NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第18回 ひらふ、スキーのメッカへ

 1963(昭和38)年2月。札幌市が冬季オリンピック開催地に立候補しました(最初は68年の開催をめざすも仏のグルノーブルに破れ、72年開催に再チャレンジ)。翌年の1月から2月にかけて、オーストリアのインスブルックで開かれた冬季五輪へ、北海道や札幌市、北海道スキー連盟などから視察団が派遣されます。メンバーの中には、倶知安町の高橋清吉町長らも加わっていました。視察団は冬のリゾート地として名高いスイスのサンモリッツに4泊しましたが、この機を活かして高橋町長は、ニセコの絵葉書やバッヂなどを手土産にサンモリッツ市長と接触。姉妹都市提携(1964年12月)への道を開きます。
 昭和初期から、ひらふはしばしば「東洋のサンモリッツ」と形容されていました。きっかけは、1928(昭和3)年に山とスキーを愛する秩父宮殿下が来道して、スキーでニセコアンヌプリなどに登られたこと。ちょうどこの年に日本が初参加したサンモリッツ冬季五輪があり、新聞が、殿下が「極東のサンモリッツ」に、という見出しを掲げたのです。そうして36年後に、倶知安町はサンモリッツとの友好の実現させたのでした。その後はじまった交流では、ドイツ語と英語をよくしたニセコ高原観光の大川仁吉所長も、中心メンバーのひとりとなりました。
 現在は小樽でさわだスポーツ店を経営する澤田勝美さんは、1945(昭和20)年喜茂別町生まれ。ひらふにリフトが開業(1961年)したころ、倶知安農業高校スキー部で活躍していました。自分のような強い選手なら合宿や遠征で、(スキーシーズンの)3学期は2日くらいしか学校に行かなかった、と笑います。
「当時はそれで良かったんです。なにせ農業高校だから自前の米や野菜持参で合宿に行きました。手作りのバターやチーズだって持って行ったから、どこにいっても大歓迎されたもんだ(笑)」
 中学から社会人まで、さまざまなスキー部が、ひらふの山田温泉や鯉川温泉、昆布温泉などにやってきました。1964(昭和39)年の夏に旭ヶ丘スキー場南面に倶知安シャンツェ(60m級)が完成すると、「スキーのメッカひらふ」の知名度はいっそう高まります。
 前回で全国ではじまったスキーブームにふれましたが、ひらふの場合その主役は、一般スキーヤーと並んで選手たちでもありました。澤田さんは倶知安農業高校卒業後、札幌オリンピック(1972年)出場をめざして札幌の木箱メーカー(当時)トーモクのスキー部に入りました。ニセコは、札幌オリンピックに4人ものスキー選手を輩出しましたが、残念ながら澤田さんの出場はかないませんでした。
「五輪のあと会社を辞めて、小樽でスポーツ店をはじめました。札幌オリンピック前後、スキー人口はどんどん増えていきましたね」
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高原第1リフト乗り場に並ぶ人々1964年頃
 少し話を戻しましょう。
 1966(昭和41)年3月。倶知安町議会は、1970(昭和45)年のスキー国体誘致を決議します。リフト開業時の宿泊施設不足や未熟なアクセスや除雪体制のことは先述しましたが、これらの解決のために官民挙げての取り組みが進められました。