NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第24回アルペンリフトの誕生-3
すべてのタイミングがリフト誕生に結びついた

 永江勝朗(かつろう)さんが語る話を続けましょう。今回は、1950年代から60年代にいたる時代です。
 ひらふスキー場の土地は、標高400メートル付近を境界として上は国有林、下は町有地です。戦前まで、現在の町有地を所有していたのは、ドイツの資本が入った馬込産業という企業でした。敗戦後この土地は、連合国への賠償の一部として管理されていました。倶知安町ではこの払い下げを受けるべく1949年から運動を進め、53年に買収に成功します。広さは493ヘクタール。この取得によって、やがてはじまるスキー場開発が可能になったのです。

スキー場が開設する以前のひらふ1961年春頃

 
 1959年1月。砂川市長選へ立候補するために辞任した松実菱三町長の後任を決めるために、倶知安町長選挙が行われました。当選したのは、後志支庁長だった高橋清吉さんです。高橋町長は企業誘致と観光振興を積極的に進めました。1959年の冬、世界のアルペンスキー界のスターであったトニー・ザイラーが日本で映画を撮るという情報をキャッチするや、すぐさま誘致運動を開始。映画は結局、リフト施設のある蔵王スキー場(山形県)で撮ることになり、わがまちにもリフトを、という気運がいよいよ盛り上がりはじめます。ひらふのリフトの源流となった合板製造企業、北海道ファイバーボード(株)を誘致したのも、結果として企業誘致と観光振興の両面をかなえた高橋町長の実績となりました。
02リフト建設現場bk042.jpgのサムネール画像

リフトの建設作業風景1961年夏

 
 1960年。町内で倶知安橋とひらふ橋、ふたつの橋が永久橋となりました。これによって山へ機材や資材を上げることができるようになり、冬には重機による除雪も可能になります。また樺山と山田部落のあいだにある深い沢を渡して「せんのき大沢陸橋」が竣工しました。さらにこの60年。山田部落に電気が通ります。倶知安駅が改築され、観光の玄関ができたのもこの年。そして1897(明治30)年の開業以来国有林の中のあったひらふの山田温泉が、1961年の秋にふもとに移設されました(同温泉は2010年の秋に取り壊されました)。
03オープン日ニセコ高原 082 .jpg

第1・2リフトの開業日1961年12月17日
左側に見えるのは、当時新装なった山田温泉。
その右上後方にはそれ以前の山田温泉の建物も見えます。
(写真をクリックすると大きな写真も見ることができます。)

 
 永江さんは、こうした動向のどれかひとつが欠けても、1961年のリフト設置はなかったのではないか、と語ります。スキー場の長い前史を持つひらふに、ついにリフトが架かったこと。それは、多くの人々が関わる土地のさまざまな営みの上に実現した、必然的な出来事だったと言えるかもしれません。
04昔のひらふ坂bk011.jpgのサムネール画像

スキー場が開設する以前のひらふ坂1961年春頃。

 
 
05近年のひらふ坂DSC_5777小.jpgのサムネール画像

そして、こちらは近年のひらふ坂。
50年の歴史の中で、今は海外からのスキー客も
行き交うメインストリートに。