NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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第16回 初期のゲレンデ整備

 開業当初のゲレンデはどのようなものだったでしょう。1962(昭和37)年3月の全日本スキー選手権アルペン競技大会では、コース整備や除雪に自衛隊の協力が欠かせなかったと述べました。陸上自衛隊倶知安駐屯部隊が倶知安町に移駐したのは、1955(昭和30)年の秋。自衛隊にとっては雪中訓練の一環としての意味もあり、全日本スキー連盟やニセコスキー連盟、人員や資材の輸送を担った国鉄などとの連携が進められました。

01.jpg

 ピステン(ゲレンデ整備車)もない時代ですから、大会のコースづくりはすべて人海戦術です。第2リフトの壁も、20人くらいが1チームになってスキーで踏み固めながら降りていきました。ポールは比羅夫駅から会場まで、馬そりで運ばれました。またスタート地点とゴール間の連絡は、無線ではなく有線でした。
 では大会のないふだんのゲレンデはどうだったでしょう。開業時に車両担当として、倶知安ハイヤーからニセコ高原観光に転職した佐竹真一郎さんは、「ゲレンデはスキーヤーによって自然に固められていったものです」と回想します。
「週末だと昼すぎには深雪はだいたいならされていました。ひらふに来る人はうまいスキーヤーが多かったですから、きれいなこぶが自然にいくつもできていきます。第2の壁は、うまい人しか近づきませんでしたね。自然にできるこぶの美しさは当時、八方尾根(長野県)の黒菱(クロビシ)と双璧と言われたものです」
 ゲレンデ整備が機械化されたのは、開業から7年後の1968年。新潟県の大原鉄工所がスイスのメーカーと技術掟携して開発した国産第1号のゲレンデ整備車「ラトラック」が導入されました。
「朝2時とか3時に起きて、リフトが動く前にラトラックで整備をはじめます。60年代に比べると俄然忙しくなってしまった」
02ラトラックニセコ高原 008.jpg
 日本にドイツのピステンブーリーが入ってくるのは1970年代後半。ひらふでは1977年に導入しましたが、道内ではまだ2台しかありませんでした。
 話を開業時にもどしましょう。佐竹さんが続けます。「まだナイターがない時代ですから、リフトは夕方5時で終了。シーズン中は、事務所長以下ほとんどスタッフが泊まり込みます。大川仁吉所長は酒を飲みませんから、やることといえば麻雀しかありません。取引先やマスコミの倶知安支局長など、いろんな人もやってきて、事務所は夜ごと雀荘と化しました。いまでは考えられないでしょうが、ほんとに麻雀しかやることがなかったのです(笑)」

※上段写真は、「降りしきる雪とともに」ニセコ国際ひらふスキー場の30年(1992年刊) より
下段写真は写真資料提供、大川富雄、渡辺淳子各氏提供

 1962(昭和37)年春、最初のシーズンが終了しました。ニセコにはじめて本格的なスキーリフトを設置したニセコ高原観光(株)の、初年度の業績はどのようなものだったでしょう。大きな話題と期待を集め、さらには全日本スキー選手権の開催という追い風を受けて、さぞや順調な船出だったのではないでしょうか。
 しかし残念ながら、結果はその逆でした。前述の大川修作さん
(リフト設置に先駆けて一帯を踏査)は、「開業3年くらいは赤字だった」と言います。
「なにしろ1日券が売れない。当時の北海道の人は、スキーはまず登ることから覚えたものです。お金を出して一気に登るという発想があまりなかったのです」
 
 地元の中学2年生だった山本由紀男さん(現在はひらふで雪山山荘オーナー、日本テレマークスキー協会名誉理事)も、「リフト1回が第1リフトで60円、第2リフトで40円。第1リフトだけで当時ラーメン一杯(約40円)よりも高かったので、中高生はみんな自分で登っていました。あと3本滑ったら、最後はリフトに乗ろうぜと、そんな感じだった」と言います。
 
 もっともリフトといっても今日のそれとは似て非なるもので、シートは板を渡しただけのようなもの。いま同じリフトがあったとしたら、怖じ気づく人もたくさんいるでしょう。スピードにしても現在よりかなり遅めの秒速1.2m。これには、もともとこのリフトが根曲がり竹(チシマザサ)の搬出用として認可を受けていた事情がありました。鉱山などの索道の規定に縛られていたのです。
04リフトbk074jpg.jpgのサムネール画像
 
 のちに倶知安町の観光課長や住民部長などを歴任した町畠守是さん(現在は介護老人保護施設「麓華苑」事務長)も、「リフトができて、当時の町民は喜ぶというよりも、まずびっくりした」と言います。リフトは、そのくらいもの珍しく画期的な先進設備でした。地元の子どもたちが毎日スキーに親しんだ旭ヶ丘スキー場にロープトゥーができたのは、リフト開業の翌月のこと。つまり機械の力で山を登ること自体が、新奇な出来事だったのです。
 
 リフト利用の中心となるのは町外からのスキーヤーですが、これも先述したようにアクセスが未整備。交通の主力はまだマイカーではなく国鉄のSL(蒸気機関車)でした。国産最大最速とうたわれた旅客列車用SL「C62(シロクニ)」が函館本線にお目見えしたのは、リフト開業の5年前(1956)のことにすぎません。やがて北海道のモータリゼーションも進んでマイカー客が急増していくことになりますが、国道5号の稲穂トンネルが開通したのは1962(昭和37)年10月。国道230号の、札幌の定山渓から中山峠までが舗装されるのは、1969(昭和44)年まで待たなければなりませんでした。
01リフト券IMG_1784.jpgのサムネール画像のサムネール画像
創業時のリフト回数券(第2リフト用7回券)
02リフト券製作丸井IMG_1785.jpgのサムネール画像のサムネール画像 
制作依頼先は当時の丸井今井小樽支店であった様子が伺われます。
写真資料提供、大川富雄、渡辺淳子各氏