NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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 ひらふで最初期にはじめられた民宿は、みなスキー場にほど近い農家でした。農家ではたいてい、牛を1〜2頭飼っていました。糞で堆肥を作って地力を高めるためです。そのために宿泊客には毎朝しぼりたての牛乳がふるまわれ、とても喜ばれました。タマゴも庭で飼っていたニワトリのもので、目の前の畑のジャガイモなども、食卓を飾ります。農家が自前のミルクや農産品をたっぷりとふるまうもてなしは、今日のファームレストランの原形ともいえるものでした。最初の7軒のうちのひとつだった「小田民宿」の2代目だった小田正信さんは言います。
「1泊2食500円。いまでは考えられませんが、全部相部屋です。なにしろ人気が出たころは、押し入れでも廊下でもいいからとにかく泊まらせてほしい、とお客さんがやってくる日も珍しくありませんでした」
 当時はお嫁入りして間もなかった奥さんのキミエさんは、「牛乳やイモのほかにも、冬になる前にイワナをいっぱい釣って焼いてから甘露煮にしておいたり、山菜の塩漬けなどを作り置きしていました。関西からのお客さんが庭でカマクラを作って、その中でジンギスカンをしたことありました。大喜びでしたよ」と語ります。

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宿泊客の車がひしめき合う小田民宿(当時)の駐車場(昭和40年代)

 
 しかし朝早くて夜遅い生活がつづき、家族総出で働いてもとにかく毎日たいへんだったそう。
「朝早いのは慣れていますが、夜遅いのはゆるくなかったです」とキミエさん。小田民宿は、正信さんが体をこわしたこともあり、1978年で営業を閉めました。
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当時を懐かしく語る小田ご夫妻 平成22年9月撮影


 高原コースの真下で人気の宿として営業を続ける「白雲荘」も、最初期の民宿からのスタート。創業時から牛乳風呂を名物としています。これも当時牛を飼っていたことから生まれたアイデアでした。現在の宿を切り盛りする浦野妙子さんは、かつてファンとしてひらふに通いつめたスキーヤー。
「函館どつくに務めていました。金曜の夜に函館を発って早朝比羅夫駅に着くとすぐ、今では考えられないような重たい道具と長いスキーをしょって、2時間近くかけてゲレンデまで歩きました。リフトが動くまで時間がありましたから、ただバスを待っているより、山にとにかく早く着きたかったのです」
 やがて本州はもとよりヨーロッパやカナダのスキー場にまで出かけるようになった妙子さんは、1975年に白雲荘にお嫁入りしたのでした。
「当時のひらふは、リフトと宿しかないような状態でした。アフターの楽しみがとても少ない。だから白雲荘で、喫茶店(ウェーデルン)と飲食店(居酒屋かかし)をはじめました。ひらふで最初でしたよ」
 地域にないものを作って、ひらふをもっと魅力的なまちにしよう。そう考えた浦野さんはその後、夏場のためにテニスコートを作るなど、地域全体を見すえた経営を広げていきました。
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浦野妙子さん 白雲荘の食堂にあるグラン・ヒラフコースマップとともに
平成22年9月撮影

 ニセコ高原比羅夫スキー場(現・ニセコグラン・ヒラフ)で1962(昭和37)年3月に第40回全日本スキー選手権アルペン競技会が開かれるのに合わせて、急ごしらえの民宿が7軒つくられたことは先に述べました。その時代のエピソードをひろってみましょう。
 民宿をはじめたのはみなスキー場にほど近い農家で、倶知安町のすすめによるものでした。町としては、期待の新産業であるスキーの裾野を広げていくとともに、土壌条件にやや恵まれていないそのエリアの農業経営を支援する狙いもありました。といっても予算の面で具体的な助成はなく、7軒は金融機関から融資を受けるための民宿組合を組織します。中心になったのが、納田又治さん。
 ご子息で現在「ペンション納田」を経営する納田忠さんは語ります。
「昭和7(1932)年に親父が建てた家ではじめました。大小合わせて6部屋くらいあったでしょうか。当時は消防署や保健所の規制もゆるかったので、わりあいたやすくできたのだと思います。もともとリフトができる前からうちには、(自衛隊)倶知安駐屯地(1955年開設)の皆さんが泊まりに来て滑っていました。九州出身の方が多かったことを覚えています。正月に実家に帰らず滑って、はやくスキーをマスターしようとがんばっていた人が多かったですね」


民宿時代の納田家.jpg
ペンションになる前、「民宿 納田」の頃(昭和50年代)

 
 納田さんの父である又治さんはまた、スキー場誕生に深く関わる仕事をしていました。本家に当たる納田助七さんが営林署から請け負った、スキーコース造成のための伐採を任されたのです。斜面を覆う大きな木々は、豪雪に耐えて曲がりくねりながらも強靱な生命力をもった、ダケカンバが多かったそうです。リフトオープンの前年(1960年)。設計図に合わせて大木を伐りだし、馬でふもとまで下げる作業を、2、3人でひと冬かけて行いました。
その後自分の代になって忠さんは、夏のあいだスキー場の火防線(山火事に備える)づくりに加わりました。林床を筋刈りしてたくさんのトドマツを植えました。現在スキー場のふもと周辺にあるトドマツ林は、こうして作られたものでした。
 
 「子どものころは、冬になるとどこに行くにも長靴スキー。スキーは遊びではなくまず暮らしの道具だった」という納田さん。現在のペンション納田は、3代目忠幸さんの奥さん(康子さん)が英語を話せるために外国人客も訪れ、畑の景観が魅力の、国際色豊かな宿として親しまれています。

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ぺんしょん納田 納田忠さん 平成22年9月30日撮影


※ダケカンバは、白樺と同じカバノキ科カバノキ属の落葉広葉樹。別名、ソウシカンバ。低温や強風・積雪に良く耐え、森林限界地点では強靭にもぐにゅぐにゃと曲がった低木として育つ特徴を持ちます。森林が何かの原因で消滅した後、いち早く生える木である点で白樺と似ています。