ニセコ山系に無尽蔵ともいえるほどあった根曲がり竹(チシマザサ)を利用して、均質で高品質、そして加工も容易な画期的なファイバーボードを作る--。北海道ファイバーボード社が立てたこの事業計画は、競合する輸入品の急激な台頭によって根本から崩れてしまいました。
しかし実はひらふでは同時にもうひとつ、地域を大きく変えるような計画が進んでいました。全日本スキー大会の開催です。
第40回全日本スキー選手権大会アルペン競技会ポスター
当時のひらふでは、1962(昭和37)3月に第40回全日本スキー選手権大会アルペン競技会が開かれることが内定していました。そのために北海道ファイバーボード社が設立された61(昭和38)年にはゲレンデづくりのために樹木の伐採などが進められていたのです。けれども大会開催が正式決定されるための重要な条件は、リフトが設置されていること。ひらふでは資金が足りず、同年5月に現地調査を行った全日本スキー連盟技術運営委員会は、スキー場としては申し分ないが設備が皆無では開催できないと、開催を保留にしてしまいます。大正時代からスキーのメッカとして道内外に知られていたひらふですが、なにしろ当時のスキーといえばまだまだ、自分で登って滑るものでした。このままでは待望の大イベントが流れてしまいます。簡単にあきらめることなどできません。
北海道スキー連盟や倶知安町ではすぐさま、北海道ファイバーボード社が計画していたササ搬出用の索道をスキーリフトに転用できないかと、同社の親会社であった日東商船(株)の竹中治社長に強く陳情しました。竹中社長はこれを受け、6月8日、リフトの建設を英断。同月24日には、リフトの運営会社であるニセコ高原観光(株)が発足しました。現地の責任者、事務所長には、ファイバーボード工場建設の調査にあたっていた大川研究所から大川仁吉が赴任しました。これが今日のグランヒラフの起源です。ササならぬ人を運ぶように設計修正されたリフト工事はすぐさま急ピッチで進められ、6か月後(1961年12月17日)には2本のリフトが竣工しました。
大川仁吉氏は、1961年から1982年までニセコ高原観光支配人として、道内初ともいえるスキーリゾート経営の草創期を支えました。
さてでは日東商船(株)の竹中治社長はなぜ、海運ともファイバーボードともまったく畑ちがいのスキー場経営への転換をこのように即決し、わずか半年で実現させることができたのでしょう。そこにも、ひらふの秘められた物語が眠っています。
1961年現地視察に訪れた竹中社長(写真中央)



