NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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アーカイブ: 2010年4月

 1912(明治45)年4月17日。レルヒら一行は朝6時に旅館を出ました。西風が強く、夜半に降った雪が少し積もっています。第4小学校(現・比羅夫小学校)の前を通って蝦夷富士登山会の事務所へ。休憩をとると、スキーにロウを塗って記念撮影。8時半すぎに出発です。メンバーは、登山会のガイドや小樽新聞の記者などを含めて11名。天候は回復せず、強風にはみぞれが混じっていました。


羊蹄山登山風景
羊蹄山登山風景

 一行は一列縦隊で、緩斜面をジグザグに登っていきます。10時には順調に3合目(標高550m)に到着。しかし4合目からは雪が硬く斜面もきつくなり、スキーをぬいで引きずっていくことになりました。11時には5合目半に着きましたが、そこから先はいよいよ急斜面になったために、これ以上のスキーは無理と判断。スキーを脱いで杖1本で登ることにしました。春先ならではの硬い雪に杖を差しながら、強風の中、谷へ滑落する危険をおかして一歩一歩進みます。ようやく6合目にいたったときには正午になっていました。
 7合目から上はさらに絶壁のような斜面が立ちはだかり、目を開けていられないほどの吹雪が襲いかかります。手足の感覚も失せるなか死にものぐるいで9合目に。そこから一直線に頂上をめざしましたが、ピーク手前にある噴火口群も、頂上のある大噴火口もまったく見えません。そうしてついに平坦な場所に出ると、小樽新聞の奥谷記者らは「頂上だ!」と声を上げました。しかしこの天候では長居は無用。万歳を叫ぶメンバーたちにレルヒは、ただちに下山せよと命じます。

1羊蹄下山中の一行
羊蹄下山中の一行

 装備の劣った日本人たちは手足や鼻に凍傷をおい、急斜面では四つん這いに後ろ向きになって何度も転落を繰り返しながら、命からがらふもとを目指します。レルヒはといえば、底に金具を打ち付けたオーストリア製のスキー靴のために転落することはありませんでした。

針葉樹林を行く一行
針葉樹林を行く一行

 スキーをデポした五合半の地点からはふたたびスキーをはき、疲れきった一行が登山会事務所に到着したのは午後5時40分。おおぜいの人々に歓呼の声で迎えられました。これが、史上初の羊蹄山スキー登山です。
 この壮挙はすぐ小樽新聞で何度も紹介され、人々にスキーというまったく新しいスポーツを強く印象づけました。
 研究が進んだ今日では、彼らがピークだと思った地点は、実は誤りだったという諸説があります。しかしいずれにしてもニセコのスキー史にとって、レルヒらの山行がきわめて重要な価値を持つ出来事だったことには、変わりがありません。

羊蹄登山レルヒ中佐一行
羊蹄登山レルヒ中佐一行

※レルヒ中佐の項参考文献:
 『倶知安町百年史』(倶知安町)1993年、『レルヒ中佐のエゾ富士登山/ 武井静夫』(倶知安郷土研究会)1988年、『日本スキー・もうひとつの源 流/中浦皓至』(北海道大学図書刊行会)1999年 ほか

 レルヒ中佐による旭川(北海道)でのスキー講習には、札幌からも月寒第二十五連隊の三瓶勝美中尉、松倉儀助中尉、中澤治平少尉らが参加しました。旭川からもどった1912(明治45)年3月、彼らはレルヒ直伝のスキー術を道都に広めるべく、月寒練兵場などで講習会を開きます。これには、連隊軍人たちのほか、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の学生や教師、一般の人々も参加しました。これが、札幌の本格的なスキー史の源流です。全国初の学生スキー部となった北大文武会スキー部の歩みも、ここから始まりました。
 北大スキー部のその後については、稿を改めましょう。ここではまず、レルヒたちが倶知安を訪れたエピソードを紹介します。
 ときは1912(明治45)年4月15日。
 レルヒに率いられた旭川の第七師団野砲第七連隊の7名が、羊蹄山(1898m)へスキー登山をするために、その日の朝旭川駅を出発しました。レルヒは高田(新潟県)の第十三師団歩兵第五十八連隊赴任中の1911年4月、同郷のクラッツアーと富士山へのスキー登山に挑んでいます。しかし悪条件にはばまれて9合目で断念したいきさつがありました。彼は北海道でのスキー訓練の仕上げに、その山容から蝦夷富士とも呼ばれ、しかも鉄道によるアプローチに恵まれていた羊蹄山をめざしたと考えられます。
 一行を迎えるのは、倶知安の在郷軍人分会と蝦夷富士登山会です。彼らは小樽で小樽新聞の奥谷甚吉記者を加え、倶知安をめざしました。列車は予定よりかなり遅れて午後9時半すぎに倶知安に到着。百人以上の有志の出迎えを受けながら、中佐らは駅前の旭旅館に投宿しました。


蝦夷富士登山会本部前のレルヒ
蝦夷富士登山会本部前のレルヒ中佐

 翌16日、スキー隊は4時に起床。準備を整えていたところ急な雨となり、出発は中止となってしまいます。休憩のあと中佐が、「アルプスの危険について」というテーマで、スキー登山の危険や準備について講話を行いました。午後は雨も小降りの雪に変わったため、小黒の山(現・旭ヶ丘公園)でスキーの練習。これを後志支庁や村役場、小学校の児童や教員など、多くの村民が見守りました。レルヒらが見せる直滑降、斜滑降などにみな目を見張ったといわれます。ひらふのスキー史は、ここに本格的なスタートを迎えたのでした。


小黒山でのスキー訓練風景
小黒山でのスキー訓練風景


レルヒ中佐

 さてここでいよいよ、オーストリアのレルヒ中佐が登場します。テオドール・フォン・レルヒ(1869?1945)は、オーストリア=ハンガリー帝国(当時)の軍人で、日本に最初にスキーを伝えたとされる人物のひとり。レルヒの来日前、ほとんどの日本人にとって欧米人が使うスキーは、まったく未知の道具でありスポーツでした。
 レルヒは、世界の予想をくつがえして日露戦争でロシア帝国に勝利した日本軍を研究するために、1910(明治43)年11月に交換将校(少佐)として来日します。陸軍では、その8年ほど前(1902年1月)に八甲田山の雪中行軍で大規模な遭難事故をおこしていたこともあり、彼のスキー技術に着目していました。
 レルヒはまず、雪深い新潟県高田(現・上越市)の第十三師団歩兵第五十八連隊に赴任します。1911(明治44)年1月。東京の砲兵工廠に作らせたスキーによって、将校や県内の中学教師らを対象に、金谷山でひと月あまりスキー講習が行われました。
 彼のスキーは当時祖国で主流だった1本杖スキーで、2メートルほどの杖の先には金物の石突きがついていました。板は単板で、金具は、かかとが上がる鉄板のタイプ。現在のスキーとはかなり異なります。

レルヒ中佐同型スキー
レルヒ中佐と同型のスキー

 同年9月。レルヒは中佐に昇進。翌1912年2月には、第七師団野砲第七連隊付きとなり、いよいよ北海道の旭川へ赴任します。ここでもレルヒからスキー技術を学ぼうと、3週間あまり春光台で講習が行われました。同師団には4つの歩兵連隊があり、そのうちのひとつ二十五連隊は札幌の月寒にありました。この月寒からの参加者もあり、また小樽新聞の記者や郵便局員など数人の民間人も参加します。スキーは、前任地の高田ですでに製作がはじまっていたので、師団が高田に注文しました。
 講習・訓練の内容は、スキーの携行や着脱にはじまり、「直立行進」「登行」「滑降」「方向転換」「制動滑降」「転倒・起立」「遽止」「難路通過」「軍需品運搬」など、基礎から応用までを総合的にマスターしようというもの。応用の中には、「テレマーク」や「クリスチャニア」といったノルウェイの技術が含まれていたことも注目されます。当時のスキーはオーストリア式とノルウェイ式に大別されましたが、レルヒはスキーの歴史やそうした背景などについても広く講義を行ったのでした。