NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2010年11月
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 ご記憶の方も多いことでしょう。ひらふには2003年のシーズンまで、高原リフトとアルペンリフトという、経営が独立した二社のリフトがありました(2004年シーズンからグランヒラフに統合)。1961年の12月に最初のリフトを架けたニセコ高原観光(株)に対して、1965年にアルペンリフトを設置したのは、サンモリッツリフト(株)。両社はその後ながく火花を散らすライバル関係で知られることになりますが、サンモリッツ社設立のいきさつは、現在ではあまり語られていません。当事者であった永江勝朗(かつろう)さんの手記とご本人へのインタビューをもとに、史実をまとめておきましょう。
 永江さんは1925年、北海道勇払郡穂別村生まれ。小学校2年生になるとご両親と倶知安に移り住みます。倶知安指導信用農協などを経て、地元からニセコ高原観光(株)へ入社した第一号社員でした。
 1965年の春、ひらふに大きなニュースが告げられます。のちにアルペンコースと呼ばれる一帯に、地元の大雪閣(株)がリフトの架設を申請したのです。そこは1962年3月、第40回全日本スキー選手権大会アルペン競技会のコースとなった斜面です。
 大雪閣の前身は、1962年の3月(リフト最初のシーズン)に開業した簡易宿泊所「ダイマルヒュッテ」。ヒュッテの経営者は、倶知安町の安東興業氏でした。ニセコ高原観光が当初宿泊業に取り組まない方針だったため、地元の歯科医院を経営するかたわらスキーによる地域づくりに意欲を持っていた寺岡四郎氏が、安東氏に参入を勧めたもの。翌シーズン、本格的なスキー宿である「大雪閣」が誕生します(80年代に経営が替わり現在のホテルスコットへ)。
 ニセコ高原観光は、将来のビジョンとしてリフト拡張計画を温めていました。しかしその時点ではまだ創業4シーズンを終えたばかり。親会社日東商船(株)に対して、創業時の赤字を脱してようやく自立の目途が立ってきたところでした。しかし大雪閣のリフト申請をただ黙って見ているわけにはいきません。日東商船の竹中治社長に「ぜひわが社も申請を」と稟議を上げます。しかし社長の返事は、「リフトはもうやらん」。 順調なテイクオフができなかったスキー場経営に、投資の価値を見いだすことはできないという判断です。
 現地の永江勝朗さんは切歯扼腕(せっしやくわん)、「この際代わりに寺岡四郎さんにリフトを架けてもらおう」と、寺岡氏に相談を持ちかけます。熟慮の末に寺岡氏は参入を決断。受け皿は、倶知安町旭ヶ丘スキー場を経営していた(株)ニセコリフトサービスを前身とする、サンモリッツリフト(株)です。同社はニセコ高原観光のダミーであることを鮮明にしながら競願に臨み、関係者の協議と高橋清吉町長や酒井町議会議長、安東興業氏の了解の上で事業許可を獲得しました。
 しかしサンモリッツリフトには、人材をはじめほとんど実態がありません。永江勝朗さんは、ニセコ高原観光に在籍のまま、新たなリフト会社の立ち上げに当たることになります。

初期の民宿の話をつづけましょう。
 現在は第一級の芝生グランドを2面持ち、夏はサッカーやラグビーの合宿もできる「ロッジ・コロポックル」の創業は、リフト開業の1961年(現在地には1973年に移転)。創業者の岡田光義さんは、当時のことを懐かしみます。
「うちは畑が大きくなかったので、冬になると親父は山仕事(伐採)をしてたもんです。自分の代になってリフトができて、家にいられるようになった」
 といっても慣れない民宿経営。とまどいも多かったそう。
「豚汁に、皮のついた豚肉を使っていたんです。そしたらあるお客さんが、汁にヒゲが入ってると怒った。そんなことを思い出すね」
 奥さんの英子さんは、宿をはじめるにあたって猛特訓を重ねて調理師免許を取りました。料理に使うイモや牛乳、米、野菜はもちろん自家製です。
「なんだか急に民宿をやることになってしまって、準備からして大変でした。自分たちが暮らしていた母屋を客室にして、私たちは納屋を改造して移ったんです。お客さんには、とにかく心を込めて地元のおいしいものを食べてほしいと思っていました」
 いま経営を担う息子の文義さんはまだ小さく、比羅夫駅にスキーヤーを乗せた汽車が着くと、馬そりで迎えにいく役目でした。

IMG_0930小.jpg旅館コロポックルの岡田光義さん、英子さんご夫妻 2010年9月撮影

 1968(昭和43)年に「銀嶺荘」をはじめたのは、先代の岡田富雄さん。1970年に冬季国体が倶知安で開催されることになり、倶知安町からの要請に応えた開業でした。現在のご主人岡田智信さんは、「客商売なんて両親にとってはまったく初めてのことで、父も母もは夏のあいだ畑仕事の合間を見て、温泉地にいってサービスのことを勉強してました」と言います。
 やはり自前の素材を使った大皿料理が売りものでした。開業当初は客集めに苦戦しましたが、やがて本州からのスキーツアーが大人気になると、泊まるだけでいい、寝るのは廊下でもいい、などという繁盛ぶりでした。11室ではじめた「銀嶺荘」ですが、6度の増築を経て、いまでは54室の老舗スキー宿になっています。

IMG_12982小.jpg旅館銀嶺荘の岡田智信さん 2010年9月撮影

 現在は「居酒屋さかえ」を経営する阪井正行さんが「さかえ旅館」をはじめたのも、国体の準備がはじまった1968年(2007年に廃業)。1965年に大雪閣の調理師として函館の湯ノ川からやって来たのがひらふ暮らしのはじまりでした。阪井さんは、開業当時のひらふは冬しかお客さんが来なかったといいます。
「なんとかしなければと、ひらふスキー場振興会という集まりを作って、リフトと宿泊施設の関係者が会費を集めて視察に行ったり、テニスコートなど夏場の対策を話し合ったんです。やがて札幌オリンピックがあり、70年代の終わりからスキーツアーが入るようになって、一気に盛り上がっていきました」
 また阪井さんはプロの調理師として、農家民宿の女将さんたちを集めて料理講習会を開きました。まちとしてのひらふの魅力は、宿全体の取り組みで高めていかなければ、と考えていたからです。

IMG_0865小.jpg元旅館さかえ 坂井正行さんご夫妻お孫さんとともに 2010年9月撮影

民宿マップ2.jpg

※上記は、ニセコ高原リフト開設から2年後くらいの時期周辺地図(当時山田温泉で配布されていたハンカチをトレース) 納田さん、小田さん、浦野(現白雲荘)さん、岡田さんら草創期の宿を営まれた方々のお名前が記載されています。