NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2011年2月
« 1月   3月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

Recent blog article

アーカイブ: 2011年2月

 
 フルノートのオープンは1982(昭和57)年です。ちょうど東山プリンスホテル(現ニセコヴィレッジ)が開業した年。
 
 私の生まれは島根県の隠岐島(おきのしま)です。中学生のとき、鳥取の大山(だいせん)ではじめてスキーをして、それ以来大好きになりました。
 大学生活は東京でおくりましたが、そのころはもう立派なスキー狂いで、戸狩(長野県)なんかに行っていました。1泊2食650円とか、とにかく安かったのですよ。暖房はコタツだけ、なんていう民宿でしたが、そこのおばさんにとてもよくしてもらいました。またジャズにも夢中になって、ジャズ研でドラムに熱中しました。
 卒業すると東京で大手保険会社に勤めました。そのころの冬はもっぱら万座(群馬県)とか苗場(新潟県)通い。ニセコひらふにはじめて来たのは札幌オリンピックがあった年(1972年)でした。なんて大きなスキー場だろう、と思いましたね。それからここが、憧れの地になったのです。だから新婚旅行は山田温泉!(ひらふ)。会社には札幌に転勤したいと毎年言い続け、1980(昭和55)年にようやく願いがかないました。
 
 札幌では代理店と銀行回りの営業で、ゴルフも仕事のひとつでした。冬はスキー、夏はゴルフやテニス、釣りと、北海道の良さを実感するにつれて、もう東京になんか帰りたくないわけです(笑)。なんとか北海道で暮らしたい。そして、住むならひらふです。当時はペンションではなくロッヂと言っていましたね。まずアンヌプリスキー場近くのペンションを見せてもらって、よしコレだ、と思いました。ペンションの親父になろう、と。なんとか金策を進めて、ひらふのこの場所で82年に開業にこぎつけました。
 
 冬はスキーですが、夏の商品をどうするか。テニスとジャズで行こうと考えました。どちらも自分が大好きなもので、それでお客さんに喜んでもらえたら、こんなに幸せなことはありません。テニスは元の会社のサークルでよくニセコに来ていましたし。当時ゴンドラ下にコートが6面あり、自分でも4面作りました(現在は5面)。ジャズは、スタジオを作ってバンドやジャズ研の合宿ができるようにしたのです。スタジオはその後、ライブジャズの店「ハーフノート」へと発展しました。
 
 スキーは、はじめは大手ツアーのおこぼれをもらうような状態からはじまって、やがて若い連中がベンチャー的に立ち上げたツアー会社とも組むようになりました。そういう会社に浮き沈みはつきものですべてうまく行ったわけではありませんが、常連客を着実に増やすことはできました。
 ひらふは、外から来た人間をあたたかく迎える土地です。だから僕以降もほんとにたくさんの人たちが移り住んでペンションをはじめた。本州だとお墓を建てるまでその家は信用できない、なんて気風がありますが、ここはまったく違うんです。
 90年代には弟一家も東京から移り住んで、僕と同じくペンション(ウッディノート)をはじめたし、今では両親もここに住んでいます。僕や弟が中心になって、ログハウスを建ててあげたのです。
 
 そうして21世紀になってオーストラリア人たちがドッとやってきた。自分にとってはそこからまたグンと楽しくなってきました。ペンション街には、外国人相手の商売が苦痛で去っていった人もいたけれど、僕は面白いと思った。ランドサービスも次第に充実して、そんな流れがもう10年続いています。外国人の中には楽器ができる人も多くて、夜は彼らとセッションをしたり。スタジオには卓球台もあって、僕を負かす人はちょっといません。もうずっと、外国人との不敗神話を守っています(笑)。
フルノート・島谷さん.jpgのサムネール画像

ペンション フルノート・島谷昭一さん

 
 グラン・パパの開業は1985(昭和60)年。ペンション街ではごく早い時期のオープンです。
 私の学生時代は、まだ学生運動の残り火のある1970年代。多くの若者には、敷かれたレールの上をただ進むだけの人生に賛同できない気持ちがありました。私はあちこちによくふらりと旅をしました。ヨーロッパを貧乏旅行したとき、ドイツのあるB&B(Bed & Breakfast)の宿で忘れられない体験をしました。朝飯は全員が大きな長テーブルで食べるのですが、ドイツやイタリア、イギリスなど、いろんな国籍の人たちが10人くらい、自然に話を交わしながらなんとも気持ちの良い時間を共有しているのです。会社勤めをしているような大人が多かったと思います。日本ではまったくありえない光景の中に自分がいて、「ああこれはいいな!」と思いました。大学を出てサラリーマンになって、ほどなく結婚しましたが、その時のことがずっと胸に残っていました。
 
 サラリーマン生活はやはり自分には向いていなくて、家族でできる仕事をしようと思いました。そこで、ペンションです。実家が弘前と札幌で旅館をやっていたので、宿屋の勝手はわかっていました。さてどこではじめるか–。
 私は札幌生まれですから、ひらふには子どものころから何度も来ていました。中学生になると友だちと国鉄とバスを使って。会社を辞めてから本州のリゾート地もいくつか見に行ったのですが、ひらふのようにすばらしい雪質と圧倒的な積雪を誇る土地はありません。雪がつねに降り積もるひらふなら、深雪を求めて朝一に行く必要もないのですからね。やはりここではじめようと決めました。いまの場所に決めたのは、当時はうちの下にはペンションは一軒もなく、羊蹄山を正面に見すえるロケーションが気に入ったから。実は売約済みの土地だったのですが、どうしてもここではじめたくて、交渉して自分が買えるのなら、と賭けをする気持ちでした。それから26年ですから、賭けは成功だったのでしょう(笑)。
 
 グラン・パパもB&B の宿としてスタートして、その後チーズ・フォンデュのレストランをはじめました。ご存知のようにこの10年くらい、オーストラリアをはじめとした外国人のお客さまがとても増えました。朝食はビュッフェスタイルで、テーブルは分割されていますが銘々が料理を取りに立って動きながら、すれ違ったり立ち止まったりして、自然な会話が生まれています。若き日の自分があこがれたような光景が、毎日繰り広げられているわけです。
 ペンションは、設備ではホテルやコンドミニアムには勝てません。その代わりお客さんと宿、お客さん同士の親密なコミュニケーションを作り出すことができる。それが宿ごとの味わいに育っていくのです。宿屋のサービスの鍵を握るのは、女主人です。だから私はあまり全面に出ず、サポート役が多いのですが、ご家族では、特に奥さんが十分に楽しめているか、気を使います。奥さんがハッピーだと、家族はみんな笑顔になるものですからね。
 
 現在のひらふのようなインターナショナルな土地にある宿では、西洋基準のサービスや設備などが重要でしょう。でもここはヨーロッパではなく日本ですから、基盤にあるのは日本の文化です。もちろん京都や江戸の文化を付け焼き刃で取り入れても滑稽なだけですから、人との接し方や食卓のたたずまいなど、もっと広く深い意味での日本の文化、といっておきましょう。そこを間違ってはダメだと思います。
 いま息子は、私がヨーロッパを旅していたときと同じ年頃になりました。そんな影響もあり彼はドイツでも学んだのですが、この宿の跡を継ぐことになっています。新しい世代がこれから作っていくひらふに、親として、同業の先輩として、私とワイフはとても期待しています。
 
IMG_0373.JPGのサムネール画像

ペンション グラン・パパ・二川原 和博さん

 
 
 
 はやくからスキー場周辺でホテルやペンションを経営してきた皆さんの声を、シリーズでお伝えしましょう。まずは、ヨーロッパ・スタイルの山岳ホテル、「ニセコパークホテル」の福井実さんです。
……………………………………………………………………………
 
 ニセコパークホテルは1977(昭和52)年の開業です。実家が倶知安駅前で旅館(福井旅館)をやっていまして、ひらふに支店を出すことになりました。両親にサポートしてもらいながら、当時26歳の私がそこを任されたのです。倶知安で生まれ育った私ですから、もちろんスキーは大好きでした。東京の大学へ進学すると基礎スキーに夢中になり、志賀高原(長野県)や白馬(同)など本州の人気スキー場にもよく行って見聞を広めていたので、それが役に立ちました。
 
 当時の宿はまだ全部で10軒くらい。いまでは想像しづらいかもしれませんが、ひらふ坂ではゲレンデから見て私のところが一番下の方だったのです。客室定員は80名くらい。なにしろ自分がスキー好きですから開業前は、空いた時間で毎日すべられるゾ、と楽しみにしていました。でも実際に営業をはじめてみるとそれどころではありません。お客様がいる以上24時間何があっても気が抜けませんからシーズン中は事務所で寝泊まりすることになり、毎日必死でした。そんなところがお客様から評価されていって、常連さんを増やすことができたのだと思います。
 
 時代の流れにも恵まれました。70年代の後半から本州からのスキーツアー商品ができて、経営は右肩上がり。ホテルも増築を重ねていきました。90年代のはじめまで、いま思えば本当に良い時代だったですね。年末年始や連休などはシーズン前に予約が埋まってしまいます。みんなでウェアを揃えた社会人のスキークラブなども、たくさんいらっしゃいました。学校の冬休みには札幌などからも家族づれがどっと来て、そこで宿が取れなかったご家族が、1月末からどんどん入りました。ただしさっぽろ雪まつり期間中は、客足がグッと落ちます。スタッフへはそこでいったん休みをあげて、雪まつりが終わるとまたてんてこ舞いの忙しさが戻ってくる。
 
 ハイシーズンはほとんど毎日満室で、朝ご飯とその片付けが終わるころにはもうクタクタです。すこし休むと全館の掃除と夕食の用意。夕食が終わったと思っても、まだ夜食の用意をしなければならない。ですからシーズンが終わると、疲れ果ててしばらくは何もしたくないのです。そのうち同業者たちのあいだで、「今年は旅行どこへ行くの?」なんていう話が出てきます。冬のあいだがむしゃらに働いたのだから、オフには毎年のように家族で海外旅行を楽しむ、という話も珍しくありませんでした。
 
 90年代に入ってバブル経済がはじけ、阪神淡路の大震災、拓銀(北海道拓殖銀行)の破綻に代表される日本経済の失速などがつづき、80年代のことは遠い昔話になってしまいました。でもあの時代があと5年続いたらどうなっていたか–。ちょっとしたお金持ちにはなったでしょうが、果たして体がもっていたかどうか、心配になります(笑)。
 
 2000年代に入ってオーストラリアをはじめとした海外の方がたくさんいらっしゃるようになり、ひらふの新しい歴史がまた動き出しました。ホテルやペンションの経営も、そろそろ2代目が表にでてくるようになっています。ひらふの財産はなんといっても、すばらしい雪と山。これがある限り私たちは、この宝物を末永く活かしていくために、これからも努力を重ね知恵を絞っていかなければなりません。
IMG_0324小.JPGのサムネール画像

ニセコパークホテル 福井実さん