NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2011年1月
« 12月   2月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

Recent blog article

アーカイブ: 2011年1月

 永江勝朗(かつろう)さんが語る話を続けましょう。今回は、1950年代から60年代にいたる時代です。
 ひらふスキー場の土地は、標高400メートル付近を境界として上は国有林、下は町有地です。戦前まで、現在の町有地を所有していたのは、ドイツの資本が入った馬込産業という企業でした。敗戦後この土地は、連合国への賠償の一部として管理されていました。倶知安町ではこの払い下げを受けるべく1949年から運動を進め、53年に買収に成功します。広さは493ヘクタール。この取得によって、やがてはじまるスキー場開発が可能になったのです。

スキー場が開設する以前のひらふ1961年春頃

 
 1959年1月。砂川市長選へ立候補するために辞任した松実菱三町長の後任を決めるために、倶知安町長選挙が行われました。当選したのは、後志支庁長だった高橋清吉さんです。高橋町長は企業誘致と観光振興を積極的に進めました。1959年の冬、世界のアルペンスキー界のスターであったトニー・ザイラーが日本で映画を撮るという情報をキャッチするや、すぐさま誘致運動を開始。映画は結局、リフト施設のある蔵王スキー場(山形県)で撮ることになり、わがまちにもリフトを、という気運がいよいよ盛り上がりはじめます。ひらふのリフトの源流となった合板製造企業、北海道ファイバーボード(株)を誘致したのも、結果として企業誘致と観光振興の両面をかなえた高橋町長の実績となりました。
02リフト建設現場bk042.jpgのサムネール画像

リフトの建設作業風景1961年夏

 
 1960年。町内で倶知安橋とひらふ橋、ふたつの橋が永久橋となりました。これによって山へ機材や資材を上げることができるようになり、冬には重機による除雪も可能になります。また樺山と山田部落のあいだにある深い沢を渡して「せんのき大沢陸橋」が竣工しました。さらにこの60年。山田部落に電気が通ります。倶知安駅が改築され、観光の玄関ができたのもこの年。そして1897(明治30)年の開業以来国有林の中のあったひらふの山田温泉が、1961年の秋にふもとに移設されました(同温泉は2010年の秋に取り壊されました)。
03オープン日ニセコ高原 082 .jpg

第1・2リフトの開業日1961年12月17日
左側に見えるのは、当時新装なった山田温泉。
その右上後方にはそれ以前の山田温泉の建物も見えます。
(写真をクリックすると大きな写真も見ることができます。)

 
 永江さんは、こうした動向のどれかひとつが欠けても、1961年のリフト設置はなかったのではないか、と語ります。スキー場の長い前史を持つひらふに、ついにリフトが架かったこと。それは、多くの人々が関わる土地のさまざまな営みの上に実現した、必然的な出来事だったと言えるかもしれません。
04昔のひらふ坂bk011.jpgのサムネール画像

スキー場が開設する以前のひらふ坂1961年春頃。

 
 
05近年のひらふ坂DSC_5777小.jpgのサムネール画像

そして、こちらは近年のひらふ坂。
50年の歴史の中で、今は海外からのスキー客も
行き交うメインストリートに。

 永江勝朗(かつろう)さんは、アルペンリフトのコースや、宿泊のできる山荘の設計に没頭しました。スキーヤーが自然に滑り込んでくる低地にリフト山麓起点を設けたり、リフト詰所と山荘事務所を合体させるなど、高原リフトでの4シーズンの経験をもとに新たな工夫もなされます。限られた予算の中での突貫工事で、備品類は町内を駆け回って調達したといいます。ふたつの山を重ねたニセコ高原リフトの三角マークに対して、永江さんは丸い枠の中にリスを入れたマークを作りました。
wh001小.jpgのサムネール画像

ホテルニセコアルペンロゴマーク
永江さん考案のリスのマークは今も使われています

 
 リフトは当初、国有林の中の「馬の背」付近を降り場とする計画でした。しかし営林署への申請に手間取り、陸運局への運行申請に間に合わせるには、すでに許可の出ている町有地内に置かなければならなくなりました。延長645メートル、高低差150メートル。原動所への電気の引き込みは、北海道初の地下ケーブルとしました。
 宿泊の山荘の料金は、1泊2食で1000円。民宿よりは高いものの、大きなポークステーキをメインにした豪華な夕食を提供します。社用車もまだ持てない中で、少数精鋭のスタッフが昼夜奮闘を重ねました。
 
 しかし創業1年目の成績は、あえなく低迷。高原リフトが2機なのに対して、サンモリッツリフトは1機。しかもリフト山頂が、国有地の高さに届かない中途半端なものだったからです。一方で山荘の売り上げは健闘したため、立地の良さは裏づけられたといえます。
 
 2シーズン目を迎える1966年。なんとしても第2リフトの建設が急務です。永江さんは資金確保に奔走し、ニセコスキー連盟理事長秋山有俊(倶知安町金毘羅寺住職)さんのアドバイスなどを受けながら、800メートル台地に第2リフトの山頂点を据えました。高低差300メートル、リフト延長1000メートル。当時としては画期的な挑戦です。9月に起工式。工事は急ピッチで進められ、1967年の年明けに運行開始の目途が立ちました。
 
 しかし突然、大きな障害が立ちはだかります。電力不足です。当時スキー場の電力は、山田部落が持っていた電力線をニセコ高原観光が買い取っていました。サンモリッツリフト社でもこの電気を使う予定でしたが、この電力は2社が利用するには十分なものではありませんでした。
 
 そこで、サンモリッツリフト社は電力をディーゼル発電に切り替え、予定通り67年の1月1日から第2リフトの運行を開始しました。
 この事をきっかけにサンモリッツリフト社とニセコ高原観光は袂を分ち、以後、両社はリフトの拡大を互いに競い合いながら、ひらふスキー場の現在の姿の基礎を築くことになります。
 
 これが、ひらふに2社のリフトが誕生したいきさつです。専務取締役として長年サンモリッツリフト(株)を率いた永江勝朗さんは、1986年に63歳で退任されました。

新年あけましておめでとうございます。
本年も、当ブログをよろしくお願い申し上げます。
 
 さて、昨年末の当ブログでもご紹介致しました年末恒例のたいまつ滑走。年末のスキー場を盛り上げたいという気持ちを抱いた若き有志の方々の手で1975年に始められて以来35年目となる今回も、180名の方々が参加され、新年のカウントダウンとともにたいまつをかかげ華やかに滑走を楽しまれました。
 
 今年は、雪も降り止み視界良好の中、1000人を越えるギャラリーの皆さんにもお集まりいただきました。滑走参加の皆さんの中には、遠く九州は福岡、さらにはヨーロッパからいらっしゃった皆さんも!
 まさに新年の幕明けにふさわしい輝かしい年越しが出来ました。
 今年もたいまつ滑走を大成功に導かれた光森さんをはじめスタッフの皆さん、そして参加者の皆さんに感謝と本年のご多幸を込め、心からの拍手をお送り致します。
 
 次回も、たくさんの参加者と見物の皆さんが集うことを、グラン・ヒラフが、お待ちしています。
 

たいまつ点火5分前

2011点火前s.jpg

たいまつ点火

2011大晦日s.jpg
 
 さあ、今年12月17日には、いよいよニセコにおけるリフト開設50周年の大きな節目がやって来ます。
 当ブログでは、今後も昨年に引き続き「アルペンリフトの設立のお話」、そして「ペンション街のなりたち」「ひらふから世界を目指すアスリートの誕生とその育成者たち」「パウダーに魅せられて国内、国外から移り住んだ人々」など、たくさんのヒストリーエピソードをお伝え致してまいります。
 今後も是非、お楽しみにどうぞ!

2011年元旦
ニセコスキー100年史 ひらふスキー場発達史刊行委員会