NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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 12月17日(日)に開業したニセコ高原比羅夫スキー場(現・ニセコグラン・ヒラフ)のリフトは、その後年内は無料開放となりました。そして開業の時点でスキー場の名称が、「ニセコひらふスキー場」とひらがなの表記となります。国鉄(現・JR北海道)ではスキー列車として、毎週土日に準急ニセコ号の運行を開始しました。
 年が明けて1962(昭和37)年。2月2日から4日まで、ひらふスキー場を会場に第17回北海道スキー選手権アルペン競技大会が開かれました。そして3月9日。ひらふにリフトを誕生させるきっかけともなった第40回全日本スキー選手権アルペン競技会が、いよいよ開幕します。それまで日本の山スキー史に重要な位置を占めてきたひらふを舞台にした、記念すべき初の全国大会です。あいにく天候が不順で選手たちはワックスに悩みましたが、北海道選手団は、男子回転で1位から6位までを独占したほか、女子滑降と同大回転をのぞく各種目ですべて優勝するなど、大活躍を見せたのです。
 
 準備期間が短い中で開催コースの重責を果たしたひらふスキー場でしたが、大会終了後、いくつかの問題も指摘されました。まず、コースの整備や除雪などで自衛隊への依存が多すぎたのではないか、という意見がありました。そして競技関係者や報道各社は、宿泊施設の不足をあげました。たしかにその時点でまともな宿泊施設といえば、山田温泉と大丸ヒュッテ(のちの大雪閣の場所)のみ。ふたつを合わせても収容人数は200名にとどきません。大会に合わせて急ごしらえで7軒の農家が民宿をはじめましたが、それも大会関係者全員を泊めるには足りず、多くの人が倶知安市街に泊まって会場に通うことになりました。
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旧山田温泉
 さらにアクセスも未整備で、町外からの主な交通手段は国鉄比羅夫駅からの国鉄バスのみ。倶知安駅からのバスの運行は翌シーズンまで待たなければなりませんでした。国鉄バスにしても、当時は急坂の道路の整備や除雪が十分ではなく、たびたびスタック。乗客が全員降りてバスを押す光景も見られました。ニセコ高原観光(株)大川仁吉所長の長男である大川富雄さんは、開業時から数年続いたそうした時代をなつかしく回想します。
「吹雪のときなど、スキー場の手前でバスは身動きできなくなってしまう。客はやれやれまたか、という顔をしてサッサと降りて、うしろから力を合わせてバスを押します。ようやく動き出して、先についたバスのあとからみんなが到着すると、運転手さんは何ともすまなそうな顔をして、積んであったスキーを渡してくれるのでした(笑)」
04当時のバス.jpg
当時のバス

※写真は、「降りしきる雪とともに」ニセコ国際ひらふスキー場の30年(1992年刊) より
 当時の大手海運会社である日東商船(株)を親会社にもつ北海道ファイバーボード(株)が、倶知安に設立されたのは、1961(昭和36)年2月。両社の社長を務める竹中治は、根曲がり竹(チシマザサ)の資源調査のために技術者らをひきつれ、翌3月にはワイスホルン(1046m)周辺を視察しています。

ワイスホルンを視察する竹中氏一行.jpg

ワイスホルン(1046m)周辺を視察する竹中社長一行}
 この調査に先駆けて、既に現地入りし、ワイスからニセコアンヌプリ(1308m)一帯に独自の踏査を重ねていた人物に、ファイバーボードプラントの開発研究エンジニアであった大川修作がいました。大川修作は、ニセコ高原観光(株)事務所長大川仁吉の弟です。
 大川家は五人兄弟で、仁吉は次男、修作は五男です。そしてふたりの父は、製紙やパルプ製造の分野で知られ、戦後は大川研究所を主宰して各地の製紙工場のコンサルタントも務めていた大川理作。兄弟はみなこの父のもとで仕事をする製紙・パルプの技術者でした。理作の縁戚には、大正・昭和期に日本の製紙王と呼ばれた大川平三郎がいます。つまり大川一族は、明治・大正・昭和と、日本の製紙・パルプ界に多くの人材を輩出していた斯界の名門でした。その延長に、根曲がり竹を原料にしたファイバーボードの開発があったのです。
 根曲がり竹の資源開発調査のためにニセコ山系をくまなく歩いた大川修作は、旧制の中央大学山岳部出身。山とスキーをこよなく愛する30代はじめの青年でした。当初北海道ファイバーボード社は、竹の採取地をワイスホルンに計画していました。これだとササの刈り出し用索道(リフト)は、ワイス側につけられることになります。これに対して北海道スキー連盟や倶知安のスキー関係者は、翌年3月開催の全日本スキー選手権大会アルペン競技会の開催を目指し、競技用スキーコースを作るためにひらふ側にリフトを設置することを訴えます。大川修作も彼らの思いを十分に理解しました。
 修作は、リフト運営会社であるニセコ高原観光(株)の設立と事業展開にも深く関わり、自らのスキーで山系一帯をすみずみまで踏査しました。こうした調査をふまえて設立時のニセコ高原観光(株)からは、ニセコ山系に3カ所のリフト事業計画が発表されました。そのひとつが、ニセコ初のスキーリフトとなったひらふリフト。あとふたつは、チセリフト、ニセコリフト(旧国鉄山の家コース)でした。
大川修作さん200912IMG_2135.jpgのサムネール画像
大川修作氏 2009年12月撮影
※本文中敬称略
※この項参考文献・資料
・『降りしきる雪とともに・ニセコ国際ひらふスキー場の30年』(ニセコ高原観光株式会社)1992年
・『北海道聞き書き隊選集・第三回日本聞き書き学会応募作品』(日本聞き書き学会)より大川きみ子の稿(本間珠美)
・インタビュー/大川修作、大川富雄、渡辺淳子の各氏 ほか