NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2011年3月
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アーカイブ: 2011年3月

 
 
 もるげんろーと(Morgenrot)は、1981(昭和56)年の開業です。ひらふのペンション街の夜明けの時期。まさにMorgenrotはドイツ語で朝焼けという意味で、青春時代を山に捧げていたので、山の言葉からとった名前です。ペンションでもロッジでもなく、「ヒュッテ(ドイツ語で山小屋)もるげんろーと」です。
 生まれは、せたな町(北海道檜山管内)で、郵便局員だった父から家の裏山で教えてもらっていたので、スキーは子どものころから大好きでした。父は転勤して来た職場の同僚にスキーを指導するくらいうまかったですね。中学校からは自立心を養わせたいという父の方針で、単身、青森の叔母の家に下宿しました。向こうでは雲谷(もや)や大鰐(おおわに)のスキー場で滑っていました。青森市内の雲谷スキー場には、すでにリフトが設置されていました。
 はじめてひらふに来たのは高校1年生。ニセコ高原リフトができで少したったころです。国鉄比羅夫駅が人であふれていたことを覚えています。駅からスキー場までの国鉄バスに乗りきれなくて、歩いて行きました。帰りは、ゲレンデから駅までそのまま滑りました。そんな無茶は、今では考えられないことですね。
 当時からニセコはずっと大好きな土地で、大人になって、札幌オリンピックがあった1972年に結婚したとき、新婚旅行は迷わずニセコにしました。
 学生時代は、山にのめり込みました。渓嶺会という山岳会で、飯豊(いいで)連峰(福島・新潟・山形)などで沢登りに明け暮れたものです。家内と出会ったのも、山でした。また、霧ヶ峰(長野県)のジャベルというヒュッテに居候していました。1950年代から現在までつづく人気の宿で、登山界のそうそうたる人たちから愛されていました。創業者の信念で、電信柱は風景を壊してしまうという理由で当時は電気を引かず、熱源は薪や炭でした。なだらかな霧ヶ峰高原が遠望できる2階のテラスにはロッキングチェアが3つ置いてあって、品の良い客がのんびりパイプをくゆらせていたりする。ああ自分もいつか山小屋を経営したい。それが若い私の夢になりました。
 といってもいきなり自分のヒュッテはもてませんから、まず繊維業界に就職しました。京都、東京、埼玉と転勤があって、やがてついに札幌に転勤となりました。そして会社の方針とちょっともめたことをきっかけにして、大好きなひらふに移ったのです。家族の暮らしを背負った35歳でした。
 サラリーマン時代から、ボーナスを貯めていまの場所に土地(まず50坪)は買っていました。そのころまわりは雑木林で、とにかく何もなかったのです。林の中には、以前、畑や田んぼであったところから出たと思われるズリ(石)が積んでありました。もちろんまだ電気も水道もなかった。
 建物の建設資金を工面するために国民金融公庫や信用金庫に日参しましたが、融資を受けるまでに1年以上かかりました。なにしろ当時は、ニセコでペンションなんて無理だと言われていたのです。お客さんが来る冬が終わってしまえばどうするんだ、と。なんとかオープンにこぎ着けましたが、最初のころは前職の延長の仕事も続けて、二足のわらじを履(は)きました。
 春のチセヌプリから大谷地、神仙沼などをエリアに、ネイチャーガイドもしました。そうして自分もこの土地をいっそう深く知ることができたのです。ニセコの自然は、スケールはありませんがとても多様です。生物相や地質にいたるまで、いまでもまだ科学的に未解明の分野がたくさんあるといいます。どろ亀さんと呼ばれて親しまれた高橋延清先生(東京大学名誉教授)も、よく遊びに来ていました。
 よそから移り住んだ者にとって、子どもが通う学校の存在はとても重要です。学校は子どもたちのものだけではなく、親を地域と結んでくれるものでもある。子どもや先生を通した大人のつきあいが大切なんです。
 ひらふではいま、倶知安の市街にある倶知安西小学校本校と、地元の倶知安西小学校樺山分校のいずれかを選んで通学させることができます。以前は、本校と統合して廃校とする動きもありましたが、町議会と行政が、歴史と自然に恵まれた樺山分校に子どもたちを通わせたいという、我々の意も組んでくれたことで、分校も存続されました。
 地域の活力が失われていくと、学校は存続できません。一方でまた、学校を通して地域の活力を高めていくことができる。
 21世紀になって海外から移り住む人々も増えるようになって、これまでになかった活力がこの地域で生まれています。これを学校に活かさない手はありません。
 恵まれた自然の中で6年間をすごした私の子どもたちは、その後4人のうち3人が幼稚園・小学校・中学校と、それぞれの教員になりました。もうひとりも洞爺湖のビジターセンターで自然学習の仕事に携わっています。自分が受けた教育を通して、学校が持つ意味や可能性を自分の人生に重ねたのだと思います。
 いま、うちでは客室を減らして絵本カフェを設けています。私たち夫婦が年を重ねて、昔ほどがむしゃらに働けなくなったことと、ひらふにいらっしゃる子どもたち、とりわけ外国の子どもたちの居場所を作ってあげたいと思ったことが動機です。絵本なら、言葉の壁も越えることができますから。
 たとえスキーをしなくても、お母さんや子どもたちが、ここで気持ちの良い時間をゆったりとすごしてほしい。学校に対する思いと共通しますが、子どもたちが巣立って家内とふたり、この場所を少しでも地域の未来に役立つ場所にしたいと思っています。
IMG_09520小.jpgのサムネール画像

ヒュッテ もるげんろーと 藤井 俊宏 さん

 
 
 遊牧民のスタートは、1987(昭和62)年。当時は森の中の旅人宿でしたが、いまこのあたりは街になってしまいました。もう24年も経ちますからね。
 福岡出身の僕がなぜひらふに来たのか。それは、旅好きの若者が旅の終着点にたどり着いてすっかりおじさんになった話、として語れるかもしれません。
 今でも毎年バックパックを背負ってアジアを歩いていますが、若いときからとにかくあちこちを旅していました。世代的にいうと、最後のカニ族というところでしょうか。最初に北海道に来たのは、30年以上前で大学生のころ。倶知安駅の裏手にあったニセコ・ユースホステルに泊まりました。ニセコや北海道のすばらしさに感動し、その後も北海道の旅をつづけました。卒業後に大手のメーカーに務めることができ、配属の希望が通って札幌勤務となりました。
 25歳で退職して、海外はインドなどにも行ってみました。旅で覚えた英語が今になって宿業に役だつとは思いもしませんでした。フリーターという言葉もない時代でしたが、バイトをしてお金が貯まると出かけていく。そんな暮らしを続けたのです。さすがにそんな調子で一生をおくるわけには行きませんから、やがて 28歳で結婚しましたが、家内とは道東のユースホステルで知り合ったのです。自分にとっては会社勤めにはいろいろ理不尽なこともあり、関連会社の社長からいまの土地を譲っていただき、ここで旅人宿をはじめました。30歳でした。開業にあたっては、銀行や親など、説得しなければならない相手がたくさんいました。
 
 70年代、80年代のひらふには。全国からいろんな若者が流れ着きました。カニ族の次は、バイクで旅をするミツバチ族。彼らの中には、秋になると道東のシャケの加工場で住み込みのバイトをして(いわゆる「シャケバイ」というやつ)、冬になるとひらふのスキー場で働く、なんていう連中も少なくなかった。スキー場も住み込みですから、お金はしっかり貯まります。あいた時間にスキーもたっぷり楽しめますしね。そうして稼いだ元手で春から夏にまた旅をする。
 ひらふには今も昔も、いろんな若者を受け入れる自由な気質があります。人生の次のステップに進むために、冬のあいだはペンションで居候(ペンションの手伝い)をする、リフトマンをする、とかね。まあ昔に比べるとそういう人間は少なくなったけれど。その代わりいまは、外国人がやって来る。だからひらふはやっぱり面白いんです。
 
 遊牧民をはじめたころ、オーナーがろくに滑られないんじゃお客さんも来ないだろうと思って、師匠について、ずいぶん滑りました。それまでは万年ボーゲンだったのです(笑)。パウダーを滑られるようになると、がぜん面白くなった。長男、次男と私たち夫婦で熱中したものです。
 こんな環境で暮らしているのですから、息子たちには、ほんとにのびのび育ってほしかった。ゲームばっかりやってる子にはなってくれるなよ、という気持ち。だから2人とも一流のモーグルチームに入ったのです。特に次男(吉川空)は最初からモチベーションが高くて、大学生になったいまではソチ五輪(2014年)を狙うところまで来ています。
 80年代にペンションをはじめて今でも続けている人たちには、ニセコが大好きな上に、ここで子供が生まれ、子育てをしてきた人たちが多いのです。21世紀になって地価が急騰して、土地を売りませんかという話がうちにきたときも、息子が樺山分校(倶知安西小学校)に元気に通っていた時代を経て今がある僕たちは、迷うことなくNO! と言えました。売ってしまった人たちは、地域とのそういう繋がりが少ない方もいたと思います。
 
 ひらふの魅力は、なんといっても山と雪。これに尽きます。うちには、長野や新潟など本州のスキーの本場からの常連さんも多いのですが、彼らは最初、「こんな雪で滑ったのははじめてだ!」と感動してくれました。ここにしかない雪を求めて、うまい人ほど熱心に通ってくれる。そういう図式は海外のお客さんにもあてはまります。僕の印象では、そのはじまりは長野オリンピック(1998)。あのときたくさんの外国人が日本の冬と出会い、ひらふにも大勢の外国人スキーヤーが来ました。彼らもまた「こんな雪で滑ったことない!」とばかりに感動してくれて、国に帰るとひらふのことを口コミでどんどん広めてくれました。2000年前後の数年間は、白人のスキーヤーが毎年倍々で増えていきました。
 でも最初のころ、うまい外国人はゲレンデにいなかったですね。みんなお目当ては、パウダーの天国、バックカントリー。そうなると事故の心配もあるけれど、でもニセコのスキーはもともと山スキーからはじまったわけだから、ただ厳しいルールを作れば良いというものでもない。そうして苦労しながら今のニセコルールができていったわけですが、近年はゲレンデでもうまい外国人がたくさんいるし、生まれてはじめてスキーをしてみた、なんていうアジアのゲストも増えています。
 雪へのあこがれは、すべての人間がもっているものだと思うし、南の人ならなおのこと。彼らにひらふをステキに体験してもらい、リピーターになっていただく。そのためのいろいろな工夫が、いまのひらふにはもっと求められているのだと思います。
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旅人宿ニセコ遊牧民・吉川邦弘さん