NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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アーカイブ: 2010年3月

 江戸時代の比羅夫は、ニシン漁で栄えた日本海側の岩内や磯谷とちがって、まちとしての営みはほとんどなく、松前藩がアブタ場所を置いた尻別川の上流域で、アイヌの人々がサケ漁や狩猟を行っていました。幕末の1854(安政4)年、松前藩の蝦夷地経営を危惧する幕府(箱館奉行)の命を受けた松浦武四郎が、岩内から入って一帯を調査しています。

 明治の初頭、倶知安の地は原野のままに虻田村の一部とされていました。大日本帝国憲法が発布された翌年、日本がいよいよ近代国家としての形を整えつつあった1890(明治23)年には、この地は皇室の財産である御料林となります。一方で北海道庁はここを開拓の適地と公示したので、前述のように1892 年から入植が始まったのでした。


北海道鉄道函樽線敷設計画地図

北海道鉄道函樽線敷設計画地図


 倶知安の歩みにとって、そしてニセコの山岳スキーの歴史にとってとりわけ大きな出来事が、1904(明治37)年の秋に起こりました。北海道鉄道函樽線(当時は民営。現・函館本線)が開通して、倶知安駅と比羅夫駅(開通時は大曲り駅)が開業したのです。これによって、これまで不安定な道路や川による交通しかもたなかった倶知安が文明の最先端のインフラを手にすることになりました。当時は札幌よりもはるかに大きな商都だった小樽と直接結ばれた意味は大きく、やがて倶知安駅の周辺に街並みが生まれていきます。

 この勢いのままに1907(明治40)年には、小樽、岩内、寿都の3支庁を統合して生まれる後志支庁の誘致に成功。またこの年函樽線は、鉄道国有化によって国鉄となりました。1919(大正8)年には倶知安・京極間に京極軽便線が開業。同線は延伸をつづけて、1941(昭和16)年には、伊達紋別と倶知安を結ぶ胆振線となりました。


胆振線車両の走行区間標

胆振線車両の走行区間標


 ひらふのスキーにとって、小樽や札幌との直結をかなえた鉄道が果たした役割は、とても大きなものでした。そのいきさつについて、これから綴っていきましょう。


胆振線車両

倶知安-伊達紋別間を1985年まで運行していた胆振線


※今回掲載の写真は、すべて倶知安風土館の所蔵物を複写いたしております。

 倶知安の開拓以前のことも述べておきましょう。道外の方には特に、北海道には明治になるまで歴史と呼べるものがほとんどなかったと思われがちです。しかしもちろんそんなことはありません。北海道(本州方面からは蝦夷地と呼ばれていましたが)は北方の大陸を含む東アジアの一角で、本州以南の人々との交易などによって日本列島の営みに深く関わっていました。


『日本書紀』

『日本書紀』(慶長年間発行版)
〔国立国会図書館ホームページから転載〕

 「グラン・ヒラフ」の「ひらふ」という地名も、飛鳥時代の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)に由来しているとされています。

 日本最初の歴史書として8世紀に編纂された日本書紀には、越の国(北陸)の阿倍比羅夫が、7世紀半ばに大船団を率いて北海道に3度ほどやってきて、異族との戦を交えたとあります。異族とは、北方の漁労・海洋狩猟民オホーツク人とも考えられていますが、このとき阿倍が「後方羊蹄(しりべし)」に役所を設けたとの記述があるのです。その場所が実際にどこなのか?。遺跡も見つからず、その後の文献にもあらわれないので、よくわかっていません。北海道ではなく津軽ではないか、という異説もあるようです。

 しかしいずれにしても、「ひらふ」という地名はこの伝説がもとになっているとされ、さらにグラン・ヒラフと向き合う羊蹄山の旧名である「後方羊蹄山(しりべしやま)」も、この日本書紀の一節から取られたと考えるのが自然なようです。

 時代は大きく下って1904(明治37年)、わが国最初のタービン式機関をもつ新鋭船が、青函航路(青森と函館を結ぶ)の最初の連絡船 として就航しました。船につけられた名前は、「比羅夫丸」。北海道 にとって「比羅夫」という名前には、特別の意味があると言えるのかもしれません。


比羅夫丸

「(函館)連絡船比羅夫丸桟橋横附ノ景」絵はがき
〔函館市中央図書館蔵〕


参考文献:
『駅名の起源』(高倉新一郎・知里真志保・更科源蔵)国有鉄道札幌地法営業事務所・1950年 ほか