NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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アーカイブ: 2010年9月

 1963(昭和38)年2月。札幌市が冬季オリンピック開催地に立候補しました(最初は68年の開催をめざすも仏のグルノーブルに破れ、72年開催に再チャレンジ)。翌年の1月から2月にかけて、オーストリアのインスブルックで開かれた冬季五輪へ、北海道や札幌市、北海道スキー連盟などから視察団が派遣されます。メンバーの中には、倶知安町の高橋清吉町長らも加わっていました。視察団は冬のリゾート地として名高いスイスのサンモリッツに4泊しましたが、この機を活かして高橋町長は、ニセコの絵葉書やバッヂなどを手土産にサンモリッツ市長と接触。姉妹都市提携(1964年12月)への道を開きます。
 昭和初期から、ひらふはしばしば「東洋のサンモリッツ」と形容されていました。きっかけは、1928(昭和3)年に山とスキーを愛する秩父宮殿下が来道して、スキーでニセコアンヌプリなどに登られたこと。ちょうどこの年に日本が初参加したサンモリッツ冬季五輪があり、新聞が、殿下が「極東のサンモリッツ」に、という見出しを掲げたのです。そうして36年後に、倶知安町はサンモリッツとの友好の実現させたのでした。その後はじまった交流では、ドイツ語と英語をよくしたニセコ高原観光の大川仁吉所長も、中心メンバーのひとりとなりました。
 現在は小樽でさわだスポーツ店を経営する澤田勝美さんは、1945(昭和20)年喜茂別町生まれ。ひらふにリフトが開業(1961年)したころ、倶知安農業高校スキー部で活躍していました。自分のような強い選手なら合宿や遠征で、(スキーシーズンの)3学期は2日くらいしか学校に行かなかった、と笑います。
「当時はそれで良かったんです。なにせ農業高校だから自前の米や野菜持参で合宿に行きました。手作りのバターやチーズだって持って行ったから、どこにいっても大歓迎されたもんだ(笑)」
 中学から社会人まで、さまざまなスキー部が、ひらふの山田温泉や鯉川温泉、昆布温泉などにやってきました。1964(昭和39)年の夏に旭ヶ丘スキー場南面に倶知安シャンツェ(60m級)が完成すると、「スキーのメッカひらふ」の知名度はいっそう高まります。
 前回で全国ではじまったスキーブームにふれましたが、ひらふの場合その主役は、一般スキーヤーと並んで選手たちでもありました。澤田さんは倶知安農業高校卒業後、札幌オリンピック(1972年)出場をめざして札幌の木箱メーカー(当時)トーモクのスキー部に入りました。ニセコは、札幌オリンピックに4人ものスキー選手を輩出しましたが、残念ながら澤田さんの出場はかないませんでした。
「五輪のあと会社を辞めて、小樽でスポーツ店をはじめました。札幌オリンピック前後、スキー人口はどんどん増えていきましたね」
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高原第1リフト乗り場に並ぶ人々1964年頃
 少し話を戻しましょう。
 1966(昭和41)年3月。倶知安町議会は、1970(昭和45)年のスキー国体誘致を決議します。リフト開業時の宿泊施設不足や未熟なアクセスや除雪体制のことは先述しましたが、これらの解決のために官民挙げての取り組みが進められました。

  さて当時のひらふや倶知安の動きを見てみましょう。
 まずその10年以上前の1950(昭和25)年、山と海が織りなす多彩な自然に恵まれたニセコ周辺は、その価値が認められて道立公園に指定されていました。1958(昭和33)年9月にはニセコ周辺観光開発協会が発足して、国定公園への昇格運動がはじまります。またこの年から、悩まされるばかりだった豪雪を逆手にとってみんなで冬を楽しもうと、「倶知安雪まつり」が町民グランドではじまりました。
 1962(昭和37)年4月、熱心な運動が実り、自然公園審議会がニセコ・積丹・小樽海岸の国定公園化を答申。5月、これを期に後志(しりべし)支庁を中心に、後志観光連絡協議会が発足しました。構成メンバーは、倶知安町、蘭越町、狩太町(現ニセコ町)、岩内町、積丹町、古平町、余市町、寿都町、喜茂別町、小樽市の10市町村。6月には倶知安町役場に、観光課が新設されました。そうして翌63年7月、ニセコ積丹小樽海岸国定公園が誕生します。こうしたあゆみは、観光が、一次産業とならぶ地域の基幹産業として位置づけられていく歴史ともいえるでしょう。
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国定公園指定記念祝賀会
 日本全体をとらえるとこの時代はちょうど、戦後復興の段階を終えて高度経済成長への離陸に成功したころ。日米安全保障条約の締結をめぐる騒乱のあとに発足した池田勇人内閣の目玉は、国民所得倍増計画でした。1964(昭和39)年10月にはアジアで初となるオリンピックが東京で開幕。スキーの世界にも、このころ最初の本格的なブームが訪れます。
 ひらふ開業の年、1961年11月発行の週刊平凡(平凡出版)には、「あなたのスキー準備はできましたか!?」という特集があり、そこでは全国のスキー人口は400〜500万人、とくに最近、サラリーマンやBG(ビジネスガール、OL)の増加が目立つ、という一節があります。山男や学生のものだったスキーが、一般の人々のものになりはじめたのです。
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1961年11月発行週刊平凡(平凡出版)
 また1965年のシーズンを控えて、名門雑誌月刊太陽(平凡社)は、「スキーへの招待」という特集号を編みました。目次には、「アルプス・スキー場の魅力」(ヨーロッパのスキー案内)、「海抜3000mを滑る」(日本アルプスの立山を滑る三浦雄一郎のルポ)といった骨太の企画から、「スキー用品のAからZ」、「母と子のスキースクール」、「ファミリースキーを8ミリで撮る」などの実用情報、さらには「スキーにっぽん発展史」、「スキーを科学する」という啓蒙記事が並んでいます。特集の扉には、「いま、スキー熱は高まるいっぽう。なにが、そんなに人々をとらえるのでしょうか」というフレーズが踊ります。
 スキーをめぐるこうした熱気の中で、ひらふスキー場もしだいに存在感を高めていきました。
写真資料提供:倶知安風土館