、15年ほど営業しました。春になってお客さんたちとリフトのない斜面や原野で遊ぶとき、もっと自由に動きやすいスキーができないかと考えていて、当時は誰もやっていなかったテレマークスキーをやってみようと思いました。親父が残した本棚に戦前のテレマーク教則本があって、それを改めて研究して、海外の動向も学びながら、手探りでマスターしていったのです。ご承知のようにテレマークスキーとは、ノルウェーのテレマーク(テルマルク)地方で発達したスキーで、アルペンスキーやクロスカントリースキーの原型ともいえるもの。「登る、歩く、滑る」の3つを軽快にこなせる、山の移動手段としては最適のスキーです。やりはじめるとスキーの世界がまたひとつ大きく広がって、夢中になりました。仲間も次第に増えていって、彼らがまた、日本各地にテレマークを広めていきました。
 
 ニセコの自然の中にお客さんを案内するのには、クロスカントリースキーもとても有効です。特に雪がしまって天気が良くなる春先は最高。僕は子どものころから楽しんできたことですが、野鳥を見たり、日なたのフキノトウやドンガイ(イタドリ)の芽を採ったり。沼でユスリカのイミテーションフライをエサにオショロコマを釣ったり。景色だけじゃなくて、動くもの、生きたものを相手にすると自然はもっともっとスゴイ世界を見せてくれる。ゲレンデをサッと滑っただけで帰ってしまうのじゃ、もったいないですよ。
 ひらふをベースにしたそういう遊びを、もっとたくさんの人が味わうようになったら、ニセコもさらに良い方向に変わっていくと思う。もちろん、ルールやマナーをしっかり守ることは必要。自然を深く楽しむために、土地のガイドといっしょに山に入るという遊び方が、もっとふつうになれば良いのです。ガイドの価値や役割を、さらに多くの人に知ってほしい。いわばそういう文化を根気よく育てていかなければ、と思っています。
 
ニセコは、さほど広くはないこのエリアに、とても多彩な自然があります。羊蹄山、尻別川、ニセコアンヌプリ、そして北に山を下りれば日本海–。僕は、体も心も、この風土に育てられました。この土地で楽しくてすばらしい体験をたくさんしてきて、これからもたくさんの人と、そうした時間を共にしたい。
 ひらふスキー場50周年を機に何かを考え直したり、新しくはじめることがあるとすれば、僕は発想を大きく変えることだと思う。つまり、ただ一方的に山を利用したり消費することはもうやめよう。今までこんなにたくさんいろんなことを楽しませてくれた山に対して、我々が何かを返していくことはできないだろうか、と考えてみる。そうすると、山とのつきあいも変わっていくでしょう。じゃあ具体的に何ができるのか–。我々は次の時代のために、それをみんなで考えて、実行していく時期に来ているんだと思っています。
 
山本由紀男さん/日本テレマークスキー協会(TAJ)名誉会長・元プロスキーヤー・元 SIA公認ニセコプロ・スキースクール校長

レジェンドの系譜掲載

ひらふには、若い世代から絶大な敬愛を集める、レジェンドと呼ばれる人々がいます。この地に深く根ざしながら、山と雪の領域で世界第一級の実績や知見をもつ男たちです。歴史ブログ「レジェンドの系譜」では彼らの肉声インタビューを掲載致します

 
 
 私たちはふたりとも上士幌町(北海道十勝管内)のJA(農協)職員だったんです。勤めて10年くらい経ったころ、とても楽しい職場ではありましたが、「自分たちの人生はこのままでいいのかな」と考えるようになりました。結婚して1年を過ぎ病気を発病した私は、子育てもできず、とりあえず買いたいものはある程度買えるかな、というくらいの生活の中で、「でもこのままでは大人として成長できないんじゃないかな」、と危機感を抱いていたんです。「もっと苦労をしなきゃ!」と思いました。そんな矢先私の父が他界し、人間(ひと)が大好きだった父の影響もあり、もっといろんな人間(ひと)と出会える仕事がしたいと思うようになりました。
 最初は小樽で喫茶店を開こうと考えていました。でもなかなか良い物件が見つからず(あっても手が届きませんでした)、まあいずれは家を建てるかも、とたまたま入ったモデルハウスで、運命的な出会いをしてしまったのです。
 その住宅メーカーの支店長さんが、いつもはいないはずなのにその日はたまたまモデルハウスにいて、私たちを見るなり「何か面白いお客さんだ!」と思ったのだそうです。そんなこんなで意気投合し、話の中から「何か」=「ペンション」。「ペンション」=「ニセコ」ということになったのでした。1990年5月のこと。
 わずかひと月で土地を手に入れました。12月に、間取りや外観はもちろん、カーテンの色までも決まって少々浮き足立って迎えた新年、突然、住宅メーカーからの呼び出しがありました。「この話はなかったことになるかもしれません」、と。
 担当の支店長さんが私たちには解らない事情で会社を辞めてしまい、夢の実現は振り出しに戻ってしまったんです。でもそんなことであきらめるわけにはいきません。いつもはおとなしい夫が「絶対やるゾ!」と宣言して、そんな姿にびっくりしたり。替わった支店長さんもがんばってくれて、結局91年12月に開業に漕ぎつけました。いま思えば、この事件(笑)は私たちの「本気」が試されたんだと思います。
 「あいらんど」という名前は、色んな愛がたくさん集まる場所になってほしいと願ったから。ふたりの仕事の分担は、主人は厨房で、開業前には先輩のペンションさんで宿泊しながら、料理の勉強をさせてもらいました。私の仕事は掃除とおもてなし! 特にお話です(笑) 。
 開業当初はエージェントに頼った営業で、ちょうどバブル景気がはじけたタイミングだったので、見る間に料金を買い叩かれるようになりました。このままでは無理かも! と追い詰められる中で、インターネットの予約に切り替える決断をしました。単なる安さじゃなくて、ちゃんとひらふの一員として、ここで生きる責任を感じながら、お客さまを心からおもてなししたいと思ったんです。
 本当に毎年厳しい現実と向き合う中で、私は頭をベリーショート(わかりやすく言えば「坊主頭!」です)にしました。裸の心でゼロからがんばろう、という気持ちです。95年の夏でした。ちょうどその年はオウム真理教があの恐ろしい事件を起こしていたので、美容師さんは、「坊主にしてもいいけど、せめて色を変えてね」と言いました。その結果、「猿キャラ」の私が誕生したわけなんです。
 スキーですか? 大好きと言うほどではなかったんですが、高1から始めたまま我流で滑っていました。でもここに来てお客さんと滑る機会が増えるうちに、「このままではお客さんのスキー人生を狂わせてしまう」と思って猛練習。がんばって1級を取りました。いまは主にスノーボードをやっていますが、49歳で念願のインストラクターになれました! 老体に鞭打って頑張ったなぁ(笑)。 今でも、お客さんと滑るときに少しでもいいサービスができるように、できる限りトレーニングをしてますよ。
 ニセコにはすばらしい山と川があって、日本海もすぐそこ。自然いっぱいのワンダーランドです。中でも、羊蹄山に向かって滑るこのロケーションは私の大好きな景色でもあります。
 あれから20年が過ぎ、オーストラリアをはじめとして外国からのお客さまがドッと増えたので、気がつけば、「あれ? ここは外国?」っていう毎日ですが、おかげで英語も話せるようになって、何ともエキサイティングな人生を楽しませてもらっています。一番の武器はボディランゲージですけどね。
 商売を離れてお客さんの立場に立ったり、違う環境を知るために、他のスキー場にも足を運びました。それぞれに魅力がありますが、でも私は、やっぱりここがいちばん好き。
 お客さまは、私たちふたりの人生に登場してくださる、最高の宝物! そう思っています。もちろんサービスの対価として料金はいただきますが、お客さんとは、家族のように、まずひとりの人間として出会いたい。おかげで私たちには、大家族ができちゃいました。
 ひらふは、人を幸せにする所だと思うんです。それは、地域全体の力の賜物。
 人間(ひと)が大好きな私たちにとって、ペンションという仕事というか生き方は、もうやめられません。出会ってくれた人間(ひと)やお客さまの笑顔が、私たちの最高の財産なんです!これからもずっとここで生きていきます。
DSC_3916.jpgのサムネール画像

ペンション・あいらんど・石川美行さん 加鶴子さん