NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2010年4月
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第9回 村民たちが見た、はじめてのスキー。

 レルヒ中佐による旭川(北海道)でのスキー講習には、札幌からも月寒第二十五連隊の三瓶勝美中尉、松倉儀助中尉、中澤治平少尉らが参加しました。旭川からもどった1912(明治45)年3月、彼らはレルヒ直伝のスキー術を道都に広めるべく、月寒練兵場などで講習会を開きます。これには、連隊軍人たちのほか、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の学生や教師、一般の人々も参加しました。これが、札幌の本格的なスキー史の源流です。全国初の学生スキー部となった北大文武会スキー部の歩みも、ここから始まりました。
 北大スキー部のその後については、稿を改めましょう。ここではまず、レルヒたちが倶知安を訪れたエピソードを紹介します。
 ときは1912(明治45)年4月15日。
 レルヒに率いられた旭川の第七師団野砲第七連隊の7名が、羊蹄山(1898m)へスキー登山をするために、その日の朝旭川駅を出発しました。レルヒは高田(新潟県)の第十三師団歩兵第五十八連隊赴任中の1911年4月、同郷のクラッツアーと富士山へのスキー登山に挑んでいます。しかし悪条件にはばまれて9合目で断念したいきさつがありました。彼は北海道でのスキー訓練の仕上げに、その山容から蝦夷富士とも呼ばれ、しかも鉄道によるアプローチに恵まれていた羊蹄山をめざしたと考えられます。
 一行を迎えるのは、倶知安の在郷軍人分会と蝦夷富士登山会です。彼らは小樽で小樽新聞の奥谷甚吉記者を加え、倶知安をめざしました。列車は予定よりかなり遅れて午後9時半すぎに倶知安に到着。百人以上の有志の出迎えを受けながら、中佐らは駅前の旭旅館に投宿しました。


蝦夷富士登山会本部前のレルヒ
蝦夷富士登山会本部前のレルヒ中佐

 翌16日、スキー隊は4時に起床。準備を整えていたところ急な雨となり、出発は中止となってしまいます。休憩のあと中佐が、「アルプスの危険について」というテーマで、スキー登山の危険や準備について講話を行いました。午後は雨も小降りの雪に変わったため、小黒の山(現・旭ヶ丘公園)でスキーの練習。これを後志支庁や村役場、小学校の児童や教員など、多くの村民が見守りました。レルヒらが見せる直滑降、斜滑降などにみな目を見張ったといわれます。ひらふのスキー史は、ここに本格的なスタートを迎えたのでした。


小黒山でのスキー訓練風景
小黒山でのスキー訓練風景