NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

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アーカイブ: 2009年12月

 ひらふにニセコ最初の、そして日本最長のリフトが生まれた1961年。この年がどんな年であったのか、振り返ってみましょう。



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 日本経済は岩戸景気と呼ばれた好況の終盤にあり、その後なお10年ほども順調な成長サイクルは続きます。この国は、戦後の復興をとげて高度成長への上昇気流に乗っていました。
 海外に目を向ければ、1月にアメリカで、ジョン・F・ケネディが43歳で大統領に就任。春にはソ連(当時)が人類初の有人衛星ヴォストーク1号を打ち上げ、ガガーリン飛行士が地球一周に成功していました。8月、東ドイツ(当時)が東西ベルリンの境界を封鎖。のちのベルリンの壁となります。
 日本はといえば、大相撲で柏戸と大鵬(第48代)が同時に横綱昇進。札幌では、札幌交響楽団が北海道で最初にして唯一のプロ・オーケストラとして誕生します。この年の本の ベストセラーは、松本清張の『砂の器』でした。



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 ニセコ高原比羅夫スキー場にリフトが開業した12月。青函トンネルの調査抗工事がスタート。夢の大プロジェクトがいよいよ実現に向けて動きだします(建設には四半世紀以上かかり、営業開始は1988年)。北海道の知床が国立公園へと答申されたのもこの月で、ユニークなニュースとしては、文豪夏目漱石が青年時代から(明治25年から22年間ほど)、倶知安(くっちゃん)町の北にある岩内に戸籍を移していたことがわかったのも、この12月でした。開拓時代の北海道は徴兵免除地だったことから取られた措置だったようです。


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 さてこうして振り返ってみると、世界は戦後の復興から新たな成長や政治体制の枠組みに入り、科学も宇宙時代に向けて急速な進歩を遂げていました。日本でも伸び盛りの経済の勢いを受けて、文化やスポーツが大きなターニングポイントを迎えていました。

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 「2万人の人出で」「ニセコスキー場で盛大にリフト開通式」―。
 これは1961年12月17日(日)、ニセコ高原比羅夫スキー場のオープンを告げる、北海道新聞の見出しです。
 第1第2リフトの合計1,070メートル(現在のキング第1ペアA・B線と、キング第2クワッドの前身)というスケールは、当時の延長距離では、日本有数の画期的なリフトの誕生でした。ひらふスキー場(現ニセコグラン・ヒラフ)の歴史は、ここからはじまったのです。


 日本のスキーリフトはまず戦後まもなく、札幌の藻岩山や志賀高原丸池(長野県)などに進駐軍専用として設置されました。やがて草津温泉スキー場(群馬県)や野沢温泉スキー場(長野県)に民間のリフトが作られていきます。1961年の北海道には、札幌の荒井山や藻岩山、小樽の天狗山などにすでに中小規模のリフトがありました。しかし、戦前から「東洋のサンモリッツ」と呼ばれたひらふに誕生したこのロングリフトが、やがて来る北海道での本格的なスキーブームの扉を大きく開けることになります。


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 12月17日。リフト開業日のひらふは久しぶりの快晴。札幌から初運行した臨時の準急スキー列車「ニセコ号」や胆振線(伊達紋別駅・倶知安間。1986年廃線)がニセコでのリフトの誕生を待ちかねたスキーヤーを運び、比羅夫駅からスキー場へは、国鉄バス、ニセコバス、銀嶺バス3社の計9台のバスが招待客や一般客をピストン輸送。北海道副知事やスキー連盟関係者と共に、ニセコ高原観光の竹中治社長がテープカットをすると、有名選手らがつぎつぎにリフトで上がり、美しいシュプールを描きながら滑走をはじめました。それに合わせた盛大な花火が興を添えまさに盛大なる様相を呈したわけです。ただし、この日一日でひらふに、2万人もの人出があったという新聞報道については、正確な入り込み人数として異論もあるようで、その事実の如何については、今後のページで取り上げてみたいと思います。


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プロローグ

テオドール・エードラー・フォン・レルヒ

 日本にスキーを伝えた重要な人物に、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(1869?1945)がいます。レルヒは日露戦争(1904?05年)でロシアに勝利して一躍世界の注目を集めた日本軍の研究のため、1910(明治43)年11月に来日しました。陸軍では、八甲田山での雪中行軍中に210名中199名が遭難した事件(1902年)の衝撃もあり、彼のスキー技術(長い一本杖スキー)に注目。新潟県の高田歩兵第58連隊でのスキー指導を依頼します。1912(明治45)年2月には、レルヒは北海道の旭川第七師団でもスキーを指導しました。そしてこの年の4月15日、彼は羊蹄山に登るために、倶知安(くっちゃん)村(当時)を訪れました。


蝦夷富士登山会本部前のレルヒ
登山中の一行


 倶知安町では、開基120年にあたる2012年に、レルヒ来町100年を迎えます。またその前年、2011年はひらふスキー場誕生50年。私たちは、こうした大きな節目に合わせて、「ニセコひらふのスキー史」をあらためて綴ってみたいと思います。その前史もたっぷりと含めて、ひらふを愛するあなたのためにロングシリーズではじまる「ひらふスキー場誕生50年物語」。どうぞご期待ください。


下山中